22日、沖縄県西原町であった戦没者追悼式の開始前、初めて参列した城間英徳さん(85)=町棚原=が、住民戦没者刻銘碑をじっと見つめていた。家族7人を失い孤児として生きた。
4人兄弟の次男として生まれ、沖縄戦時は5歳。異母兄弟の長男を除き、母や弟と棚原グスクに近い墓に避難している中で「四男」は誕生した。
棚原グスク一帯は日本軍が防衛拠点の一つとして陣地を構築。米軍上陸後の1945年4月上旬から激しい砲爆撃にさらされた。
四男の世話を担った祖父が、自宅と墓を行き来する途中で砲爆撃に襲われた。一家は南部へ避難したが、自宅の壕にとどまった祖母は 亡くなった。
母は幼子3人を連れて具志頭村(現八重瀬町)にたどり着いたが、避難しようとした瓦家を爆弾が襲った。城間さんの2、3メートル先で、3つ下の三男は即死。
「もう親が死んで泣くとか、苦しいとか何も感じない。赤ちゃんはまだ生きていたみたいだけど、真っ暗で誰も助けられず、逃げるだけで精いっぱいだった」
玉城村(現南城市)前川の自然壕まで逃げた後、米軍に保護された。避難中、砲弾の破片が刺さるなど背中や耳に大けがを負った。
戦後、母たちが犠牲になった場所に行ったが、遺骨は見当たらなかった。伊江島の飛行場建設に徴用された父栄昌さんも、防衛隊に召集された叔父もどこでどう亡くなったか分からない。祖父母の遺骨も見つからなかった。
家族7人が生きた証しは西原町の刻銘碑と、糸満市の平和の礎に刻まれた名前だけ。戦時の混乱で名付けられなかったという末の弟は、「四男」と刻まれた。
苦しみは戦後も続いた。親戚の家を転々とさせられ、物心つくころから畑仕事などにかり出された。学校に行けたのは宜野座村の収容所にいた時期だけで、「ずっと孤独」だった。
浮かぶのは「ただただ悔しい気持ちだけ」と繰り返す城間さん。「戦は、終わった後の苦しみも大きい。もう、戦争にかかわることは何もやらんでほしい」と願った。