「エレキソルト」デバイス、この新語が2023年のトレンドワードとなりそうだ。「エレキソルト」デバイスは、食品が本来持ち得る「塩味」を約1.5倍(※)に増強するスプーンとお椀の名称。
(※)一般食品を模したサンプルと、食塩を30%低減させたサンプルでの塩味強度に関する評価の変化値。エレキソルトの技術(電流0.1~0.5 mA)を搭載した箸を用いた試験。現在または過去に減塩をしている/していた経験のある40~65歳男女31名に対し、試験用食品を食した際に感じた塩味強度をアンケートしたところ、31 名中29 名が「塩味が増した」と回答。
目次
- 「エレキソルト」デバイスとは
- 体当たりで挑んだ開発
- ヘルスサイエンスの将来ビジョン
「エレキソルト」デバイスとは
使うだけで、塩分やうま味成分を加えることなく塩味が約1.5倍(※1)に増強される「スプーンとお椀」が、キリンホールディングス株式会社(本文以下、キリン)で開発されている。見た目はいたって“普通”だが、いったいどのような原理で塩味が感じられるようになるのだろうか?
(※1)一般食品を模したサンプルと、食塩を30%低減させたサンプルでの塩味強度に関する評価の変化値。エレキソルトの技術(電流0.1~0.5 mA)を搭載した箸を用いた試験。現在または過去に減塩をしている/していた経験のある40~65歳男女31名に対し、試験用食品を食した際に感じた塩味強度をアンケートしたところ、31 名中29 名が「塩味が増した」と回答。
(写真提供:キリンホールディングス株式会社)
佐藤「『エレキソルト』デバイスは、”電気味覚”と呼ばれる技術を用いて塩味を増強させる仕組みです。デバイスを通じて、人体に影響のない微弱な電流を流すことで「塩味」が増強して感じられるというメカニズムです。
下の図のように、食品中の「しょっぱさ」のもとであるナトリウムイオンの“動き”を電気の力でコントロールすることによって、塩味を強く感じられるようにしているのです。塩味が強く感じられるようになれば、輪郭が引き締まった味わいと、余韻も感じられるようになります。
キリンホールディングス株式会社提供資料をもとに作成)
「エレキソルト」デバイスは、まさに減塩生活をサポートしてくれる力強い味方といえる。しかも、その使い方は実に簡単だ。
佐藤「スプーンには先端と柄の部分に、お椀には内部と底部に電極があります。下図のような電流の流れができることにより、塩味が増すという効果が発現します。
写真提供:キリンホールディングス株式会社
普及すれば、高齢者や持病のある方の食卓を劇的に変化させる可能性を持つ「エレキソルト」デバイス。ここで、その開発に至るまでのストーリーを追ってみよう。
体当たりで挑んだ開発
開発の原点は2017年に遡る。そこには、食事療法に悩む患者の存在があった。
佐藤「大学病院で研究をしていた2017年頃、研究の傍ら、医師の方々から患者さんの『お悩み』について伺っていました。
なかでも、食事療法で悩まれている高血圧などの方が私が想像していたよりもずっと多くいらっしゃっることを知り、実際に患者様にもヒアリングさせていただいたんです。すると、食事療法を始めるにあたって『最初が一番辛い』という実情を知りました。
元々、焼き肉やラーメンといった“濃い味”がお好きだった方も多く、『食事療法のために減塩食にしてみましょう』となると、改善の第一歩は大好きなものを諦めることでもあるんです。
日本人にとって、いかに塩味が重要な意味を持つかを示す調査もある。
キリンが、「減塩食を行っている」または「減塩食を行う意思のある」方に対してアンケート調査を行ったところ、約63%が減塩食に対して不満を感じていると回答したのだ。日本は、古くからの郷土食・保存食を中心に、例えば漬物や塩辛など、塩蔵食品が食卓に浸透している。塩分の摂取量も世界でもトップクラスに多い日本において、減塩に取り組むことは想像以上にハードルが高いのだ。
首都圏在住 40~79 歳男女(N=4,411)を対象にしたwebアンケート調査の結果(2021年6 月キリンホールディングス株式会社調べ)
減塩食の課題はどこに?いかに減塩が大変かは患者さんと接する中で把握できた佐藤さんだが、それだけでは、まだ完全に腑に落ちたとは言えない状況だったという。
「どこに『本当』の課題があるのだろうか」。悩む佐藤さんは、食事療法として提案されている1日あたりの食塩摂取量を6グラムに抑える「減塩食」を自身の生活に取り入れてみることにした。
佐藤「開始当初は『意外と続くかもしれない!』と思ったんですが、甘かったですね。続けていくうちに食事がどんどんつまらなくなっていったんです。私も元々濃い味大好きなので(笑)。食欲も徐々に徐々に落ちていてって…。
3か月後には体重が5キロも減っているような状態になり、食事療法の難しさを肌で感じることとなりました。実質的なスタート地点は、課題を抱いたこのときですね」
食生活は生命維持のためだけでなく、人生を豊かにする意味合いも非常に大きい。「食から医にわたる領域でイノベーションを創出する」ため、佐藤さんは会社と掛け合って、研究をスタートさせた。
とはいえ、業務時間の全てを研究に注ぎ込むことは出来ない。そこで、業務時間の10%を社会課題・健康課題を解決する技術の探索に当てることができる「アイディア検証制度」を利用し、「減塩食」をより豊かなものに変えられるような「エレキソルト」デバイスの研究に着手したのだ。
減塩食をサポートする技術が誕生!課題を解決し得る技術を探索していくなかで、佐藤さんは様々なアプローチを考案した。うま味調味料の改良や酸味による味覚調整…。しかし、どれも決め手に欠ける印象があったという。
一方、当時、新しい技術として注目され始めた領域があった。バーチャルリアリティー(以下、VR)だ。VRの学会では、映像だけでなく、触覚・嗅覚などに関する新しい技術も発表されるような新たな潮流が生まれつつあった。そんな新技術開発のトレンドにあって、佐藤さんが可能性を感じたのが「電気味覚」だったのだ。
実は、電気味覚自体は、200年以上前から知られている現象だ。主に、味覚異常がないかどうか検査するための機器で使われおり、医療分野においては“成熟した技術”だった。
改めて佐藤さんが研究を調べていくと、1990年代以降、食生活にも転用する研究も着実に進んでいることが分かった。中でも、特に電気味覚の権威である明治大学の宮下芳明先生の研究に佐藤さんは注目した。
「エレキソルト」デバイスの研究は、佐藤さんと宮下先生との出会いで加速する。
佐藤「宮下芳明先生に『健康課題を一緒に解決しませんか』というお声がけをしたところ、すぐに意気投合したんです。それが2019年の初めのことでした。そこから、技術開発を本格的に始動しました。
宮下先生がお持ちの技術と私どもキリンが課題とする「健康」を掛け合わせて、研究・実験を進めていきました。そうして、『塩味』を増強させるために必要な電流波形を生成する技術の開発に成功しました。さらに、その技術を応用することで『エレキソルト』デバイスが誕生しました」(※2)
開発にあたり、明治大学との役割の「切り分け」は明確だ。技術の基礎研究は明治大学、キリンは誰でも手軽に使えるような「社会実装」を実現するという連携をとることで両輪で開発は進んでいった。
この電流波形の技術を搭載した箸を用いた実験を行ったところ、協力者からは「味が強くなり、コクが感じられた」・「味が濃くなったので、おいしくなった気がした」という声が上がった。前人未踏の新技術開発は無事に成功した。
※2 減塩の食生活を送る方々に対して、電気味覚での塩味増強効果を確認した研究として世界初/キリン調べ(2022 年3 月1 日(火)時点の公開情報に基づく) 公開論文:Kaji, Y., Sato, A., Miyashita, H., Front. Virtual Real., 05 July 2022
エレキソルトの技術(電流0.1~0.5mA)を搭載した箸を用いた試験結果。一般食品を模したサンプルとして食塩0.80%の寒天ゲル 、減塩食を模したサンプルとして塩分30%低減させた食塩0.56%の寒天ゲルを使用(キリンホールディングス株式会社調べ)。効果には個人差があります
だが、新たな課題も浮かび上がってきた。微弱とはいえ「電気を身体に流す」ということに対する心理的な抵抗だ。しかし、佐藤さんは「メカニズムや、その技術が持つ意味を正しく発信していけば、時代と共に許容されるようになるはずだ」と考えている。電気を身体に流す美顔器やEMSのトレーニング器具が普及しているからこそ、「食」での活用も進んでいくだろうと佐藤さんは当初から将来のビジョンを描いていた。
様々な企業が加わった開発連携の“妙”現在(2022年11月時点)、社会的な課題として「減塩」に取り組む企業との協力体制も広がっている。例えば、「無塩ドットコム(株式会社ノルト)」や料理雑誌で有名なオレンジページと協力して、「エレキソルト」デバイスのプロトタイプ(試作品)を用いて、それぞれの会社が提供するサービス利用者に対して実証実験を進んでいる。
佐藤「最初にお話した患者様へのヒアリングをした際、『無塩ドットコム』さんや『オレンジページ』さんの本やSNSを利用されているというお話をたくさん伺っておりました。
さらに、2社が提供するサービスの会員様は、『食』への意識が非常に高い。会員様にお越しいただく実証実験では、有用なフィードバックをいただいております。
「舌の肥えた」利用者も、「エレキソルト」デバイスを用いた新しい食体験に、驚きの声をあげる。薄味の食事の「塩味」や「コク」、「うま味」の味わいを増強させることで、口に含んだときに「ふわっとした高揚感」や満足感を得られるそうだ。
「食」のリテラシーが高い生活者としての視点から「こういう食事にも使えるでのは?」「もっとこうしないと使い勝手が悪い」といった意見もあり、建設的に開発を進められている。
佐藤「まだプロトタイプなので、いただいたご意見をもとに修正かけています。やはり、一番のハードルが減塩を開始するタイミングとなっており、継続し始めて間もないころにも脱落される方も非常に多いので、そういったお客様にご家庭で使っていただけることを想定し準備を進めているところです。
日本では、年齢を問わず食塩の目標量を超えている方々が多いので、適用の範囲はすごく広いと考えております。日常の食生活で使い続けられることが重要なので、より良いものにするために日々取り組んでいます。
キリンホールディングス株式会社提供する資料と「自然に健康になれる持続可能な食環境づくりの推進に向けた検討会」報告書(厚生労働省)をもとに作成
ヘルスサイエンスの将来ビジョン
「エレキソルト」デバイスは、人々の食生活をより豊かに楽しいものにしてくれるはずだ。しかしながら、現代社会には減塩だけでなく多くの「課題」がある。
佐藤「例えば高齢社会の問題がありますよね。高齢社会の進行に伴って、健康課題はさらに増えることとなり、医療費の上昇も引き上がるのではないでしょうか。だからこそ、我々も一企業として社会課題に取り組んでいくべきだと考えています。特に、私たちは食のおいしさを守る事業と医療の事業を持っておりますので、お客様の『健幸』…健やかで幸せと書いて我々は『健幸』と呼んでいるのですが、『健幸』な生活をサポートする事業にしていきたいですね。ことヘルスサイエンスに力を入れている状況です。
『おいしい!』をいつまでも楽しむことができる社会が理想的です。健康の土台は食事なので、食のおいしさから健康を支えていきたいと思っております。
社会実装に付随して、新しいコミュニテイーや社会を創生していくことも「エレキソルト」デバイスに課せられた使命だ。「エレキソルト」デバイスがハブとなり、おいしく食習慣の改善ができる社会を実現させることが佐藤さんたちの目指すビジョンだ。
これからの時代を生きるために佐藤さん個人が考える「高齢社会をより良いものにするための提案」も伺った。
佐藤「高齢社会では、『引退』して時間的余裕ができる方々が増えることで、食事や旅行といった余暇を存分に楽しむことへの需要が増えていくのではないかと思います。ですから、いつまでも楽しく生きていけることを『エレキソルト』デバイスをはじめとした技術と製品で支えていきたいと感じております。
もちろん高齢社会のいい面だけを見ているわけではありません。加齢により身体機能が下がることは避けられないので、社会保障費の上昇、ご病気などで個々のQOLが下がってしまうことはどうしても発生してしまう。ただそれをネガティブに捉えるのではなく、私は科学技術の力、もともと技術者でしたので技術の力でサポートしながら、できるだけポジティブな要素を増やしていきたいと考えています。
「エレキソルト」デバイスは、単なる塩味やコクを増強する「だけ」の機械ではない。社会をも変化させ得る「エレキソルト」デバイスの社会実装を“舌”を長くして待ちたい。
プロフィールキリンホールディングス株式会社
ヘルスサイエンス事業部
新規事業グループ
佐藤愛(さとう・あい)氏
2010年キリンホールディングス入社。清涼飲料の研究開発、新規食品素材の開発と事業化検討、キリン食領域の研究企画に従事。その際、“アングラ研究”で大学と共同研究していたFoodTechの新技術を活用して、キリングループ社内の新規事業支援プログラムに応募し本事業を起案。
産学連携で新テクノロジーを生み出し、お客様の生活がより良いものになるよう変革することを目指して、本事業を推進する。
「実はもともと私も『濃い味』が大好きで…(笑)」。取材冒頭でそう語ってくれた佐藤さんの笑顔が忘れられない。
世紀の開発や発見には、人の意思や偶然が重なる。私たちの健やかな毎日は、佐藤さんをはじめとした「チャーミングで好奇心に満ちた偉大な技術者」に支えられているのだろう。
「エレキソルト」デバイスの社会実装は、きっと日本人の食生活と健康の両立を実現させてくれるはずだ。
2022年11月取材時点の情報です