江戸時代に活躍した戯作者、恋川春町とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「戯作者で浮世絵師でもあった恋川は蔦屋重三郎と組んで、空前のヒットを飛ばした。
■松平定信の政治のせいで命を落とした作家
娯楽本の版元である蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が、「江戸のメディア王」といわれるほど成功したのは、田沼意次(渡辺謙)の治世下では重商主義のもと、自由な空気におおわれ、出版への統制もほとんど行われなかったからだった。
この時代、出版統制がなかったわけではない。享保の改革を断行した8代将軍徳川吉宗のもとで享保7年(1722)、ドラマなどで知られる名奉行「大岡越前」こと大岡忠相が出した町触に、次のことも記されていた。好色本は徐々に絶版にする。徳川家について書いた本の出版は禁じる――。
しかし、時間が経つにつれて規制は有名無実化し、田沼政治のもとでは、とりわけ天明年間(1781~89)には、好色本も公儀を揶揄したような書物もふつうに流通し、版元がお咎めを受けるようなことはなかった。
それが、後ろ盾だった10代将軍家治(眞島秀和)が急死し、田沼意次(渡辺謙)が失脚した後、天明7年(1787)6月19日、松平定信(井上祐貴)が老中首座に就くと、状況は激変する。田沼への恨みつらみもあり、田沼政治を全否定しようとする定信のもと、自由と奢侈のせいで世の中が乱れたというストーリーがつくられ、文武奨励と質素倹約が打ち出された。
それはすぐに、ひとりの有能な作家の死につながってしまった。
■「田沼の転落」には喜ぶが…
NHK大河ドラマ「べらぼう」の第34回「ありがた山とかたじけ茄子」(9月7日放送)では、蔦重は作者たちを集めて、「正しくて厳しくて息が詰まるような」「ちいとも面白くねえ世の中」に「書をもって抗いてえ」と宣言。皮切りに天明8年(1788)正月、朋誠堂喜三二作の黄表紙『文武二道万石通』を刊行した。
内容は、源頼朝が重臣の畠山重忠に命じて、武士たちを文武に秀でた者と、どうにもならない「ぬらくら武士」に分けさせ、「ぬらくら」を文武のいずれかに改心させるというものだ。畠山が梅八紋のついた裃を着ているので、定信を揶揄しているとわかる。そうであれば頼朝は将軍家斉である。
ところが、第35回「間違凧文武二道」(9月14日放送)では、定信はこの黄表紙を読んで、自分の政治が評価されているとよろこび、喜三二を神のように褒めた。
転がり落ちた「ぬらくら武士」が、七曜紋のついた衣装から田沼意次とわかり、ほかにも元勘定奉行の松本秀持や勘定組頭の土山宗次郎もいるなど、田沼派が廃除された様子が生々しく描かれていた。定信は読んでそのことに留飲を下げた、という描き方だった。
■定信が激怒した風刺本の内容
もっとも、それも束の間のこと。翌寛政元年(1789)に蔦重が刊行した恋川春町作『鸚鵡返文武二道』を読んだ定信は、第36回「鸚鵡のけりは鴨」(9月21日放送)でその内容に対し、「これはもはや謀反も同然」と激怒する。そして、町奉行所の与力以下が日本橋通油町の耕書堂に押しかけ、これらの黄表紙の絶版を申しつけるのだ。
『鸚鵡返文武二道』は、ざっと以下のような内容だった。
醍醐天皇の御代、世の中が華美に流れたので、補佐役の菅秀才は、源義経を起用して人々に武芸を指南させる。だが、みな牛若丸の千人斬りを真似して人々に斬りかかったり、乗馬の訓練だといって女郎ばかりか男娼に馬乗りになったりと、無茶苦茶なことをはじめる。
しかも菅秀才は梅八紋から、どう考えても定信だし、『九官鳥の言葉』は定信が書いた教諭書『鸚鵡言』を茶化しているのは明らか。それに「鸚鵡返」とは喜三二の『文武二道万石通』の続編だというメッセージでもある。さすがにこれでは、露骨な定信批判だといわれても、反論できる内容ではなかった。
■爆発的ヒットが意味すること
しかし、これらの黄表紙が大ヒットした事実は、文武奨励と質素倹約を旨とした定信の改革に、すでに多くの人がうんざりしていた当時の世相を伝える。
まず、喜三二の『文武二道万石通』については、滝沢馬琴が『近世物之本江戸作者部類』に「古今未曽有の大流行にて、早春より袋入にせられ、市中を売あるきたり。(中略)赤本の作ありてより以来、かばかり行われしものは前未聞の事也といふ」と記した。かつてない大流行で、早春から袋入りにして草双紙売りが売り歩き、草双紙がはじまって以来、これほど売れた作品はない、というのだ。
馬琴は同著に春町の黄表紙についても記している。「『万石通』の後編『鸚鵡返文武二道』いよいよますます行れて、こも亦大半紙摺りの袋入にせられて、二三月比まで市中売あるきたり」。つまり、こちらもますます大評判で、正月に刊行されたのち、2月、3月まで江戸で売り歩かれた、という。
しかし、すでに田沼時代は過ぎ去り、風紀に対して厳格な松平定信による「改革」の真っただ中である。
■「隠密」を使って作家の個人情報を集めていた
ところで、政治の経験がないまま30歳で老中に抜擢された定信は、世情に疎かった。このため、家臣の水野為永は隠密を使い、官界やそれを取り巻く世間の情報を広く集め、要旨をまとめては、折に触れ定信に渡していた。門外不出だったその史料は、のちにまとめられて『よしの冊子』と名づけられた。書かれているのは、個人についての評判や風聞、人事などが中心である。
このなかに、『鸚鵡返文武二道』が刊行された直後に流れた話として、この黄表紙が駿河小島藩主、松平信義が書いたものだという「噂」が掲載されている。恋川春町はこの小島藩に仕える武士で、本名は倉橋格といった。「恋川春町」とは、小島藩の江戸藩邸が「小石川春日町」にあったことに由来する筆名だった。
むろん、『よしの冊子』に書かれたことは世間の噂にすぎず、史実とはかぎらないが、定信が「噂」を収集し、人物を評定していたことにも、この時代の怖さが感じられる。ともかく『鸚鵡返文武二道』は、春町の主君に危害がおよびかねない噂のもとをつくることになった、ということは伝わる。
『よしの冊子』には、朋誠堂喜三二についての「噂」も記されている。彼は出羽国久保田藩の江戸留守居役で、本名は平沢常富といった。
■厳格な改革のせいで失われたもの
その後、喜三二は藩主の佐竹公から、戯作の筆を折るように命じられたとされる。事実、以後は黄表紙から手を引き、狂歌を詠むのに専念した。
片や恋川春町は、寛政元年7月7日に死去したとされる。前出の馬琴著『近世物之本江戸作者部類』には、「当時世の風聞に、右の草紙の事につきて白川侯へめさらしに、春町病臥にて辞してまゐらず」と記されている。定信に出頭を命じられたが、病気を理由に参上しなかった、というのだ。
もっとも、老中の定信がみずから、他藩の江戸留守居役を召し出すという記述には、疑問符をつける向きもある。また、その裏づけもない。
「べらぼう」では、主君をはじめ周囲に迷惑がおよぶのを極力避けるために、春町は切腹を決断する。実際、春町が自害したという見方はあるが、これも裏づけはない。ただ、主君にまで迷惑がおよんだ以上、春町がそういう選択をしたところで、なんら違和感はない。
いずれにせよ、松平定信による厳格な改革のもと、こうした戯作も、戯作者たちも追い詰められていったことは事実であった。恋川春町の命が絶え、それと同時に、彼の戯作の営みが絶えたことも、また事実であった。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
その内容が老中松平定信の眼に入ったことで、運命が大きく変わった」という――。
■松平定信の政治のせいで命を落とした作家
娯楽本の版元である蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が、「江戸のメディア王」といわれるほど成功したのは、田沼意次(渡辺謙)の治世下では重商主義のもと、自由な空気におおわれ、出版への統制もほとんど行われなかったからだった。
この時代、出版統制がなかったわけではない。享保の改革を断行した8代将軍徳川吉宗のもとで享保7年(1722)、ドラマなどで知られる名奉行「大岡越前」こと大岡忠相が出した町触に、次のことも記されていた。好色本は徐々に絶版にする。徳川家について書いた本の出版は禁じる――。
しかし、時間が経つにつれて規制は有名無実化し、田沼政治のもとでは、とりわけ天明年間(1781~89)には、好色本も公儀を揶揄したような書物もふつうに流通し、版元がお咎めを受けるようなことはなかった。
それが、後ろ盾だった10代将軍家治(眞島秀和)が急死し、田沼意次(渡辺謙)が失脚した後、天明7年(1787)6月19日、松平定信(井上祐貴)が老中首座に就くと、状況は激変する。田沼への恨みつらみもあり、田沼政治を全否定しようとする定信のもと、自由と奢侈のせいで世の中が乱れたというストーリーがつくられ、文武奨励と質素倹約が打ち出された。
それはすぐに、ひとりの有能な作家の死につながってしまった。
■「田沼の転落」には喜ぶが…
NHK大河ドラマ「べらぼう」の第34回「ありがた山とかたじけ茄子」(9月7日放送)では、蔦重は作者たちを集めて、「正しくて厳しくて息が詰まるような」「ちいとも面白くねえ世の中」に「書をもって抗いてえ」と宣言。皮切りに天明8年(1788)正月、朋誠堂喜三二作の黄表紙『文武二道万石通』を刊行した。
内容は、源頼朝が重臣の畠山重忠に命じて、武士たちを文武に秀でた者と、どうにもならない「ぬらくら武士」に分けさせ、「ぬらくら」を文武のいずれかに改心させるというものだ。畠山が梅八紋のついた裃を着ているので、定信を揶揄しているとわかる。そうであれば頼朝は将軍家斉である。
ところが、第35回「間違凧文武二道」(9月14日放送)では、定信はこの黄表紙を読んで、自分の政治が評価されているとよろこび、喜三二を神のように褒めた。
転がり落ちた「ぬらくら武士」が、七曜紋のついた衣装から田沼意次とわかり、ほかにも元勘定奉行の松本秀持や勘定組頭の土山宗次郎もいるなど、田沼派が廃除された様子が生々しく描かれていた。定信は読んでそのことに留飲を下げた、という描き方だった。
■定信が激怒した風刺本の内容
もっとも、それも束の間のこと。翌寛政元年(1789)に蔦重が刊行した恋川春町作『鸚鵡返文武二道』を読んだ定信は、第36回「鸚鵡のけりは鴨」(9月21日放送)でその内容に対し、「これはもはや謀反も同然」と激怒する。そして、町奉行所の与力以下が日本橋通油町の耕書堂に押しかけ、これらの黄表紙の絶版を申しつけるのだ。
『鸚鵡返文武二道』は、ざっと以下のような内容だった。
醍醐天皇の御代、世の中が華美に流れたので、補佐役の菅秀才は、源義経を起用して人々に武芸を指南させる。だが、みな牛若丸の千人斬りを真似して人々に斬りかかったり、乗馬の訓練だといって女郎ばかりか男娼に馬乗りになったりと、無茶苦茶なことをはじめる。
そこで秀才は、自著『九官鳥の言葉』を教科書に道徳を教えようとするが、今度は本に書かれた「天下国家を治るは凧をあげるようなもの」というたとえを、みな凧を上げれば国が収まる、と読み違え、熱心に凧を上げはじめる――。
しかも菅秀才は梅八紋から、どう考えても定信だし、『九官鳥の言葉』は定信が書いた教諭書『鸚鵡言』を茶化しているのは明らか。それに「鸚鵡返」とは喜三二の『文武二道万石通』の続編だというメッセージでもある。さすがにこれでは、露骨な定信批判だといわれても、反論できる内容ではなかった。
■爆発的ヒットが意味すること
しかし、これらの黄表紙が大ヒットした事実は、文武奨励と質素倹約を旨とした定信の改革に、すでに多くの人がうんざりしていた当時の世相を伝える。
まず、喜三二の『文武二道万石通』については、滝沢馬琴が『近世物之本江戸作者部類』に「古今未曽有の大流行にて、早春より袋入にせられ、市中を売あるきたり。(中略)赤本の作ありてより以来、かばかり行われしものは前未聞の事也といふ」と記した。かつてない大流行で、早春から袋入りにして草双紙売りが売り歩き、草双紙がはじまって以来、これほど売れた作品はない、というのだ。
馬琴は同著に春町の黄表紙についても記している。「『万石通』の後編『鸚鵡返文武二道』いよいよますます行れて、こも亦大半紙摺りの袋入にせられて、二三月比まで市中売あるきたり」。つまり、こちらもますます大評判で、正月に刊行されたのち、2月、3月まで江戸で売り歩かれた、という。
しかし、すでに田沼時代は過ぎ去り、風紀に対して厳格な松平定信による「改革」の真っただ中である。
こうした露骨な幕府批判本が市中に流通している状況が、いつまでも放置されるとは、蔦重も思わなかったのではないだろうか。
■「隠密」を使って作家の個人情報を集めていた
ところで、政治の経験がないまま30歳で老中に抜擢された定信は、世情に疎かった。このため、家臣の水野為永は隠密を使い、官界やそれを取り巻く世間の情報を広く集め、要旨をまとめては、折に触れ定信に渡していた。門外不出だったその史料は、のちにまとめられて『よしの冊子』と名づけられた。書かれているのは、個人についての評判や風聞、人事などが中心である。
このなかに、『鸚鵡返文武二道』が刊行された直後に流れた話として、この黄表紙が駿河小島藩主、松平信義が書いたものだという「噂」が掲載されている。恋川春町はこの小島藩に仕える武士で、本名は倉橋格といった。「恋川春町」とは、小島藩の江戸藩邸が「小石川春日町」にあったことに由来する筆名だった。
むろん、『よしの冊子』に書かれたことは世間の噂にすぎず、史実とはかぎらないが、定信が「噂」を収集し、人物を評定していたことにも、この時代の怖さが感じられる。ともかく『鸚鵡返文武二道』は、春町の主君に危害がおよびかねない噂のもとをつくることになった、ということは伝わる。
『よしの冊子』には、朋誠堂喜三二についての「噂」も記されている。彼は出羽国久保田藩の江戸留守居役で、本名は平沢常富といった。
その彼が寛政元年(1789)3月ごろ、藩主の佐竹義和から叱責されたというのだ。しかも、定信から「この作者は家老職に向かない」といわれ、江戸留守居役から外して国勝手、つまり在国を命じた、という内容だった。
■厳格な改革のせいで失われたもの
その後、喜三二は藩主の佐竹公から、戯作の筆を折るように命じられたとされる。事実、以後は黄表紙から手を引き、狂歌を詠むのに専念した。
片や恋川春町は、寛政元年7月7日に死去したとされる。前出の馬琴著『近世物之本江戸作者部類』には、「当時世の風聞に、右の草紙の事につきて白川侯へめさらしに、春町病臥にて辞してまゐらず」と記されている。定信に出頭を命じられたが、病気を理由に参上しなかった、というのだ。
もっとも、老中の定信がみずから、他藩の江戸留守居役を召し出すという記述には、疑問符をつける向きもある。また、その裏づけもない。
「べらぼう」では、主君をはじめ周囲に迷惑がおよぶのを極力避けるために、春町は切腹を決断する。実際、春町が自害したという見方はあるが、これも裏づけはない。ただ、主君にまで迷惑がおよんだ以上、春町がそういう選択をしたところで、なんら違和感はない。
いずれにせよ、松平定信による厳格な改革のもと、こうした戯作も、戯作者たちも追い詰められていったことは事実であった。恋川春町の命が絶え、それと同時に、彼の戯作の営みが絶えたことも、また事実であった。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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