SDGsやESG投資、エシカル消費など、持続可能な社会を目指す活動が世界中で活発化しているなかで、心がけたいとは思いつつ、何から始めたらいいかわからないという人もいるだろう。
そのきっかけのひとつとなり得るのが「共感経済」。
「共感経済」の考え方はいつ頃生まれたのか、なぜ「共感」が経済にとって重要なキーワードと認識されたのか、大阪大学社会ソリューションイニシアティブの堂目卓生教授に聞いた。
「他者への共感」が「フェアな競争」を生み出す
「『共感経済』の起源は、イギリスの哲学者アダム・スミスが1759年に出版した『道徳感情論』という書籍にあります。アダム・スミスと聞くと、1776年に出版した『国富論』の印象が強い方も多いでしょう」(堂目教授・以下同)
アダム・スミスは『国富論』のなかで、市場競争の意義について記した。投資においても労働においても、利己心に基づいて市場に参加することで、それぞれが利益を上げるための競争が始まる。その競争が行われていくと“見えざる手”が働き、社会全体が繁栄していくという内容だ。
「『国富論』を読むと、利己心に基づいた競争を肯定しているように解釈できますが、それ以前に出版していた『道徳感情論』では『競争はフェアプレイでないといけない』と記しているのです。ここでいうフェアプレイとは、独占、結託、権力との癒着、偽装といったものがない状態のことで、競争がフェアであれば市場は健全に機能し、もっともいい結果をもたらすと、アダム・スミスは説いています」
では、フェアな競争を生み出すには、どうしたらいいのだろうか。ポイントは「道徳的抑制」にあるという。
「道徳的抑制とは、『世間的にやってはいけないとされていることはやらない』ということです。法律などのルールがあれば実現するように思われますが、道徳的抑制は計算だけではできないものですし、『利己的な人間がインセンティブなしに道徳的抑制をするはずがない』という反論もあるでしょう。ここで重要になるのが『共感』なのです」
共感とは、他人の感情を写し取り、自分のなかにも同じ感情を引き起こそうとする心の働きのこと。
「泣いている人がいたら、心配になりますよね。心配しても自分に得はないはずなので、利己心からくる感情ではないといえます。相手の思いを汲み取り、その相手を傷付けたり怒らせたりしたくないという思いが芽生えることで、道徳的抑制が作用してフェアな競争につながっていくというわけです。また、社会の繁栄以上に大切な秩序をもたらします。秩序とは、生命、身体、財産、尊厳を傷付け合わないことです。その出発点は、他者に関心を持つことにあるといえます」
3人の哲学者・経済学者が目指した社会
アダム・スミスは、「公平な観察者=中立的な立場の人」に対する共感が秩序を生むとした。その前提で構想したのが、資本家が競争する社会。
「資本家が秩序のもとでフェアな競争を行うことで、限られた資源が有効活用されて資本が蓄積し、経済成長につながると考えられます。その結果、当時の人口の90~95%いたとされる労働者の雇用につながる。雇用は労働者にとっての救いの手となります。これこそアダム・スミスが言っていた“見えざる手”なのです」

この社会の形はひとつの国や地域にとどまらず、世界全体でも実現できると考えられていたという。
「アダム・スミスが本当に求めていたのは、特定の国や民族、文化、宗教などに染まっていない『公平な観察者』です。そのためには、国同士で理念や理性で考えるのではなく、肌と肌が触れ合う交流をして共感し合うことが重要です。例えば、別々の国の商人同士が直に取引を行い、『ちゃんと品物が届いた』『あの国の品物は念入りにつくられている』というやり取りのなかで信用と尊敬が生まれ、文化や国籍を超えた共感が広がっていきます。この意味で自由貿易がいかに重要かということを表しています」
アダム・スミスが「国や文化などの分断を乗り越え共感を広げる方法」という課題を残した後、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルやインドの経済学者アマルティア・センらが解決法を模索していく。
「ミルは、労働者に普通教育を普及させてスタートラインを揃え、全員で競争することで分断が減り、所得も等しく分配されると考えました。センは、人生の目的(ケーパビリティ)の拡大を重んじる社会を構想しました。資本を持つ人や健康に働ける人だけでなく、子どもや高齢者、障害者、外国人にも選択の幅を広げることで成長が促され、社会が繁栄していくとしています」

ジョン・スチュアート・ミルが目指した社会。機会均等化によって全員が競争に参加できるようにし、成長と分配を両立。

アマルティア・センが目指した社会。経済成長よりも、弱者ケーパビリティを拡大することを優先した。
“もの”の消費が引き起こした現代の課題
18世紀にアダム・スミスが提唱し、その後もさまざまな哲学者や経済学者が追求してきた「共感経済」だが、世界は別の方向に進んでいったという。
「中世は信仰の時代でしたが、異端審問や宗教戦争などもありました。
正義さえ守れば自由な取引ができる資本主義社会となり、物質的な豊かさが優先され、物を言わない自然は乱開発された。19世紀に10億人だった総人口は80億人にまで増え、エネルギー消費量やCO2の排出量、ゴミの排出量も比例して増えた。
「“もの”で幸せになろうとすると、“もの”を増やしてくれるリーダーや“もの”を奪いに来る国や人を排除してくれるリーダーを選ぶことになり、ますます“もの”から逃れられなくなります。その結果、人間自体が“もの”のように扱われるようになり、自然も破壊されてしまい、人口増大や気候変動といった問題を抱えることになりました。世界全体で大きな豪華客船をつくって優雅に航行してきたつもりが、実は船底に穴が開いていて、沈みかけている状況にあるのだといえます。穴が開く心配のない陸地を探すときが来ているのです」
いま求められている陸地こそ、利他でも利己でもない「共感経済」なのかもしれない。
「共感は、利他と利己を一致させる感情です。例えば、母親や父親は自身の赤ん坊が泣いていたら苦しくなりますよね。これは共感によるものです。そして、赤ん坊を楽にさせてあげることは、自分自身を苦しみから解放することであり、利他と利己が一致している状態だといえます。これが現代では求められているのだと思います。
いまこそ機能させていくべきだといえる「共感経済」。後編では、いまの社会に求められていること、一人ひとりができることを堂目教授に伺う。
(取材・文/有竹亮介)