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ペストの恐怖に駆られたロンドン市民は、デマや迷信に惑わされました。街には「魔法や黒魔術の使い手と称する悪の一党」がたちまち現れ、ペストから逃れられる運勢かどうか教えてほしいという客を数え切れないほど集め、お金を巻き上げていたといいます。
偽医者や怪しい薬売りも横行しました。「絶対の効能! ペスト予防にこの丸薬」「効果抜群! 空気感染を防ぐ栄養ドリンク」などのキャッチコピーで始まる広告が、通りに大量に貼られたといいます。
『ペストの記憶』には他にもいろいろなキャッチコピーがそのまま引用されているのですが、こうした惹句(じゃっく)を使って商品を宣伝するというやり方自体も、商業社会になったロンドンならではの光景だと言えるでしょう。
人目を惹く広告のみならず、ロンドン滅亡をうたって人々の不安を煽(あお)る本も多数出版されました。旧約聖書のヨナのように、「あと四十日すれば、ロンドンは滅びる」と街なかで叫ぶ者もいました。現実的なペストの恐怖と、それにつけこんで金儲けをしようとする者たちの煽りが相まって、人々の心は、不安が不安を呼ぶスパイラルに陥っていたと言えます。
感染におびえる市民だけでなく、ペストに感染した人たちや、彼らを看護する人たちも、正気を保つのは大変でした。看護人たちのあいだにはモラルの崩壊とも呼ぶべき状況が起こり、患者を窒息(ちっそく)させるなど悪辣(あくらつ)な手を用いて死期を早めたといううわさがあると、語り手は記しています。
そんな患者の一人が、結果的に殺人を犯してしまった話が書かれています。ある裕福な夫人が通りを歩いていると、大声でわめき散らす男に出くわしました。男は、自分はペストにかかっていると言います。夫人は恐怖のあまり逃げようとしますが、突然彼女にキスをしたくなった男は夫人を追いかけ、無理やりキスをしてしまいます。
なによりも極悪非道だったのは、事を成し終えると、男が奥さんにこう告げたことだった。
『ペストの記憶』には、ペストに感染した者は他人に病気をうつそうとする傾向があるといううわさがあり、それについて医師たちが論争したことも紹介されています。語り手はその傾向を否定し、すべての感染者が向こう見ずだったわけではないとも記していますが、一部にこうした人たちがいたことは事実のようです。
■『NHK100分de名著 デフォー ペストの記憶』より