【田園日記~農と人の物語~ Vol.9】果実の均一な美しさが秀逸「夢咲トマト」
かつては忍者の携帯食!?
青々とした稲穂に水滴が光る、夏の早朝。白み始めた空の下、作業場では、かんぴょうの原料となるユウガオの実を、足踏みの機械でむく、シュルシュルという独特の音が響いていた。
直径三十センチのまるまると太った実が、瞬く間に二ミリの薄さに削り出されている。
絹布のような美しい白い帯となって、空中に舞い上がる。
甲賀市水口(みなくち)町で生産される「水口かんぴょう」の歴史が始まったのは、一六〇〇年頃。算術にたけたことから豊臣秀吉に重用された五奉行の一人、近江国・水口岡山城主の長束正家によって生産が奨励されたと伝わる。
一説では、ここが「かんぴょう発祥の地」とされ、甲賀武士(忍者)の携帯食として重宝されたともいわれる。

JAこうか水口かんぴょう部会の部会長、宿谷(しゅくたに)光典さんは、ユウガオの実を熟練の技でむきながら、こう説明する。
「鮮度がだいじなんですよ。
早朝の日ざしを浴びて、風にゆらゆらと揺れる真っ白なユウガオの帯は、水口の夏の風物詩。
二日間、天日干しすると、日照と風の力で驚くほど甘さが凝縮した柔らかい水口かんぴょうとなる。

出荷すれば即完売!
とくに気をつけなくてはならないのが、「天気の変化」と宿谷さん。
つねにスマートフォンで雨雲の動きをチェックして、雨が降りそうなら屋根の下に、さおごと取り込むという。また、夜間はビニールハウス内に移動させる。
「かんぴょう生産は、天気を読むことがいちばんだいじです。昔ながらの無添加の天日干しで、かんぴょう作りをしますので、とくにカビが大敵です。突然の大雨に降られ、すべて廃棄になってしまったこともありました」
JAこうか水口かんぴょう部会の生産者は、十四人。令和五年、ユウガオの作付け面積は約六十アールで、かんぴょうの出荷量は百四十キロ。量が少なく貴重なため、出荷先のJA直売所では、すぐに売り切れてしまう。

このひと手間で、きれいな丸い形に
ユウガオの栽培は、代々農家の自家採種(育てた作物から種を採る)によって受け継がれてきた。
種まきは、三月。育苗箱にまいて双葉が出たらポットに鉢上げし、五月十日過ぎに黒マルチを張った畝(うね)に定植する。初期はウリハムシよけと保温のため、トンネル支柱を立て防虫ネットを掛ける。
本葉五~六枚で摘芯した後は、放任。
条間(すじま)三~四メートルの畑に、子づるを四方に伸ばして、のびのびと育てる。

六月に入ると真っ白な花がポツポツと咲き始め、開花から二十五日ほどで肥大した実を収穫できる。
「夕日が当たると透けて、きれいな花だなと思います。そのまま放っておくと実が寝てしまい、いびつな形になるので一個一個、上を向くように手で起こしてやります。この”玉直し”の作業で、きれいな丸い形になります」
果皮が、緑色から白色に変わってきたら収穫期。果皮にかるく爪を立てて、プチッと食い込むくらいの柔らかさがちょうどいい。熟度が進むと果皮がどんどん堅くなり、むけなくなってしまう。
夕方、宿谷さんは一個十キロ前後の大きな実を、つるに覆われた畑からていねいに取り出す。
「わたしが子どもの頃は、畑のある家はどこもユウガオを栽培して、かんぴょうを作っていました。かんぴょうのおいしさはもちろんですが、実のわたの部分を炒め、味つけして冷やした料理はツルンとした食感で、この土地ならではのごちそうです」

幻の味にせず、次世代へつなぐ
近年、生産者の高齢化とともに、ますます貴重な存在となっている水口かんぴょうだが「幻の味にしてはならない」と、宿谷さんら生産者は話す。
JAこうか水口営農経済センターの藤村啓伍さんも使命感に燃える一人だ。
「きめ細かく柔らかい肉質は、伝統ある水口かんぴょうの特徴です。農家のみなさんがたいせつにつないできた、この滋賀県を代表する特産品を、行政とも連携して、次世代に残さなくてはいけないと考えています」
四百年の歳月を経て、農家の手から手へと受け継がれてきたユウガオ栽培。
そして、天日干しの水口かんぴょう。
この夏も、まぶしい陽光をたっぷりと浴びて、ぐんぐんと甘みを増していく。

※当記事は、JAグループの月刊誌『家の光』2024年11月号に掲載されたものです。