チャットGPTなどの生成AIの登場がビジネスに大きな影響を与えている。日本工業大学大学院技術経営研究科の田中道昭教授は「今後はロボットや自律システムを通じて現実の物理世界に働きかける『フィジカルAI』がビジネスに変化をもたらすだろう」という――。
■動き始めた「約7400兆円の巨大市場」
2025年1月、米国ラスベガスで開催された世界最大のテクノロジー見本市・CES2025で、NVIDIAは「Physical AI」という言葉を世界に投げかけた。ジェンスン・フアンCEOは「50兆ドル(約7400兆円)規模の産業を変革する」と宣言し、生成AIの次に来る地殻変動を高らかに示した。
ここでいうPhysical AIとは、簡単に言えば「AIが物理世界にやってきた」ということである。これまでの生成AIはテキストや画像といった情報空間にとどまっていた。しかしPhysical AIは、ロボットや自律システムを通じて現実世界を理解し、考え、そして実際に動くAIを意味する。倉庫で荷物を運び、薬局で接客し、手術室で医師を支援する――そうした「身体を持つAI」の時代が始まりつつあるのだ。
そして、それからわずか9カ月――2025年9月の今、Physical AIは驚くべき速度で現実化している。倉庫には自律型ヒューマノイドが立ち、薬局では顧客対応を行い、手術室では術者をサポートするロボットがリアルタイム推論を実行し始めている。CESで語られた未来は、もはや「構想」ではなく「実装」として動き出しているのである。
■生成AIから「フィジカルAI」へ
ロボットの社会実装は、この数年のうちに世界各地で加速している。
中国EC最大手のアリババは、2018年にロボットがホテル内で接客や配膳を行う近未来ホテルを開業し、大幅な人件費削減とサービスの無人化を実証してみせた。筆者も実際にその最先端ホテルに宿泊し、アリババのAI技術に圧倒された(詳しくは、現代ビジネス「中国・アリババの最先端ホテルに泊まってわかった、そのヤバい実力」参照)。
身近な例では、日本でも飲食店で配膳ロボット(いわゆる「猫型ロボット」)が瞬く間に普及し、客席まで料理を運ぶ光景はもはや珍しくない。配膳ロボットのコストは、運用条件にもよるが時給換算で約139円程度との試算もあり、人手に代わる存在として現実的な経済性を備え始めている。ロボット技術の浸透は想像以上に速く、社会基盤の一部となりつつあるのだ。
この進化の背景には、生成AIの成功と限界がある。ChatGPTに象徴される生成AIは、知識や言語といった「情報空間」に革命を起こした。しかし、現実の物理世界に触れる力は持たなかった。社会が次に求めるのは、情報だけではなく「世界に働きかける知能」である。見て、考えて、動くことのできる知能。ここにこそ生成AIの次のフロンティアがある。
NVIDIAがCES2025で提示したPhysical AIは、この問いに対する明確な答えであった。そして9月の現在、その答えが想像を超えるスピードで社会に浸透し始めている。生成AIが「知識の秩序」を書き換えたとすれば、Physical AIは「物理世界の秩序」を再構築する。
■だから時価総額「世界一」の企業に成長した
NVIDIAを率いるジェンスン・フアンCEOの経営思想は、シリコンバレーでも特異な存在である。彼は従来型のKPIや中期計画に依存せず、「未来を切り拓く正しい問い」を経営に埋め込むことで、NVIDIAをGPUメーカーからAI時代のインフラ企業へと進化させてきた。
その基盤にはいくつかの独自哲学がある。
・トップ5メール:社員が毎週報告する重要事象をすべて読み込み、まだ数字に現れない「弱いシグナル」を制度的に拾い上げる。
・EIOFs(Early Indicators of Future Success):KPIではなく、将来の成功を示す兆候を管理指標とする未来型マネジメント。
・Mission Is Boss:組織図や計画ではなく、存在目的を最上位に置き、そこに資源を集中させる。
・STCO(Same Time Co-Optimization):チップ、ネットワーク、ソフト、アルゴリズムを分断せず、同時最適化して全体を一つのシステムとして設計する。
■ロボットの「身体」ではなく「頭脳」に特化
こうした思想を凝縮すると、「フアン思考」は次の3つの問いかけに要約できる。
① 未来の兆候はどこにあるか?
② 技術・組織・時間、あらゆる分断を超えて、NVIDIAをひとつのシステムとして再設計できているか?
③ その判断は未来を切り拓くほどのインパクトを持つか?
この「フアン思考の3つの問い」を当てはめてみると、いまNVIDIAが全社を挙げて取り組むPhysical AIの挑戦が、単なる製品戦略ではなく、次の産業秩序を狙う「文明的挑戦」であることが理解できる。
実際、NVIDIAは自社でロボットの「身体」そのものではなく、ロボットに知能を与える頭脳(センサーおよびAIコンピューティング)に注力する戦略を採っている。その一方で、ロボット開発を行う有望スタートアップ企業に積極的に出資し、テクノロジーと市場の両面で提携を結ぶことで、ロボットの身体と頭脳を融合するエコシステムを築いている。
言い換えれば、NVIDIAは自らがプラットフォーム(ロボットの頭脳)を握りつつ、パートナーシップを通じてロボティクス全体を支配する布石を打っているのだ。
■「フアン思考の3つの問い」で読み解く
① 未来の兆候はどこにあるか?
倉庫での自律型ヒューマノイド、薬局で顧客対応を行うロボット、手術室で術者を補助する医療ロボット――これらはまだ小さな芽に過ぎない。短期的な売り上げには結びつかず、従来なら見過ごされるかもしれない「弱いシグナル」である。だがフアンはそこに「未来の兆候」を見た。
「Jetson Thor」という新世代のエッジAIコンピュータ、「Cosmos Reason」という物理常識を理解する推論モデルへの先行投資は、この兆候を捉えて動いた証だ。GPU時代に研究者の小さな試みを「未来の扉」と見抜いたのと同じ感度が、Physical AIの挑戦を動かしている。
② 技術・組織・時間の分断を超えて、NVIDIAをひとつのシステムとして再設計できているか?
Physical AIは単なる製品ラインではない。
・Blackwell GPU:クラウドでの大規模学習
・Omniverse:世界を忠実に再現するデジタルツイン
・Jetson Thor:エッジでのリアルタイム推論
これらを一つのシステムとして設計し直したのがフアンの構想である。技術の分断を超えてハードとソフトを統合し、組織の分断を超えて研究と事業を直結させ、時間の分断を超えて「計画」ではなく「未来の更新」を常に描き直す。NVIDIAはGPUメーカーではなく、ロボティクス時代のOS企業へと再設計されつつある。
自社でロボット本体を作らずとも、頭脳を支配することで市場全体の覇権を握る――まさにMission Is Bossの理念の下、製品枠組みを超えたプラットフォーム戦略で覇権を狙っているのだ。
③ その判断は未来を切り拓くほどのインパクトを持つか?
「Jetson Thor」の一般提供は、単なるエッジ製品の投入ではない。
かつてCUDA開発が「非合理な賭け」と揶揄されながらAI革命を切り拓いたように、Physical AIもまた「次の10年を形づくる大胆な判断」としてNVIDIAの未来を賭けている。フアンにとって重要なのは短期的な収益ではなく、その判断が未来を変えるほどのインパクトを持つかどうかである。
「ジェンスン・フアン思考」とは、兆候を掴み、分断を超え、未来を切り拓くという3つの問いに組織全体で答え続けることに他ならない。Physical AIはその問いを体現する次の挑戦であり、GPU時代を超えてNVIDIAをロボティクス時代の覇者へと導く可能性を秘めている。
■ついに解禁された「ロボットの脳」
2025年8月25日、NVIDIAは“ロボットの脳”として機能する「Jetson AGX Thor」の一般提供開始を発表した。これは単なる新製品リリースではない。クラウドやシミュレーションで進化してきたPhysical AIが、いよいよ実際の現場に常駐するロボットの頭脳として解禁された瞬間である。
「Jetson AGX Thor」は、最新のBlackwell GPUアーキテクチャをベースに最大128GBのメモリを搭載する。前世代Orin比で最大7.5倍のAI演算性能を誇り、エネルギー効率も3.5倍、CPU性能も3倍以上に高められているが、消費電力は130W以内に抑えられている。この性能は、生成AIや視覚言語アクション(VLA)モデル、さらには複数のAIワークフローを並列で処理できることを意味する。
かつてはクラウドでなければ処理できなかった大規模モデルが、今やロボット本体の中でリアルタイムに実行可能となったのである。
■進化の背景に「自動運転の技術」
Jetson AGX Thorは、Physical AIと汎用ロボティクスの時代を牽引する「究極のスーパーコンピュータ」だとフアンCEOは語った。比類なきパフォーマンスとエネルギー効率に加え、複数の生成AIモデルを同時にエッジで実行できる能力が、これまで夢物語とされてきた「汎用ロボティクス」の扉を開いたのである。
従来のロボットは定められたタスクに最適化された専用機に過ぎなかった。だがThorを搭載したロボットは、未知の状況に遭遇してもリアルタイムで認識し、推論し、行動を選択できる。ロボットが人間や物理世界とインテリジェントに相互作用するという、ロボティクス最大の難題がようやく解決に近づいている。
注目すべきは、この飛躍的進化の背景に自動運転領域で培われた技術シナジーがあることだ。複雑な実世界環境をリアルタイムに認識し、安全な行動を判断するアルゴリズムは自律走行車の開発過程で高度化されてきたものであり、現実に即した膨大なデータを仮想生成してAIを訓練するシミュレーション技術(デジタルツインによるシンセティックデータ生成)もロボット知能を飛躍させた立役者である。言わばThorの登場は、自動車とロボットという異なる領域の技術的知見が結実した成果でもあるのだ。
■世界の「ロボティクス企業」が動き始めた
世界を代表するロボティクス企業群は、Thorのポテンシャルにいち早く反応している。
Agility Roboticsは、倉庫ヒューマノイド「Digit」の次世代モデルにThorを採用し、物流現場での完全自律化を視野に入れる。
Boston Dynamicsは、二足歩行ロボットAtlasの進化形にThorを搭載し、複雑な環境での動作精度を高める。
Amazon Roboticsは、Thorを組み込むことで世界規模の物流センターにおける商品移動と在庫管理を変革しようとしている。
Figure AIは、自社ヒューマノイド「Figure 01」にThorを搭載し、構造化されていない家庭やオフィス環境での認識・推論・行動能力を実現しようとしている。
医療分野では、MedtronicやMoon SurgicalがThorを外科手術支援ロボットに応用し、術中のリアルタイム推論を可能にする。
Caterpillarは、自律建設機械や採掘機器にThorを導入し、過酷な現場での即時判断を可能にする。
これらの「アーリーアダプタ企業」が示すのは、Thorが単なる「高性能チップ」ではなく、ロボティクスの産業用途そのものを根底から書き換える触媒であるという事実である。
■テスラは「人型ロボット」を年1億台へ
さらに、電気自動車メーカーのテスラも2025年に公表したマスタープランで、自社開発のヒューマノイドロボット(Optimus)を同年に1万台生産し、将来的には年間1億台規模にまで拡大するという驚くべき構想を打ち出した。
「自動車産業の雄」もまた、次なる成長領域をロボティクスに定めた格好である。熾烈さを増すロボティクス競争において、しかしNVIDIAはプラットフォームとエコシステムを押さえることで、その中核を担うポジションを確保しつつある。
NVIDIAの「Jetsonプラットフォーム」は2014年の登場以来、200万人を超える開発者を惹きつけてきた。今回のThor投入は、この巨大コミュニティに対する「次の燃料供給」である。既に7000社以上が「Jetson Orin」を用いた製品を展開しており、その移行先としてThorは自然な選択肢となるだろう。エッジ実装が解禁されたことで、研究室やデモ段階にとどまっていたPhysical AIが、数百万台規模で産業現場に浸透する準備が整った。
「Jetson AGX Thor」の登場は、クラウド中心のAIからエッジ自律型AIへのパラダイムシフトを意味する。もはやロボットはクラウドに頼らず、その場で即座に「考え、判断し、動く」ことができる。これは単なる性能向上ではなく、Physical AIを社会実装するための「最後のピース」である。ヒューマノイド、倉庫物流ロボット、医療ロボット、自律建機――あらゆる現場でThorを搭載したロボットが知能を発揮する時代が始まった。
■日本企業に突きつけられた「問い」
ここで問うべきは、技術の進化そのものではない。むしろ、その技術を誰が制御し、誰が設計図を描くのかである。
NVIDIAはPhysical AIの4階層を提示し、事実上の標準を握りつつある。CUDAやOpenUSDが既に産業界で欠かせないインフラになったように、「Jetson Thor」を中心としたプラットフォームが「ロボット知能の基本OS」と化す未来は濃厚である。もしそうなれば、ロボット文明の根幹は一企業の手に委ねられることになる。
このようなプラットフォーム支配の構図は新興のロボット分野に限った話ではない。スマートフォンやPCの時代にも、ハードウェアを製造する企業よりOSやエコシステムを制する企業が圧倒的な収益と影響力を握った。日本企業がかつて携帯音楽プレーヤーやスマートフォン競争で後塵を拝した背景には、プラットフォームの主導権を海外企業に奪われていた現実がある。
だが、これは一企業の問題ではない。国家戦略として、誰がルールを設計し、誰が安全性や倫理の基準を定めるのか。生成AIで経験したように、技術が先行し社会が後追いすれば、規制もガバナンスも常に後手に回る。ロボットが現実世界に介入する以上、そのリスクと責任は桁違いに大きい。
日本企業や政策決定者も、この問いから逃れることはできない。ロボット先進国を自認しながら、もしプラットフォームの主導権を握られれば、産業基盤ごと従属することになりかねない。逆に言えば、今こそ「誰がロボット文明の設計者となるのか」という問いに、日本が自ら答えを出すべき局面なのである。
■誰が「ロボット文明」の設計者となるのか
世界的なロボティクス競争においてNVIDIAが先行していることは間違いないが、選択肢はそれだけではない。産業界、学術界、国家が連携しなければ、我々は「作られた未来」を受け入れるしかなくなる。
ロボットは、ついに人間の隣に立つ段階に到達した。問題は技術ではなく、その「文明的意味」をどう設計するかである。誰がルールを決め、誰が責任を持ち、誰が価値を共有するのか。
生成AIの時代に我々が学んだ教訓は、技術の覇権はそのまま社会の覇権に直結するということである。Physical AIが現実社会を形づくる以上、我々は「ロボット文明の設計図」を他者に委ねてはならない。
それは企業経営者にとっても、政策決定者にとっても、そして社会全体にとっても、今もっとも鋭く問われている課題である。
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田中 道昭(たなか・みちあき)
日本工業大学大学院技術経営研究科教授、戦略コンサルタント
専門は企業・産業・技術・金融・経済・国際関係等の戦略分析。日米欧の金融機関にも長年勤務。主な著作に『GAFA×BATH』『2025年のデジタル資本主義』など。シカゴ大学MBA。テレビ東京WBSコメンテーター。テレビ朝日ワイドスクランブル月曜レギュラーコメンテーター。公正取引委員会独禁法懇話会メンバーなども兼務している。
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(日本工業大学大学院技術経営研究科教授、戦略コンサルタント 田中 道昭)
■動き始めた「約7400兆円の巨大市場」
2025年1月、米国ラスベガスで開催された世界最大のテクノロジー見本市・CES2025で、NVIDIAは「Physical AI」という言葉を世界に投げかけた。ジェンスン・フアンCEOは「50兆ドル(約7400兆円)規模の産業を変革する」と宣言し、生成AIの次に来る地殻変動を高らかに示した。
ここでいうPhysical AIとは、簡単に言えば「AIが物理世界にやってきた」ということである。これまでの生成AIはテキストや画像といった情報空間にとどまっていた。しかしPhysical AIは、ロボットや自律システムを通じて現実世界を理解し、考え、そして実際に動くAIを意味する。倉庫で荷物を運び、薬局で接客し、手術室で医師を支援する――そうした「身体を持つAI」の時代が始まりつつあるのだ。
そして、それからわずか9カ月――2025年9月の今、Physical AIは驚くべき速度で現実化している。倉庫には自律型ヒューマノイドが立ち、薬局では顧客対応を行い、手術室では術者をサポートするロボットがリアルタイム推論を実行し始めている。CESで語られた未来は、もはや「構想」ではなく「実装」として動き出しているのである。
■生成AIから「フィジカルAI」へ
ロボットの社会実装は、この数年のうちに世界各地で加速している。
中国EC最大手のアリババは、2018年にロボットがホテル内で接客や配膳を行う近未来ホテルを開業し、大幅な人件費削減とサービスの無人化を実証してみせた。筆者も実際にその最先端ホテルに宿泊し、アリババのAI技術に圧倒された(詳しくは、現代ビジネス「中国・アリババの最先端ホテルに泊まってわかった、そのヤバい実力」参照)。
身近な例では、日本でも飲食店で配膳ロボット(いわゆる「猫型ロボット」)が瞬く間に普及し、客席まで料理を運ぶ光景はもはや珍しくない。配膳ロボットのコストは、運用条件にもよるが時給換算で約139円程度との試算もあり、人手に代わる存在として現実的な経済性を備え始めている。ロボット技術の浸透は想像以上に速く、社会基盤の一部となりつつあるのだ。
この進化の背景には、生成AIの成功と限界がある。ChatGPTに象徴される生成AIは、知識や言語といった「情報空間」に革命を起こした。しかし、現実の物理世界に触れる力は持たなかった。社会が次に求めるのは、情報だけではなく「世界に働きかける知能」である。見て、考えて、動くことのできる知能。ここにこそ生成AIの次のフロンティアがある。
NVIDIAがCES2025で提示したPhysical AIは、この問いに対する明確な答えであった。そして9月の現在、その答えが想像を超えるスピードで社会に浸透し始めている。生成AIが「知識の秩序」を書き換えたとすれば、Physical AIは「物理世界の秩序」を再構築する。
つまり我々は今、産業革命を超える文明転換の入口に立っているのかもしれないのである。
■だから時価総額「世界一」の企業に成長した
NVIDIAを率いるジェンスン・フアンCEOの経営思想は、シリコンバレーでも特異な存在である。彼は従来型のKPIや中期計画に依存せず、「未来を切り拓く正しい問い」を経営に埋め込むことで、NVIDIAをGPUメーカーからAI時代のインフラ企業へと進化させてきた。
その基盤にはいくつかの独自哲学がある。
・トップ5メール:社員が毎週報告する重要事象をすべて読み込み、まだ数字に現れない「弱いシグナル」を制度的に拾い上げる。
・EIOFs(Early Indicators of Future Success):KPIではなく、将来の成功を示す兆候を管理指標とする未来型マネジメント。
・Mission Is Boss:組織図や計画ではなく、存在目的を最上位に置き、そこに資源を集中させる。
・STCO(Same Time Co-Optimization):チップ、ネットワーク、ソフト、アルゴリズムを分断せず、同時最適化して全体を一つのシステムとして設計する。
■ロボットの「身体」ではなく「頭脳」に特化
こうした思想を凝縮すると、「フアン思考」は次の3つの問いかけに要約できる。
① 未来の兆候はどこにあるか?
② 技術・組織・時間、あらゆる分断を超えて、NVIDIAをひとつのシステムとして再設計できているか?
③ その判断は未来を切り拓くほどのインパクトを持つか?
この「フアン思考の3つの問い」を当てはめてみると、いまNVIDIAが全社を挙げて取り組むPhysical AIの挑戦が、単なる製品戦略ではなく、次の産業秩序を狙う「文明的挑戦」であることが理解できる。
実際、NVIDIAは自社でロボットの「身体」そのものではなく、ロボットに知能を与える頭脳(センサーおよびAIコンピューティング)に注力する戦略を採っている。その一方で、ロボット開発を行う有望スタートアップ企業に積極的に出資し、テクノロジーと市場の両面で提携を結ぶことで、ロボットの身体と頭脳を融合するエコシステムを築いている。
言い換えれば、NVIDIAは自らがプラットフォーム(ロボットの頭脳)を握りつつ、パートナーシップを通じてロボティクス全体を支配する布石を打っているのだ。
■「フアン思考の3つの問い」で読み解く
① 未来の兆候はどこにあるか?
倉庫での自律型ヒューマノイド、薬局で顧客対応を行うロボット、手術室で術者を補助する医療ロボット――これらはまだ小さな芽に過ぎない。短期的な売り上げには結びつかず、従来なら見過ごされるかもしれない「弱いシグナル」である。だがフアンはそこに「未来の兆候」を見た。
「Jetson Thor」という新世代のエッジAIコンピュータ、「Cosmos Reason」という物理常識を理解する推論モデルへの先行投資は、この兆候を捉えて動いた証だ。GPU時代に研究者の小さな試みを「未来の扉」と見抜いたのと同じ感度が、Physical AIの挑戦を動かしている。
② 技術・組織・時間の分断を超えて、NVIDIAをひとつのシステムとして再設計できているか?
Physical AIは単なる製品ラインではない。
・Blackwell GPU:クラウドでの大規模学習
・Omniverse:世界を忠実に再現するデジタルツイン
・Jetson Thor:エッジでのリアルタイム推論
これらを一つのシステムとして設計し直したのがフアンの構想である。技術の分断を超えてハードとソフトを統合し、組織の分断を超えて研究と事業を直結させ、時間の分断を超えて「計画」ではなく「未来の更新」を常に描き直す。NVIDIAはGPUメーカーではなく、ロボティクス時代のOS企業へと再設計されつつある。
自社でロボット本体を作らずとも、頭脳を支配することで市場全体の覇権を握る――まさにMission Is Bossの理念の下、製品枠組みを超えたプラットフォーム戦略で覇権を狙っているのだ。
③ その判断は未来を切り拓くほどのインパクトを持つか?
「Jetson Thor」の一般提供は、単なるエッジ製品の投入ではない。
物流、建設、都市運営、医療といった巨大産業に知能ロボットを浸透させ、産業秩序そのものを変える賭けである。
かつてCUDA開発が「非合理な賭け」と揶揄されながらAI革命を切り拓いたように、Physical AIもまた「次の10年を形づくる大胆な判断」としてNVIDIAの未来を賭けている。フアンにとって重要なのは短期的な収益ではなく、その判断が未来を変えるほどのインパクトを持つかどうかである。
「ジェンスン・フアン思考」とは、兆候を掴み、分断を超え、未来を切り拓くという3つの問いに組織全体で答え続けることに他ならない。Physical AIはその問いを体現する次の挑戦であり、GPU時代を超えてNVIDIAをロボティクス時代の覇者へと導く可能性を秘めている。
■ついに解禁された「ロボットの脳」
2025年8月25日、NVIDIAは“ロボットの脳”として機能する「Jetson AGX Thor」の一般提供開始を発表した。これは単なる新製品リリースではない。クラウドやシミュレーションで進化してきたPhysical AIが、いよいよ実際の現場に常駐するロボットの頭脳として解禁された瞬間である。
「Jetson AGX Thor」は、最新のBlackwell GPUアーキテクチャをベースに最大128GBのメモリを搭載する。前世代Orin比で最大7.5倍のAI演算性能を誇り、エネルギー効率も3.5倍、CPU性能も3倍以上に高められているが、消費電力は130W以内に抑えられている。この性能は、生成AIや視覚言語アクション(VLA)モデル、さらには複数のAIワークフローを並列で処理できることを意味する。
かつてはクラウドでなければ処理できなかった大規模モデルが、今やロボット本体の中でリアルタイムに実行可能となったのである。
エッジにおけるAIの自律性が、ようやく現実のものとなった。
■進化の背景に「自動運転の技術」
Jetson AGX Thorは、Physical AIと汎用ロボティクスの時代を牽引する「究極のスーパーコンピュータ」だとフアンCEOは語った。比類なきパフォーマンスとエネルギー効率に加え、複数の生成AIモデルを同時にエッジで実行できる能力が、これまで夢物語とされてきた「汎用ロボティクス」の扉を開いたのである。
従来のロボットは定められたタスクに最適化された専用機に過ぎなかった。だがThorを搭載したロボットは、未知の状況に遭遇してもリアルタイムで認識し、推論し、行動を選択できる。ロボットが人間や物理世界とインテリジェントに相互作用するという、ロボティクス最大の難題がようやく解決に近づいている。
注目すべきは、この飛躍的進化の背景に自動運転領域で培われた技術シナジーがあることだ。複雑な実世界環境をリアルタイムに認識し、安全な行動を判断するアルゴリズムは自律走行車の開発過程で高度化されてきたものであり、現実に即した膨大なデータを仮想生成してAIを訓練するシミュレーション技術(デジタルツインによるシンセティックデータ生成)もロボット知能を飛躍させた立役者である。言わばThorの登場は、自動車とロボットという異なる領域の技術的知見が結実した成果でもあるのだ。
■世界の「ロボティクス企業」が動き始めた
世界を代表するロボティクス企業群は、Thorのポテンシャルにいち早く反応している。
Agility Roboticsは、倉庫ヒューマノイド「Digit」の次世代モデルにThorを採用し、物流現場での完全自律化を視野に入れる。
Boston Dynamicsは、二足歩行ロボットAtlasの進化形にThorを搭載し、複雑な環境での動作精度を高める。
Amazon Roboticsは、Thorを組み込むことで世界規模の物流センターにおける商品移動と在庫管理を変革しようとしている。
Figure AIは、自社ヒューマノイド「Figure 01」にThorを搭載し、構造化されていない家庭やオフィス環境での認識・推論・行動能力を実現しようとしている。
医療分野では、MedtronicやMoon SurgicalがThorを外科手術支援ロボットに応用し、術中のリアルタイム推論を可能にする。
Caterpillarは、自律建設機械や採掘機器にThorを導入し、過酷な現場での即時判断を可能にする。
これらの「アーリーアダプタ企業」が示すのは、Thorが単なる「高性能チップ」ではなく、ロボティクスの産業用途そのものを根底から書き換える触媒であるという事実である。
■テスラは「人型ロボット」を年1億台へ
さらに、電気自動車メーカーのテスラも2025年に公表したマスタープランで、自社開発のヒューマノイドロボット(Optimus)を同年に1万台生産し、将来的には年間1億台規模にまで拡大するという驚くべき構想を打ち出した。
「自動車産業の雄」もまた、次なる成長領域をロボティクスに定めた格好である。熾烈さを増すロボティクス競争において、しかしNVIDIAはプラットフォームとエコシステムを押さえることで、その中核を担うポジションを確保しつつある。
NVIDIAの「Jetsonプラットフォーム」は2014年の登場以来、200万人を超える開発者を惹きつけてきた。今回のThor投入は、この巨大コミュニティに対する「次の燃料供給」である。既に7000社以上が「Jetson Orin」を用いた製品を展開しており、その移行先としてThorは自然な選択肢となるだろう。エッジ実装が解禁されたことで、研究室やデモ段階にとどまっていたPhysical AIが、数百万台規模で産業現場に浸透する準備が整った。
「Jetson AGX Thor」の登場は、クラウド中心のAIからエッジ自律型AIへのパラダイムシフトを意味する。もはやロボットはクラウドに頼らず、その場で即座に「考え、判断し、動く」ことができる。これは単なる性能向上ではなく、Physical AIを社会実装するための「最後のピース」である。ヒューマノイド、倉庫物流ロボット、医療ロボット、自律建機――あらゆる現場でThorを搭載したロボットが知能を発揮する時代が始まった。
■日本企業に突きつけられた「問い」
ここで問うべきは、技術の進化そのものではない。むしろ、その技術を誰が制御し、誰が設計図を描くのかである。
NVIDIAはPhysical AIの4階層を提示し、事実上の標準を握りつつある。CUDAやOpenUSDが既に産業界で欠かせないインフラになったように、「Jetson Thor」を中心としたプラットフォームが「ロボット知能の基本OS」と化す未来は濃厚である。もしそうなれば、ロボット文明の根幹は一企業の手に委ねられることになる。
このようなプラットフォーム支配の構図は新興のロボット分野に限った話ではない。スマートフォンやPCの時代にも、ハードウェアを製造する企業よりOSやエコシステムを制する企業が圧倒的な収益と影響力を握った。日本企業がかつて携帯音楽プレーヤーやスマートフォン競争で後塵を拝した背景には、プラットフォームの主導権を海外企業に奪われていた現実がある。
だが、これは一企業の問題ではない。国家戦略として、誰がルールを設計し、誰が安全性や倫理の基準を定めるのか。生成AIで経験したように、技術が先行し社会が後追いすれば、規制もガバナンスも常に後手に回る。ロボットが現実世界に介入する以上、そのリスクと責任は桁違いに大きい。
日本企業や政策決定者も、この問いから逃れることはできない。ロボット先進国を自認しながら、もしプラットフォームの主導権を握られれば、産業基盤ごと従属することになりかねない。逆に言えば、今こそ「誰がロボット文明の設計者となるのか」という問いに、日本が自ら答えを出すべき局面なのである。
■誰が「ロボット文明」の設計者となるのか
世界的なロボティクス競争においてNVIDIAが先行していることは間違いないが、選択肢はそれだけではない。産業界、学術界、国家が連携しなければ、我々は「作られた未来」を受け入れるしかなくなる。
ロボットは、ついに人間の隣に立つ段階に到達した。問題は技術ではなく、その「文明的意味」をどう設計するかである。誰がルールを決め、誰が責任を持ち、誰が価値を共有するのか。
生成AIの時代に我々が学んだ教訓は、技術の覇権はそのまま社会の覇権に直結するということである。Physical AIが現実社会を形づくる以上、我々は「ロボット文明の設計図」を他者に委ねてはならない。
それは企業経営者にとっても、政策決定者にとっても、そして社会全体にとっても、今もっとも鋭く問われている課題である。
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田中 道昭(たなか・みちあき)
日本工業大学大学院技術経営研究科教授、戦略コンサルタント
専門は企業・産業・技術・金融・経済・国際関係等の戦略分析。日米欧の金融機関にも長年勤務。主な著作に『GAFA×BATH』『2025年のデジタル資本主義』など。シカゴ大学MBA。テレビ東京WBSコメンテーター。テレビ朝日ワイドスクランブル月曜レギュラーコメンテーター。公正取引委員会独禁法懇話会メンバーなども兼務している。
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(日本工業大学大学院技術経営研究科教授、戦略コンサルタント 田中 道昭)
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