悔いのない人生を送るには、どうすればいいのか。42歳で「緑内障」と診断を受けた歌人の穂村弘さんは「『朝起きたら目が見えなくなっているのではないか』という不安に毎日のように襲われた。
恐怖を前にして初めて、人生でやるべきことの優先順位がクリアになった」という――。
※本稿は、穂村弘『満月が欠けている』(ライフサイエンス出版)の一部を抜粋・再編集したものです。
■人間ドックの診断結果に書かれていたこと
総務部では、毎年社員に人間ドックの受診を勧めていました。社員の心身の不調を未然に防ぐことは会社にとっても大きなメリットがあるんですね。他の社員に受診を勧める以上、自分も受けないわけにはいきません。だから、毎年欠かさず人間ドックは受けるようにしていました。
総務部に異動になって10年目の42歳の時のことです。人間ドックの診断結果が返却されてきたので、封筒を開封し、中身を確認しました。
すると、「眼底所見」という項目に「視神経乳頭陥凹拡大」(両目)と一言書かれていました。最初は何と書いてあるのか、まったく読めませんでしたが、「眼底所見」の別の欄を見ると、「緑内障の疑いあり」と記載されていました。眼科の受診を促すコメントも書かれていました。
この時、「ついに来たか」と思いました。
緑内障になってしまったことはもちろんショックでしたが、「逃げ切れなかったんだ」という思いが込み上げてきました。小学校から眼科に通院していたので、緑内障のことは知っていました。医師から「将来緑内障になる可能性がある」とも言われていました。
だから、運命のようなものが40歳を過ぎてついにやって来たのか、と。病気には、治るものと治らないものがあります。それまでは、治る病気にしかなったことはありませんでした。
でも、緑内障は完治する見込みがない病気です。ついに私は不治の病になってしまったんだなと思いました。
■「物欲」と「生きる意欲」とは切り離せない
緑内障になって最初の頃は、朝起きたら目が見えなくなっているのではないか、という不安に襲われました。緑内障に関する本には急に見えなくなることはないと書いてありましたが、当時はそんなこともあるのではないか、と余計な心配ばかりしていましたね。
街に出ると目の不自由な方が白杖をついて外出している場面に遭遇することがありますが、自分にも同じことができるのだろうか、と思っていろいろと試してみたことがあります。
実際に目をつぶってコーヒーを淹れたり、トイレに行ってみたり、駐車場から玄関までたどり着けるか試したり、いろいろとやってみましたが、驚くほどこれらの行為ができませんでした。
机の上にあるはずのものすら掴めなかった時は戦慄しました。
自分が中途失明したら、生活するのがとても大変になるだろうということに改めて恐怖を覚えました。
緑内障になるまでは、ネットオークションでアンティークの時計を買ったり、本や珍しい絵はがき、版画などの紙物を集めたりすることに喜びを見出していましたが、物欲がまったくなくなりました。
将来的に目が見えなくなるんだ、と思ったら、活字が急に頭に入ってこなくなって、物を持っていてもしょうがないのではないか、と思ってしまったんですね。もし、仮にそうなるとしてもまだ先のことではありますが、そのことを考えるだけでも自分には衝撃が大き過ぎたんです。
この時、人間の欲望は生きる意欲とすごく関わりがあることを実感しました。ただ、すぐには失明しないと身体が理解してきたら、徐々に物欲が戻ってきましたが、半年くらいは何も買う気が起きなかったですね。
■病気を打ち明けた私に、恋人が告げた一言
緑内障の診断を受けた後に、当時付き合っていた女性に病気を打ち明けました。すると、彼女が「結婚しようか」って言ってくれました。この言葉がきっかけで結婚しました。
リスクがあるのに、そう言ってくれた妻には申し訳ないのですが、実は私は結婚することも怖かったんです。42歳で結婚するまで実家に暮していましたが、それもなるべく環境を変えたくなかったというのが理由です。

結婚と同じ時期に会社を辞めました。できれば、就職をしたくなかったですし、実際会社に入って7年目で辞めるつもりだったわけですが、結局17年もいました。当時は、文筆の仕事も増えて、もの書きで得る収入が会社員としての収入とほぼ同じくらいになっていましたが、それでも会社を辞めること自体が怖かったんです。
でも、緑内障で失明するかもしれないと思ったら、恐怖のランキングが入れ替わったんですよね。「目が見えるうちにもっと書こう」という気持ちになって、文筆業一本で生活することを決めました。
■「自分の一部が壊れた」という感覚
緑内障になるまでは、自分にとって重要な仕事になればなるほど、最初からうまくやろうとして、手が出せないという逆転現象がしばしば起きていました。
緊張せずにできる資質や性格の人もいますが、私は内向的で完璧主義なところがあったので、何もできませんでした。
でも、ある時、緑内障になって自分の一部が壊れたという感覚があることに気づきました。すると、「もうどうでもいいや」ということではないのですが、仕事に対して場数を踏むことが大切だというように考え方も変わりました。40代に差し掛かった頃に緑内障になったことも、そうした感覚の変化に影響を与えているのかもしれません。
例えば、私はラジオ番組への出演が苦手でしたが、50回ほど出ているうちに、だんだん嫌じゃなくなったというか、むしろ好きになっていきました。緑内障になってから、やってみて良さを知るという機会が増えてきたように感じます。

究極的には「どうせ死ぬんだから何でもやればいいんだ」という話になりますが、そうは言ってもなかなか踏ん切りがつかないものです。「恥をかいたら嫌だ」という気持ちも絶対あるわけですから。
■人は苦しむ以上に恐れる
フランスの哲学者のアランの『幸福論』という本の中に「われわれは苦しむ以上に恐れるのである」という言葉があります。子供の頃、その言葉を見つけて、線を引いた記憶があります。
ちなみに、私がとても恐れているのが睡眠不足です。夜中に自宅に帰ってきて、翌朝早くに起きなくてはいけないことになると、今すぐ寝てもほとんど眠れないのではないかと思ってなかなか寝つけないんです。
すると、余計な心配が頭に浮かんできてすごく焦り始めます。ただ、実際に寝不足で大失敗したことなんて人生で記憶にないくらいのことなんですよ。だけど、寝不足を恐れたことは100回や200回じゃ済まないぐらいあります。その労力に全然釣り合っていないんですよね。自分にとっては苦しんだり失敗したりすることよりも、不安で恐れることのほうが心の中に占める割合がすごく大きいみたいです。
実際には、ほとんど寝ていなくても次の日に眠くなった記憶はありません。
むしろ、仕事が終わって、たっぷり寝た次の日のほうが眠いことがあるから不思議ですよね。どうやら、まだ物事が起きていない時にこそ、人間は不安を感じるらしい。
実際に本番になったら、「昨日俺は寝ていないんだ」みたいには思わないですよね。でも、どうしても克服できない。次の仕事の前日になると、また同じ不安に駆られてしまうんです。
■「ビクビク」には個人差がある
私の中で睡眠不足を恐れることと緑内障を恐れることは似た側面があります。緑内障は自分が病気であることに気づいていない人が多いそうです。現在治療している人はほんの一部で、潜在的には500万人近い人が緑内障の有病者だと言います。
でも、たとえ病気に気づいていなくても、失明などの致命的なことが起きる割合は、おそらくそんなには多くないのではないでしょうか。なぜなら、緑内障は高齢者に多い病気なので、実際に自覚症状が出る前に亡くなる人が多いからです。おそらくそうした人は、自分の目が悪いとはまったく思わずに人生を終えたのではないかと思います。
でも、私は早めに緑内障が見つかったので、すごくビクビクしていろいろと情報を調べました。
眼科にも何度も行って目薬も総額でいくらになるのか分からないほど購入しています。時間もお金もメンタルも削られて、最後まで何とか生活に不自由のない視野が保てれば、「良かった」と思うことができるわけですが、緑内障であることに気づかないまま亡くなった人と私の差っていったい何なのだろうと考えると、不思議な感情に襲われます。
でも、気づいてしまった以上、ギリギリセーフとギリギリアウトは大きな違いです。リアルタイムの患者としては、早く見つかって良かった、というのは確かなことです。
ただ、緑内障の患者さんの中には、病気が見つかっても放置する人も多いと聞きます。だから、誰もが未来のことを恐れるわけじゃないんですよね。
徹夜が平気な人もいれば、仕事に行って居眠りをして失敗をしても、さほど気にしないという人もいます。それどころか、また同じことを繰り返す強いメンタルの人すらいます。物事を恐れる度合いには大きな個人差があるみたいですね。

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穂村 弘(ほむら・ひろし)

歌人

1962年札幌市生まれ。1985年より短歌の創作を始める。2008年『短歌の友人』で伊藤整文学賞、2017年『鳥肌が』で講談社エッセイ賞、2018年『水中翼船炎上中』で若山牧水賞を受賞。歌集『シンジケート』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』『ラインマーカーズ』、詩集『求愛瞳孔反射』、エッセイ集『世界音痴』『にょっ記』『野良猫を尊敬した日』など、近著に『図書館の外は嵐』がある。

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(歌人 穂村 弘)
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