オクタンはオリジナルのジャガーDタイプ プロトタイプを引っぱり出して、当時開発に携わった伝説のテスター、ノーマン・デュィスに会いに行くという計画を立てた。これ以上に素晴らしい誕生祝いは思いつかない。


コヴェントリーという街は概してロマンチックな街とはいいがたい。他の多くの英国の街には普通に見られる中世の回廊や広いロイヤルパーク、または市の中心を貫く荘厳な川などは、どれもない。あるのは無機質なコンクリートの街並ばかりだ。これは第二次大戦中のドイツ空軍と、その数年後に後始末を担当したこの街の都市計画担当者との共同作業の賜物だ。しかし車好きにとってコヴェントリーは、世界で最も心を揺さぶる場所のひとつである。

ジャガーDタイプ プロトタイプを駆って伝説のテストドライバーに会いに行く


ここは今日まで100 社を超える様々なメーカーの故郷として常に自動車の街であった。
街は絶え間なく変化を続けているが、市の中心部、低層のタワーブロックの間を走る内環状道路の緩やかなカーブを描く高架橋を見れば、1950~60 年代の躍進の時代に、この街の市会議員たちが理想としていた街の姿を知ることができる。街の歴史を知るためにも、レディ・ゴディバと並んでコヴェントリーの象徴であるジャガーを運転してみるのは悪くない。そしてそのジャガーがDタイプであったなら、もう完璧だ。環状道路は素敵な風景とはいえないが、これらモノクロームのコンクリートウォールは1950年代のル・マンカーの咆哮を堪能するには最高の音響効果を発揮する。

Dタイプは、1951年にジャガーがCタイプで勝ち取ったル・マンでの勝利をさらに確固たるものとしたレーシングモデルだ。今回はジャガー社が収蔵するファクトリープロトタイプ、シャシーナンバーXKC401を借り出した。
シャシーナンバー中の"C"は、開発中のその当時、誰も車の名称を決めていなかったことを物語っている。

ジャガーDタイプ プロトタイプを駆って伝説のテストドライバーに会いに行く


現代のヒストリックカーマーケットにおけるこの車の価値は少なく見積もっても7~10ミリオン英ポンドはする。私たちのプランは、これをラッシュアワーのコヴェントリー市内と、英国で最も混雑する高速道路のひとつ"M6"でドライブしようという計画だ。保険を掛けてくれたジャガー社には本当に感謝している。

今回のミッドランド地方へのドライブの目的は、1950 年代半ばにこの車の開発に係わり、数千マイルを走破した人物に会いに行くことである。その人とは、"レジェンド"、ノーマン・デュイスだ。


彼はCとD、そしてEタイプを擁した栄光の時代にジャガー社のチーフディベロップメントテストエンジニアだった。デュイスは98歳になったが、どう見ても20歳は若く見え、この車そのもののように元気だ。ノーマンは1985年に引退した後、コヴェントリーからも遠くないシュロップシャーに住んでいる。現在でもデュイスはジャガー関連の活動を続けていて、1年の半分は外出している。

私たちは今回、彼がアリゾナでのC、Dタイプのイヤーミーティングに出発する直前に合流することができたのだ。コヴェントリーからそこまでのルートは大変興味深い複合ルートで、混んだ街中、郊外の追い越し車線、高速道路、それに極めて英国的な田舎のワインディングロードを含んでいる。
これらを本物のル・マンカーで行くわけだ。雨が降らないことを祈ろう。

カメラマンのマット・ハウエルと私は、今回のドライブの出発点としては最も相応しいと思われるコヴェントリーにあるジャガー・エンジニアリングセンターのウィリアム・ライオンズ像の前で落ち合った。サー・ウィリアムの優しい眼差しを受けながらうずくまるDタイプ、OVC501は行き交う社員たちの視線を吸い寄せていた。彼らの多くはこの車の重要性やその素晴らしさは知らないだろうが、マルコム・セイヤーのペンによる、官能的なボディラインは誰の目にも素晴らしいと映ったはずだ。その短く戦闘的なノーズのせいで、車はコンパクトでたくましく見える。
どこから見ても隙のないレースマシンだ。

「いままでにDタイプを運転したことがあるかね」と、ジャガー・ヘリテージのテクニシャン、デイブがファミリーレストランのマネジャーのような笑顔で尋ねた。「最近は…、ないな…」と私は答えた。

「OK、クラッチはレース仕様だ。そしてもし不注意にスロットルを開けると、キャブからペトロールが溢れてエンジンがおシャカだ」と、薄いドライバーズドアを閉め、私が座棺に座ったような気分になる前に有益なアドバイスをくれた。今や自分がすべきことは、この人集りからさっさと抜け出し、21世紀のコヴェントリーの街に乗り出すことだけだ。
前方へクランクしたギアレバーをちょっと揺らしてニュートラルへ入っていることを確認し、重いクラッチを踏み、スロットルをほんの1~2インチ開けてガスをくれ、スターターボタンを押すとDタイプは間髪をいれず点火した。素晴らしいエグゾーストノートとともに回転計の針は驚いたように跳ね上がる。

クラッチはちょっと敏感だが、難しすぎることはない。慣れるには少々時間がかかるとデイブが注意してくれたので、失敗を避けるためにスロットルの踏み加減を調整しているが、これは回転を上げ続けてストレートシックスをうたわせる絶好の言い訳なんじゃないか。側出しのエグゾーストパイプはパリパリした荒い鼻息を出すが、思ったほど押し付けがましくはなく、街中の速度域では楽しげに唸りはするが、近隣に迷惑をかけるほどの音ではない。暴走族仕様のヴォクスホール・コルサあたりのほうがよっぽど煩いに違いない。

ジャガーDタイプ プロトタイプを駆って伝説のテストドライバーに会いに行く


この車と仲良くなる段階というのは常に危険だ。これから時価10ミリオン英ポンドのアルミボディの芸術品を、街中の雑踏に滑り込ませようというのだから。幸いなことに、Dタイプはドライバーが身を乗り出せば、セクシーな左右のフロントフェンダーのふくらみに触れる(なでる、という方がより適切な言葉かもしれない)ことができると思うくらいにコンパクトだ。この車にはDタイプの特徴ともいえるリアフィンがまだない。あれは1954 年にル・マンのためにつけられたのだ。フィンのない後ろ姿ももちろん悪くない。

ドライバーが軽い車重がもたらすスムーズな挙動と正確なステアリングの真価を実感すると、信頼は一気に増す。このDタイプの乾燥重量は約870㎏にすぎず、 それは私の小さな初代ホンダ・インサイトより少し重いだけだ。ブレーキはパーフェクトだ。瞬時に確実に効くが、これはあくまで一般道での話だ。2014 年のル・マン・クラシックでアンディ・ウォーレスと組んでロングノーズのワークスDタイプをドライブしたリチャード・ミーディンのように、ミュルザンヌのシケインで140mph(225㎞ /h)からのブレーキングをする場合には意見が変わるかもしれない。

Dタイプのコクピットは剝きだしのアルミ素材のリベット留め構造だが、リチャードはそれがどんなに航空機的であるかを説明した。アルミ板を曲げただけのシート、実用一点張りの計器板、陰気な計器、艶消しの黒いペイントなど、まるで第二次大戦の戦闘機のようだが、それも当然かもしれない。なぜならXKC401は大戦終了後わずか9 年後につくられたマシンなのだ。

CタイプとDタイプは同じ時期にレースに参戦していたが、両車には設計と性能に大きな差があった。Dタイプは溶接されたサブフレームをフロントに持つモノコックだが、Cタイプは鋼管スペースフレームだった。またDタイプが最新のダンロップ製アロイホイールなのに対し、Cタイプは旧式なワイヤーホイールであった。肝心のエンジンは、DタイプではCタイプから継承した直列6気筒XKユニットながら、シリンダーヘッドに改良が施された。径が大きくてまっすぐなインレットポート、17/8インチ(約47.6 ㎜)径に拡大された吸気バルブ、カムプロファイルの変更などだ。またコーナーでのオイルの偏りを防ぐべく、潤滑システムをドライサンプとしたが、これによって、オイルパンの厚みの2インチ(約50 ㎜)分、エンジンを低く搭載できるようになった。これによってボディデザイナーのマルコム・セイヤーが、より低く、よりスリークなボディデザインを生み出せることになった。

ジャガーDタイプ プロトタイプを駆って伝説のテストドライバーに会いに行く


今回のシャシーナンバーXKC401は、1954 年3月ごろに完成し、続いてシャシーナンバー402から404の3台のワークスカーがル・マンにエントリーした。XKC 401はOVC 501として登録され、402がOK V1、403がOKV2 、404がOKV 3となった。ジャガーはワークスDタイプのル・マン初出場に際して超一流のドライバーチームを結成して臨んだ。ドライバーはハミルトン、ロルト、モス、ウォーカー、ホワイトヘッド、およびウォートンの布陣だ。だが、ジャガー勢はメカニカルトラブルにより敗退し、4.9リッター・フェラーリに乗るゴンザレスが辛勝した。

そして1955 年のル・マンに向けて設計改良は大きく進歩した。最大の変更はフロントのサブフレームだ。溶接ではなくフロントバルクヘッドへのボルト留め構造として、レース中の修理作業がより迅速に行えるようにした。また材質がマグネシウム合金からニッケル鋼に変わった。その理由は肉厚を薄くできるためで、サブフレームは依然として軽量だった。さらに外観上で顕著なのは、1955 年のワークスマシンのノーズだ。高速域でのより良好な空力を追求して、7インチ(約178㎜)延長されたのだ。1955 年仕様のエンジンは他のいろいろな改良点とともに、吸排気バルブを拡大して約30bhp増加の270bhpを絞り出した。

ジャガーDタイプ プロトタイプを駆って伝説のテストドライバーに会いに行く


1955 年のル・マンは、ピエール・ルヴェーのメルセデスが観衆の中に飛び込み、ピエール自身と83人の観客が犠牲になるというル・マン史上最悪のアクシデントにより不名誉なものとなった。トップを走っていたメルセデスがレース途中で本社の意向により引き上げたことで、ワークスDタイプ(XKD505)のホーソン/ビューブ組の勝利に終わった。

1956 年ル・マンのために、ジャガーは3台のワークスDタイプのうち2 台にルーカス製燃料噴射装置を備えた。だが、レースでは3台すべてが事故などでリタイアした。ホーソンが乗ったインジェクション仕様のXKD605は、燃料配管のヘアラインクラックがリタイアの原因だったという。だが、プライベートエントリーのエキュリー・エコッスのDタイプ(MWS301)に乗るフロックハート/サンダーソン組がDタイプにとって2度目のル・マンでの優勝をもたらした。

エキュリー・エコッスは1957年もDタイプで参戦し、1位と2位を制し、上位6 位までの5台をDタイプが占める快挙を成し遂げた。ジャガーは、1956 年から後にEタイプとなる新型車開発に集中するためレース活動を中止していた。この後のジャガーのル・マンでの勝利は、1987年まで待たなければならない。

また1957年にはブラウンズレーンの工場が火災に見舞われ、生産中であった9 台のDタイプのほか、DタイプのロードバージョンであるXKSSの生産設備も焼失したことが、レース活動の中止を決定的なものとした。総計では42台のDタイプが販売され、そのうちの16台は販売台数を押し上げる試みとしてXKSSにコンバートされた。Dタイプの時代はここに終わった。

Dタイプでの高速道路ドライブは最高だ。回転計は3400rpmに留めた。これは60 年前のサルト・サーキットにタイムワープしているような体験だ。私のサングラスとハンチングは撮影上の演出に見えるかもしれないが、気流は低いスクリーンを超えてもろに顔に当たるので、視界を確保し頭を保温するのに、これらは実際に役立っている。エンジンもコクピットの暖房の役に立つ。スロットルを踏むたびに足回りに暖気を感じる。

エンジンの回転数は重要だ。あるところから、まるで車がまどろみから目覚めるようにエグゾーストノートは甲高く強力になり、Dタイプは本来の姿である高速のレーシングマシンに変身し始める。2 年前、私はル・マンの勝者であるアンディ・ウォーレスとジュネーヴまでDタイプで走ったことがある。アンディは、ブガッティ・ヴェイロンをテストするのが仕事だったが、Dタイプのエグゾーストノートを聞きたいがために、ルート中のすべてのトンネルでスロットルを緩めることをしなかった。

残念ながらシャロップシャーへのルート上にはトンネルはない。混雑したA級道路を通って、ノーマンの家に着いた。巨大なジャガーのロゴマークが貼られたガレージドアは、家の持ち主の素性を示すちょっとしたヒントである。そこには駐車するスペースがほとんどないので半分を歩道に乗せたまま放置した。この車がこの通りのほとんどの家をまとめた額と同じ価値があることは思い出さないよう努め、1950 年代には皆そうしていたのだと自分を納得させた。ノーマンは湯沸かし器のスイッチを入れ、私たちはDタイプについておしゃべりを始めた。それは、彼がすべてを知り尽くしている車なのだ。

「そいつは最終のプロトタイプだった。私は数千マイルをカバーした後、MI R A(コヴェントリーの北部ナニートンにある自動車産業研究団体のテストコース)まで行って、そこでテストを行った。車は時間がなく未塗装のままだった。いったい何マイル走ったのか確かめたことはないが、古いログブックが屋根裏にあったから、いつの日かヒマができたら、ゆっくりと見て見るつもりだよ」

「当初Cタイプのプログラムに参加した時は重量バランスがまったく気に入らなかった。巨大なリアの燃料タンクが酷いオーバーステアを引き起こしたのだ。だから私の優先順位は、次のモデルでこの点を改善することだった。あれは当初はDタイプとは呼ばれていなかったが、私たち実験部はこの名称とした。それが論理的であるように思えたのだ」 

「Dタイプでの最もドラマチックな瞬間は、この車XKC401でだと思う。当時ジャガーが買収していたデイムラーにはグラスファイバーボディのスポーツカーSP250があって、ジャガーのチーフエンジニア、ビル・ヘインズはDタイプもグラスファイバーボンネットの使用を検討すべきだと考えた。そこで私たちはひとつ作り、私はテストのためにこれを装着してMIR Aに向かったのだ。私は同時にギアボックスもテストしていたのだが、各部を完全に暖めるため、2 ~3時間にわたる高回転、ハイスピードのバンク走行が必要だった。所定の周回を終え、バンクからレイルウェイストレートに下りたところ、ギアボックスが動かなくなり、車はインフィールドに向かい、そこで横転して私を下敷きにしたのだ。2人の大きなアイルランド人の若者が救助に突進してきた。彼らは私が這い出るに充分なだけ車を持ち上げてくれ、その晩のパブでは彼らが飲めるだけのギネスを奢った。その後戻ってヘインズに壊れたグラスファイバーボンネットの破片を渡してこう言ったんだ。『ほれ、テスト完了』とな」

ジャガーDタイプ プロトタイプを駆って伝説のテストドライバーに会いに行く


「私たちのやり方は他の多くの会社とはかなり異なっていたと思う。まず、元ブリッグスカニンガムにいた私たちの素晴らしいボディ職人、ボブ・ブレークが詰めているMIRAに行く。彼は私たちが必要だと決めたものならなんでも作る。それをリベットで留め、テストする。そして結果を設計室に渡す。これが最も迅速な方法だった」

私はおおいに会話を楽しみ、ノーマンの思い出話を一日中聞いていたかった。しかしまだ写真を撮らなければならず、走らなければならないのだ。ノーマンの家の通りを右折するとB4371号線に入る。曲がりくねった典型的な英国の道で、Dタイプにとっては完璧な運動場だ。もっとも、この車の性能のほんの一部を引っ張り出すことしかできそうにないが。初期Dタイプは245bhpに過ぎないが、軽量のためにとても速く感じる。Dタイプは広い高速サーキットでのレースのために造られたマシンだが、ライドクオリティは驚くほど高い。ダイナミクス、ステアリング、サスペンション、ブレーキといったすべてがバランスよく働く。Dタイプは、一緒にラテンを踊っていて、貴方がどちらに動くかを直感的に知るパートナーのように貴方の動きに反応する。

ノーマンの家に戻り"彼の"Dタイプをコヴェントリーに戻すまでの間、一杯のお茶の時間を楽しんだ。思いついて私は尋ねてみた。「あの頃に戻ったとして、Dタイプをどう直したいと思いますか」と。

彼は少し考えてからこう言った。「特にないな。Dタイプは正しかった。最初からね」

1954 ジャガーDタイプ
エンジン:3442cc 直列6気筒DOHC、ウェバーDCO3キャブレター×3基
最大出力:245bhp/5750rpm 最大トルク:242lb/4000rpm 変速機:前進4段マニュアル、後輪駆動 ステアリング:ラック・ピニオン
サスペンション(前):ダブルウィッシュボーン、横置きトーションバー、テレスコピックダンパー
サスペンション(後):固定軸、トレーリングアームAアーム、横置きトーションバー、テレスコピックダンパー
ブレーキ:4輪ダンロップディスク 重量:約870kg(ドライ)
性能・最高速度:約140mph(225km/h)、ル・マン用2.93:1アクスルレシオ装着時170mph(274km/h)
0-60mph:4.7秒( アクスルレシオ3.54:1)