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OCEANS’s PEOPLE ―第二の人生を歩む男たち―
人生の道筋は1本ではない。志半ばで挫折したり、やりたいことを見つけたり。

これまで歩んできた仕事を捨て、新たな活路を見いだした男たちの、志と背景、努力と苦悩の物語に耳を傾けよう。

現在53歳の久古千昭はプロゴルファーである。26歳の時に初めてクラブを握り、5年後にはプロテストに合格していた。なぜそんなことができたのかは、話を聞いた今でもわからない。無責任な言い方をすれば、彼は天才だったのだ。

にも関わらず、プロゴルファーは彼のゴールではなかった。今、彼は「第二」ではなく「第三」……もしかしたら「第四」ぐらいの人生を歩んでいるとも言える。まず語られるのは、彼がいかにして育ったかという話。

26歳から未知の世界へ。“脱サラ”プロゴルファー・久古千昭の青春時代

久古千昭はエントランスの前でのんびりとタバコをふかしていた。千葉県八千代市の「ピピゴルフリゾート」。140人の生徒を擁する「梶川・久古ゴルフアカデミー」の会場である。赤いウェアに身を包んだ久古さん、まあとにかく「デカくて分厚い」のであった。

聞けば身長187cm、体重90kg。“飛ばし屋”のムードがみなぎっている。

「そうですね、飛距離には自信があります。まあ、間違いなく昔のほうが飛んだけどね」。

初手から一切壁を感じさせないフランクな佇まい。なんというか、千葉の気のいいアンちゃんなコミュニケーションなのである。1965年、ここからクルマで40分ほどの成田市の不動産業を営む家に生まれた。ゴルフ場の多い土地柄だが、幼少期はおろか学生時代も社会に出てからも、ほぼほぼゴルフと縁のない人生を送ってきた。

26歳から未知の世界へ。“脱サラ”プロゴルファー・久古千昭の青春時代

「でも子供のころから、将来は何かプロスポーツの選手になりたいとは思ってたんですよ」。

学生時代はバレー部。このタッパである。センターというポジションでエースとして活躍していた。

とはいえ、バレーボールは将来の選択肢には入っていなかった。

「いやいや、僕なんか無理ですもん(笑)。当時千葉はバレー王国で、習志野高校なんかが全国大会で活躍していた時代で。無名な公立高校のバレー部なんて全然ダメです。いかにタッパがあっても部活より先のレベルに行けるはずもなかったです」。

そんな人物が、一旦社会に出てから突如プロゴルファーを目指し始めるのだから人生は面白い。だがまだ、それは先の話。兎にも角にも久古青年、高校3年生の最後の大会を前にバレー部からフェードアウトしてしまった。理由は「バイトしなくちゃならなかったから」。

「仲間のバイクに面白がって乗ってて、山に突っ込んで全損ですわ。それで弁償しなくちゃならなかったから(笑)」。

久古さん自身、興味本位で仲間からバイクを借りたのではなかった。

当時、自身もすでに自動二輪の免許を取得済み。で、バイトしてローンで買ったバイクを夜な夜な乗り回していたのだ。愛車はスズキ・GSX-R。まんまサーキットで走れる性能を有する“最強のレーサーレプリカ”。80年代以降に巻き起こったバイクブームを象徴するような1台だった。

「当時の400ccクラスでは最高に性能のいいマシンでした。あの頃の成田の走り屋たちは“ニュータウン”に行ってたんです。造成はされていたけど家がまだ建ってなくて、恰好のサーキットでしたね。ちょうど7分で1周できるぐらいの周回路があって……」。

26歳から未知の世界へ。“脱サラ”プロゴルファー・久古千昭の青春時代

いやはやもうなんというか、堰を切ったように話が溢れ出す。そりゃもうバレーボールどころではなかった気持ちが、30年以上たってもひしひしと伝わってくるのである。

「……成田ニュータウンの真ん中に赤坂公園っていうのがあってね、その前の駐車場からスタートしてタイムを取るんです。

公道だからもちろん信号はあって、周回途中に赤信号になれば停まらなきゃならないんだけど、いっつも走っているとだいたいどのタイミングでスタートを切ると信号に引っかからないかがわかってくるんですね。それで信号をやり過ごしながら周回するという(笑)。当時でいうローリング族をやってました」。

小学生のころにF1の中継を見てモータースポーツにハマったという。1976年シーズンの最終戦は富士スピードウェイで開催され、フェラーリのニキ・ラウダとマクラーレンのジェームズ・ハントがチャンピオンを争う戦いとなった。当時はスーパーカーブーム全盛。池沢さとしの漫画「サーキットの狼」や、テレビ東京の「スーパーカークイズ」などが人気を博し、多くの小学生男子はスーパーカーと、その向こうにあるモータースポーツの世界観に夢中になったものだが、久古さんの場合は筋が通り過ぎていた。

「本当はレーシングドライバーになりたい、と思ったんです。でもあれってめちゃくちゃお金のかかる世界でしょ? だからラジコンに行きました。中学生のときに、親父の不動産屋で仕事していた内装業者でバイトをさせてもらって、まずクルマ(のラジコン)を手に入れたんです。もちろんエンジンです(笑)」。

雑用しまくりで日当5000円、夏休み毎日働いて手に入れたマシンはデビュー戦で砕け散った。

「成田の端っこのほうに広域道路というのがありましてね。田んぼ沿いに道が一直線に続いてるんです。そこでラジコンを走らせたんですよ……気分的には、100km/hぐらい出てた気がします(笑)。仲間の運転するスーパーカブに2ケツして後部シートから操縦して、ラジコンをずーっと追っていくんです。ところがラジコンがカーブを曲がりきれずにコースアウトして用水路に……僕らは止まればいいのに、なぜか追っかけてるスーパーカブごとふたりしてそのまんま用水路にドボーン!って(笑)」。

26歳から未知の世界へ。“脱サラ”プロゴルファー・久古千昭の青春時代

事件はすぐに発覚し、友達の親父にぶん殴られながらも、用水路に落ちたスーパーカブを引き上げるミッションは滞りなく展開。沈んだバイクにロープをかけてみんなで引っ張る大騒動になるなかで、久古少年は「僕のラジコンも沈んでるんです」とは言い出すこともできず、ひと夏のバイトの結晶は成田の用水路の藻屑と消えたのでした。

が、F1で芽生えたモータースポーツへの熱は冷めやらず。

「そのあとは、“今度は空中だ!”と、また同じ設備会社でバイトしてヘリコプターのラジコンを手に入れて……当時『ラジコン技術』っていう分厚い技術書があったんですけど、それで操縦法をみっちり勉強したはずだったんですけど、自分で組み立てたからどこかバランスが悪かったんでしょうね…… 飛ばしたその日に墜落、全損(笑)」。

ゲラゲラ笑う取材陣に、「それでは終わんないですよ」と久古さんが追い打ちをかける。

「最後は飛行機を飛ばしました。これも一発でおっこちちゃったんですけどね」。

全部自分でバイトして稼いだお金で遊んだもの。で、全部、買うや否やクラッシュ。
そんな中学時代を経て、バイクブーム真っ只中の高校生活へとたどり着く。

なかなかプロゴルファーを目指さなくて申し訳ないのだけれど、これが久古千昭の真実だからしょうがないのである。子供のころから夢見ていた“何かプロスポーツの選手”という未来像が、その後、バイクと結びついて成熟して行ったとしても決して不思議な話ではないのだ。

「うん、高校時代には僕の夢は、世界を転戦するバイクのロードレーサーということになっていました」。

そして「僕の高校時代の名簿に“卒業後の進路”って出ていないんですよ」と笑う。というのも、高校を卒業する時点で公式の書類に記すことができる進路が決まらなかったのだ。夢とか絵空事ではなく、そのときには本気で「バイクのレースで食っていく」ことを目指していた。だから、とにかくバイクでレースにチャレンジできる環境を目指したのだ。

それがいわば久古さんの「第一の人生」。

だが仮にこれがうまくいっていれば、高校の卒業時のデータには「ロードレーサー」なんて書かれているわけである。

2018年を生きる我々は、彼がロードレーサーになっていないことを知っている。だが一足飛びにプロゴルファーになるわけではない。彼はバイクにどんなふうに取り組み、どんなふうに挫折したのか。

次回はそのお話。

【プロフィール】
久古千昭さん
1965年、千葉県成田市生まれ。26歳で初めてクラブを握り、脱サラの末プロゴルファー研修生を経て31歳でプロテスト合格。現在、「梶川・久古ゴルフアカデミー」主宰。プロゴルファーでありつつ不動産業を営む。

稲田 平=撮影 武田篤典=取材・文

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