徳川家康が晩年に建てた名古屋城とはどんな城だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「江戸城の初代天守に次ぐ規模だった。
スケールだけでなく、外見や見事な障壁画などからは家康にとって特別な城だったことを感じさせる」という――。
■なぜ徳川家康は名古屋に巨大な城を建てたのか
名古屋城の築城工事がはじまったのは慶長15年(1610)のことだった。つまり、関ヶ原合戦が終わって10年後に新造された、比較的「新しい」城だということになる。築城を命じたのは徳川家康で、家康みずから名古屋の地を選び、大規模な城郭を築いた。それにはわけがあった。
織田信長や豊臣秀吉の出身地でもある尾張国(愛知県西部)は、東国と畿内を結ぶ枢要の地だった。ただし、その中心都市はしばらく清州だった。
関ヶ原合戦ののちに家康は、豊臣恩顧の大名の代表格であった福島正則を、その清州から広島に移封。代わりに自身の四男である松平忠吉を、52万石の大禄で清州に置いた。このことからも、家康がいかに尾張を重視していたかがわかる。
だが、その忠吉は慶長12年(1607)に早世してしまう。そこで家康は、当時はまだ8歳だった九男の義直を清州城主に指名し、2年後に入城させた。
ところが、すぐに清州を廃城にし、かつて織田信長が幼少期をすごした那古屋城の旧地に、まったく新しく築城することを決意するのである。
■秀吉の築いた大坂城を上回るスケール
家康の頭にあったのは、まだ大坂に健在の秀吉の遺児、豊臣秀頼の存在だった。関ヶ原合戦後、江戸と大坂に権力が居ならぶ「二重公儀体制」をそれなりに容認していた家康だったが、次第に自身の死後のことを考えるようになったものと思われる。
徳川を脅かすとすれば豊臣であり、豊臣を牽制するために、そして万が一、豊臣方が江戸を攻める有事が発生したときのためにも、枢要の地である尾張を防御する体制を固める必要があった。
この時点で家康はすでに、大坂を包囲する地に彦根城や丹波篠山城をはじめとする新しい城郭を、諸大名に助役を命ずる天下普請で築かせていた。では、尾張はどう固めるか。既存の清州城は、城内を五条川が縦断しているため、これ以上の拡張工事が困難だった。しかも、東海道から離れているのは防衛上の弱点だ、というのが家康の判断だったようだ。
こうして選ばれたのが、北と西を湿地に囲まれた名古屋台地の西北端だった。そして、西国を中心とする20の大名に助役が命ぜられ、慶長15年に工事がはじまった。
20万人もの人夫が動員された結果、同年のうちには、総延長が8キロにもおよぶ石垣がほぼ積み終えられた。慶長17年(1612)末には大小の天守が完成し、本丸御殿も同20年までに竣工している。
また、この天下普請を通じて、名古屋城が秀吉の築いた大坂城を上回る堅固な大城郭だと、諸大名に知らしめることにも、家康は成功した。
■最新の建築様式を採用
昭和20年(1945)5月14日未明、B29の焼夷弾攻撃で焼失した名古屋城天守は、多くの点でほかの城の天守を圧倒していた。名高い金の鯱にかぎらず、まずスケールが違った。天守本体が36.1メートル、天守台の石垣を合わせると55.6メートルという高さは、完成した慶長17年当時、家康が建てた江戸城の初代天守に次ぐ規模だった。
その後、寛永4年(1627)に徳川家光が再建した大坂城天守は本体が43.9メートル、やはり家光が寛永15年(1638)に建て直した江戸城天守は同44.8メートルだったが、ともに半世紀も経たずに焼失したので、以後はずっと名古屋城が日本最大の天守だった。
大坂に向けた「大坂城を上回る大城郭だ」というメッセージも兼ねていたのだろう。徳川将軍家の威信の結晶のような城だった。そして、この天守の規模は最新の建築様式、すなわち「層塔型」を導入してこそ可能になった。
天守は元来、書院造の建物に小さな物見台を載せたものだった。織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城の天守もこの形式で、「望楼型」といわれる。現存天守では犬山城を見るとわかりやすいが、1重目か2重目に大きな入母屋破風がある。
一方、層塔型は1重ずつ、フロア面積を一定の比率で縮小しながら積み木のように重ねた形式で、大きな入母屋破風はない。
構造が単純なので(外観の重数と内部の階数も一致する)木材を規格化しやすく、工期も短縮でき、たちまち主流となった。むろん、構造が単純なほうが規模も拡大しやすい。名古屋城天守のスケールは、新式の層塔型を採用することで可能になった。
■戦闘力は隠して美しさを強調
しかし、構造はシンプルでも(シンプルだからこそか)、大いに装飾されている。2重目から上の屋根には、大きな破風がたくさんつく。平側(長辺の側)は2重目に三角形の千鳥破風が2つ、3重目には大きな千鳥破風が、4重目には軒を丸く迫り上げた軒唐破風がある。妻(南北)側には、2重目に千鳥破風のほか2つの軒唐破風が、3重目には千鳥破風が2つ、4重目にも千鳥破風がつく。
こうして破風の数は史上最多の22にもなり、たがい違いに配された千鳥破風のおかげでリズムと躍動感が生まれている。また、1階と2階が同じ大きさなので1重目には破風がなく、そのぶん2重目から上にすべての破風が集中。いまにも空に向かって飛び立ちそうな躍動感がある。
この天守は同時に、かなり戦闘的でもある。大天守には連結する小天守の地階から入るが、入口の門扉をくぐるとコの字型に折れ曲がってまた門扉があり、橋台を通って大天守に到達すると、その入口の口御門は総鉄板張りで、上からは石落としがのぞき、その先の大天守地階は食い違いの枡形になっていた。

ただ、厳重な防備は外から見えなかった。大天守の壁に多く開いていた鉄砲狭間も、表面を塗りつぶした「隠し狭間」で、外からは見えなかった。また、いずれの窓も白漆喰を塗った土戸が格子の外側にあって、それを閉めると窓が真っ白く見えるように工夫されていた。つまり、その戦闘的な性格を極力隠し、美しさを強調しようとしていた。
戦闘のための城であっても、戦闘力よりも美しさを強調して余裕を見せる。それが将軍家の威信だったのだろう。
■城主の住居が二の丸御殿のワケ
ところで、天守は城主の居所ではない。城主になった徳川義直は、いったんは本丸御殿に入ったが、元和6年(1620)に二の丸御殿が完成すると移り、以後、尾張藩邸および藩主の住居は二の丸御殿と定められた。そのことは、名古屋城の特殊な性質と関係している。
東海道の要所に、徳川がみずから築いたこの城は、将軍が江戸から畿内に向かう際の宿所としての役割も負った。家康自身、大坂冬の陣に向けて駿府城を発ったのち、名古屋城で陣容を整えている。
その後も、寛永3年(1626)には、2代目の将軍職を譲って大御所とよばれていた秀忠が上洛前に宿泊。
寛永11(1634)年には3代将軍家光が、やはり上洛する途上で泊まっている。本丸御殿は、そのときに寝泊まりする場所に定められたのである。
家光が訪れる前には、大きな改修が加えられた。玄関から対面所までは慶長年間の建築が残され、そこから西側に、新しく御成書院(近代以降は上洛殿と呼ばれている)や、入浴施設である湯殿書院、黒木書院などが、雁行するように増築された。
■復元された障壁画に見る徳川家の威信
これだけの城だから、城郭が封建時代の遺物として否定された時代にも、文化的な価値が認められ、明治12年(1879)には、陸軍省、内務省、大蔵省が永久保存を決定した。こうして多くの建造物が残され、昭和5年(1930)には、大小天守、本丸御殿など24棟が国宝となった。
ところが空襲で、天守や御殿をはじめ多くが焼失してしまったのは残念でならない。
しかし、大小天守は名古屋復興の象徴として、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造で、焼失前の外観が曲がりなりにも復元された。それより大事なのは、平成30年(2018)に復元整備が終了した本丸御殿である。
再現されたのは木造の建物だけではない。障壁画も、焼失を免れた1049面が復元模写され、焼失したものもすべて精密に復元され、いま本丸御殿内を鮮やかに飾っている。慶長年間の建物を飾っていた障壁画には、家康の意向が強く反映され、寛永年間に増築された部分の装飾は、すでに不動の権力を確立していた徳川将軍への敬意が示されている。
そこには徳川の威信が象徴的に表されている。
名古屋城とはそれほど特別な城だった。あとは天守の木造復元がスムーズに進むことを祈るばかりである。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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