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「会社の暖簾を外したとき、自分は必要とされる絵の具の一色になれるのか。それだけが不安だった」。

表参道の路地を進んで数分、自身のアートワークに囲まれたオフィスで、アートディレクター小杉幸一さんは独立への不安をそう語る。

PARCOの「パルコアラ」、SUNTORY「特茶」、SUZUKI「ハスラー」、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」のロゴデザインなど型にはまらない広告のアートディレクション、クリエイティブディレクターとして広告業界を牽引してきた小杉さん。昨年、長年勤めていた大手広告代理店・博報堂を退社し、独立したばかりだ。

「正直、辞めることはめちゃくちゃ不安でした。ひとりになったとき、例えば仕事相手にとって自分が絵の具の中の何色として手に取られるのかはわからない。絵を描く時って、よくわからない色では、手に取られにくいじゃないですか。だから組み合わせ次第で何色にでもなれるような色がいい。みんなに使ってもらえる原色でいたいですね」。

日本を代表する大手広告代理店を辞めて7カ月が経った。「自分が何色になるか」を模索する小杉さんの仕事、作品づくりは「自分らしさ」との葛藤の連続だったという。


絵を描くこと=褒められることだった

アートディレクター・小杉幸一(39)が、「自分の色」を見つけるまで

生まれは神奈川県川崎市。家族でクリエイティブな職業についていた人はいないが、趣味で絵を書いていた祖父、真多呂人形づくりの先生であった祖母、手先が器用な父、書道をやっていた母がいた。そんな環境の中、小杉さんは幼い頃から、「絵が得意な子」として周囲に認識されていたという。

「というのも、別に僕の実力じゃなくて、小1で僕の宿題だった自由研究を父が手伝ったから(笑)。それがたまたま賞をもらったもんだから、美術ができる人というキャラが出来上がってしまった。でもそのキャラが、『僕、美術好きかも』っていう気持ちを育ててくれたんです」。

当時クラスで流行っていたキャラクターのイラストを書くと、友達が喜んでくれた。美術の時間は写実的に絵を描くと先生が褒めてくれた。おばあちゃんに似顔絵をプレゼントするといつもより頭を撫でてくれた。小杉さんにとって絵を描くことは、褒められることと同じだったのだ。

「これを描きたい!という願望はなかったけど、自分の描いたもので誰かを喜ばせることができるのが嬉しかった。勉強も運動も平均的だったので、なおさら美術は特別でした」。

課題に対するアウトプットがゴールだった学生時代。漫画を描いて、みんなに配ったこともあったという。やがて進路を意識し始めるころ、友人に「絵が上手いんだから、美大行けば?」と言われて受験を決めた。

「それまで絵に対するポリシーみたいなものはなかったのですが、改めて勉強し始めて、僕は抽象画や印象派のような絵画よりも、マグリットやダリのようなメッセージを感じられるものが好きだと気づきました。人に伝えたい、という気持ちに共感できたんです」。

それはデザインの考え方に近かった。一浪して美大を受験し、武蔵美術大学に入学。そこで興味を持ったのがポスタービジュアルだ。

「グラフィックデザイン全盛期だったからか、一番心を惹かれたのはポスターだったんです」。


プロセス重視の制作を教わった美大時代

アートディレクター・小杉幸一(39)が、「自分の色」を見つけるまで

美大ではアウトプットを評価されるかと思いきや、意外にも課題をやり遂げるまでのプロセスを重視されたという。その経験は今も小杉さんのクリエイティブに影響を与えているようだ。

「どうやって課題を解決していくかの過程が大事なんです。例えば、単純な直線1本1本にさえ『この線にはどんな意味があるのか?』といった細かいプロセスが求められた。そこで気付いたのはデザインの言語化の重要性でした。『なんとなく』の感性で勝負するのではなく、プロセスを組み立てるための論理的思考がクリエイティブには必要なんです」。

ただの線1本にどんなコンセプトをのせるのか。線に意味を持たせるのもそれを言語化するのも、できるのは制作者である自分だけだ。がむしゃらに描くのではなく、アウトプットの過程を突き詰めていく手法は、その後、新卒で博報堂に入社した後も受け継がれた。特に大貫卓也、佐藤可士和など、偉大な先人たちのクリエイティブには大きな衝撃を受けた。

「佐藤可士和さんのデザインは、『デザインの概念』を超越したものです。目的のためには手段を選ばない。歴史に残るデザインとその作り手がたくさんいた時代に入社できたことは幸運でした」。

とは言え、偉大な先輩たちの元で、毎日膨大な量のインプットを強いられる作業は決して生易しいものではなかった。

「そもそも勉強が苦手なのに吸収しないといけないことが多すぎて、頭はパンク寸前でした。このままではインプットとアウトプットのバランスが崩れると思ったので、業務の合間に友達や家族にロゴやデザインを無償で作って、インプットしたものを吐き出す作業をしていましたね」。

アートディレクター・小杉幸一(39)が、「自分の色」を見つけるまで

デザインを言語化し、体系立てて説明するスキルを身につけるうえでは、師匠である佐野研二郎氏の影響を強く受けたという。

「佐野さんには、例えば、自分のスケジュール管理やプレゼンのような作業的な部分においても“デザインする”ことの重要性を教わりました。

一般的にデザインってクリエイティブな感性で勝負するイメージが強いと思うんですが、マネジメントや編集能力も必要なんですよね」。

デザイナーとしての膨大な知識を吸収する一方で、小杉さんはクリエイターとしての「自分らしさ」を見つけられず、もがいていた。

「表現者ってアウトプットに個性を求めることが多いですよね。色使いや書体、写真のトーン、無数にある表現の組み合わせの中で、『これは〇〇さんっぽいよね』と言われるような作品をつくることが個性だと思っていた。それが自分の色にもなると思っていました。でも僕には、それがなかった」。

自分の色が見つからない……。模索を続ける中で小杉さんはどのように自分の色を見つけ、独立するまでに至ったのか。その続きは後編で。

 

藤野ゆり=文 小島マサヒロ=写真

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