オーシャンズが11月2日(土)に開催するデニムイベント「OCEANS DENIM CAMP(オーシャンズ デニム キャンプ 2019)」。“年に一度はデニムをはきかえよう”をスローガンに掲げたイベントまで、デニムにまつわるスペシャルコンテンツをお届けします!

今回は、「OCEANS DENIM CAMP」開催の地、渋谷とデニムの関係を、『渋カジが、わたしを作った。

』の著者・増田海治郎さんに書いてもらった。

「渋カジ」とは渋谷カジュアルの略で、1985年頃~1992年春頃に流行したアメカジをベースにしたストリートファッションだ。

主な担い手は1971~74年生まれの団塊ジュニア世代。渋カジは、85~87年のアメカジ期、88~89年の渋カジ期、90~91年のキレカジ&ハードアメカジ期、91~92年の終焉期の4つに大別できるが、一貫して変わらなかったのはアメリカ製のジーンズが主役だったことだ。


光GENJIも着た“ケミカルジョッパー”の流行

1987年6月に「STAR LIGHT(スターライト)」でデビューするやいなや、国民的アイドルへと駆け上がった光GENJI。その瞬間的な熱狂ぶりは凄まじく、全盛期のスマップを凌ぐほどだったと言われている。

そんな彼らが衣装として着ていたのが、ケミカルウォッシュのジョッパージーンズとジージャンのセットアップ。このケミカルウォッシュのジョッパージーンズの生みの親は、80年代前半に流行したイタリアの「ボール」というブランドだが、この頃になるとジーンズ専業ブランドやDCブランド、量販ブランドがコピーして、市場には大量に類似品が出回っていた。

85年にデビューしたリーバイスのシルバータグも、この流れに沿ったラインと言えるだろう。多感なティーンエイジャーの多くは、“ケミカルジョッパー”をこぞって買い求めたのだ。

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501、レッド・ウィング、ヘインズという三種の神器

しかし、渋谷に集まる有名私立高校生は、まったく違うジーンズをはいていた。アメリカの不良同士の抗争を描いた映画『ウォリアーズ』と『アウトサイダー』に影響を受けた彼らは、85年頃から仲間内でチームと呼ばれる集団を組むようになった。彼らのアメカジをベースにしたファッションは、88年頃に渋カジと呼ばれるようになり、東京での存在感を高めていた。

この頃に彼らがはいていたジーンズは、アメリカ製のリーバイス501。

現在は赤耳ではないレギュラーのアメリカ製501も高騰し始めているが、当時、アメ横のヤヨイなどでは5000円ほどで売っていた。

洗いのかけてない生デニムの501にレッド・ウィングのエンジニアブーツ、ヘインズの3枚パックの白Tシャツを合わせるのが定番のスタイリングで、冬はアヴィレックスかショットのB-3を羽織れば一丁上がり! こうして文字にすると驚くほどシンプルなファッションだが、デザインの主張が強かったDCブランドやケミカルジョッパーに対するカウンターカルチャーとして、大きな破壊力があった。

89年に入ると、雑誌「ポパイ」「ホットドッグ・プレス」「チェックメイト」などが渋カジのムーブメントを特集するようになり、都内私立高校生のみが特権的な情報が全国に伝わった。

当時はインターネットもガラケーもない時代で、雑誌は最も鮮度の高い情報の伝達媒体だった。若者の多くが学外の教科書のように読んでいた「ホットドッグ・プレス」は80万部を超え、「ポパイ」も30万部を超えていた。

やがて見よう見まねで真似した“なんちゃって渋カジ君”が渋谷に集まるようになり、リーバイス501は飛ぶように売れ始めた。ケミカルジョッパーは流行遅れの烙印を押され、はいていると笑われる存在に成り下がってしまった。

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価格高騰するヴィンテージジーンズとハードアメカジの台頭

しかし前述のとおり、当時の501は普通の高校生のお小遣いで買える価格だったので、この頃になると周りと差がつけられないアイテムになってしまった。で、渋カジのファッションリーダーたちが目を付けたのが、ヴィンテージの501。

この頃になると、中目黒の「デラウェア」、原宿の「フェイクα」「ヴォイス」「バナナボート」、渋谷の「メトロゴールド」などがヴィンテージの古着を集積するようになり、渋カジ君を惹きつけた。といっても価格はまだ平和なもので、チェックメイトは1990年4月号で「決定版ユーズドジーンズ大百科」には、50年代のギャラ入りのリーバイス501XXが1万4800円で掲載されている。

しかし90年の夏頃から、ヴィンテージジーンズの価格は一気に高騰する。501XXも5万円を超える価格が当たり前になり、物によっては10万円を超えるものも出てきた。

時代はバブル景気の最中だったので、多くの普通の高校生には手が出ないものになってしまった。

そんな彼らがヴィンテージの501の次に目を付けたのが、70年代に一世を風靡したベルボトムとブーツカットのデッドストック。リーバイス517とリーバイス646を筆頭に、リー、ラングラー、マニアックなところではランドラバー、UFOなどのブランドで、ジーンズショップの倉庫には70年代のデッドストックが大量に眠っていた。

1万円以下で買えるものがほとんどで、なおかつストレートの501よりブーツの収まり方が自然だったことから、90年秋頃から91年夏頃にかけて爆発的にヒット。典型的なスタイルは、タンクトップの上にバンソンのレザージャケット(TJPかRJP)を羽織って、首元にゴローズのネイティブジュエリーを付け、ボトムスはリーバイス646にレッド・ウィングのエンジニアブーツ。裾は切らずに、引きずってはくのがお約束だった。彼らのスタイルは、ハードボイルドなアメカジということで“ハードアメカジ”と呼ばれた。

デニムと渋谷の関係をプレイバック。「渋カジ」にとってデニムとは何だったのか?
90年代に入ってからはネイティブアクセやコンチョを使ったウエスタン調のアメカジが流行に。足元のレッド・ウィングは定番となっていた。

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501に始まり、501で終わった“渋カジ”

90年秋頃にキレカジとハードアメカジの二派に枝分かれした渋カジの流れは、91年の春頃になると混沌とする。スケーター、モッズ、ダンサー、サーファーなどのライフスタイルが背景にあるファッションが台頭し、渋カジとひと括りに呼ぶのが不可能な状態になってしまったのだ。

そんな渋カジの最後のムーブメントが、91年の秋に顕在化したデルカジ(モデルカジュアルの略)。日大武山高校のカリスマ高校生たちが生み出したこのスタイルは、モノトーンを基調としたスタイルで、彼らが選択したのはグレーに色落ちしたブラックの古着の501だった。

デニムと渋谷の関係をプレイバック。「渋カジ」にとってデニムとは何だったのか?
この特集以降、キレカジとデルカジは衰退していく。

92年の春頃になると、デルカジの流れは一気に衰退し、渋カジは完全に実体を失う。

渋カジはリーバイス501に始まり、501で終わったのである。

増田海治郎=文

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