近年、世界各国でデジタルプラットフォームをめぐる規制強化が相次いでいる。英国では2024年からオンライン安全法が本格施行され、アメリカ企業に対して巨額制裁金を科してでも自国の価値観を貫く姿勢を示している。
一方で、民間レベルでも変化が起きている。国際クレジットカード会社の方針変更により、SteamやItch.ioといったゲームプラットフォームが成人向けコンテンツの規制を強化。ニコニコ動画では一部クレジットカード決済が停止されるなど、決済インフラを通じた事実上の検閲が広がっている。
こうした動きに対してSNSでは連日、「検閲だ」「表現の自由が危機に瀕している」と批判する投稿が拡散されている。こうした問題を盛んに取り上げ、インフルエンサー化しているアカウントも少なくない。
しかし、それらのほとんど、海外情報については例外なく当事者への取材なく、SNSで拾った外国語(おおむね英語)の投稿を垂れ流している程度である。
例えば、先日話題になったEUが進めていた、児童性虐待を監視するために「メッセージングアプリを通じて送信される全ての情報をスキャンする」という「チャットコントロール規則案」もそうだ。
多数の国が反対し廃案になったとする投稿を見つけた筆者がEUに問い合わせてみたところ、報道官からは「欧州委員会は児童性的虐待を防止・撲滅する規則案を撤回していませんし、撤回する予定もありません」という回答だった。
■「表現の自由」の本当の敵は誰か
このように、SNSを通じてデマ情報が大量に流通しているのが現在の状況である。
「表現の自由」というキーワードは、SNSではなにかと火が付く話題だが、オンライン空間をめぐる表現規制問題が世界の主戦場となる中で、日本は曖昧な情報のみが流布し炎上炎上を繰り返すガラパゴス状態に陥っているといえる。
なぜ、このような状況が生まれているのだろうか。
その根本的な原因は、日本の表現規制論争が20世紀的な「国家権力 vs 表現の自由」という対立図式から脱却できていないことにある。
日本では長年、表現規制といえば各都道府県の青少年保護条例による有害図書指定など、行政主導の規制が議論の中心だった。公権力が、道徳的観点から特定の作品を規制対象としたり、それに対してクリエイターや愛好者が「検閲反対」を叫ぶという分かりやすい構図である。
この構図では、敵味方が明確だ。規制を推進する政治家、官僚、PTA、道徳団体が「悪役」として存在し、それに対抗する市民やクリエイターが「正義」となる。メディアも「権力の監視」という建前で、こうした対立をわかりやすく報じることができた。
しかし21世紀のデジタル社会では、この図式はもはや現実に対応していない。
■有害図書指定で販売停止に動いたAmazon
この構図の歪みを如実に示すのが、2022年の三才ブックス有害図書指定問題だ。
鳥取県が同社の書籍3冊を有害図書に指定した際、出版社は県の判断を「言いがかりともいえる内容」と激しく批判した。実際、書籍の1冊に掲載されていた、つまようじを発射する玩具の紹介記事が「殺人、強盗の準備行為」に該当するという県の解釈は、確かに常識的に見て無理筋だった。
しかし、より深刻な問題は別のところにあった。鳥取県の有害図書指定を受けて、Amazonが該当書籍の販売を一方的に停止したことだ。
有害図書指定とは、各都道府県が条例に基づいて実施するもの。だから鳥取県が指定した場合には、対象となるのは鳥取県内の書店である。しかも全面的な販売禁止処分ではなく、18歳未満への販売を禁じる者に過ぎない。
全国での販売禁止を意味するものではないし、成人への販売を禁じるものでもない。ところがAmazonは、一地方自治体の判断を理由に全国での販売を停止したのである。つまり、実質的な「検閲」を行ったのは鳥取県ではなくAmazonだったのである。
ところが世論の批判は、ほぼ全て鳥取県に向けられた。「行政による表現規制」という分かりやすい悪役に注目が集まり、Amazonの判断についてはほとんど問題視されなかった。
これこそが、日本の表現規制論争の根本的な盲点である。
■Amazonが変えた“現実的な検閲”
2010年代前半と比べて有害図書指定をとりまく事情が劇的に変化している。従来であれば、地方自治体の有害図書指定を受けても実害は限定的だった。18歳未満への販売を制限する書店もあれば、そうでない書店もある。
大手書店チェーンが扱いを停止しても、個人経営の書店や専門店では引き続き販売されることが多かった。出版社にとっては売上への影響はあるものの、完全に市場から締め出されることはなかった。
これは毎月会議を開催して「不健全図書(東京都における名称、現在は8条図書と呼称する)」指定を実施してきた東京都でも同様だ。指定された本や雑誌のタイトルは公表され、書店にはハガキで通知が行われる。だが、実際の運用は極めてザルで、大抵の書店はそのまま販売を継続していた。
特に東京都の担当部局が実店舗をチェックすることもない。実質、なんらかの理由で注目される、あるいは指定された場合は回収することを内規としている出版社でなければ、実害は極めて少なかったといえる。
しかし、Amazonの巨大化によって事態は大きく変化した。これまで筆者も取材を試みたが、Amazonが応じたことはなく実態はブラックボックスだ。少なくとも東京都が指定したものはすべて、ほかの自治体が指定したものもかなりの割合でサイト上から削除していることはあきらかだ。
■「企業の自主的判断」でいいのか
ネット書店のシェア拡大は、有害図書指定制度の意味を根本から変えた。かつての有害図書指定は、各都道府県に限っての「18歳未満への販売制限」という限定的なものだった。
だが、日本では20世紀的な「国家権力 vs 表現の自由」という図式がアップデートされず、民間企業による事実上の検閲に対する意識は希薄だ。
現実には、地方自治体の有害図書指定よりも、Amazon、Apple、Google、Steam、Visa、Mastercardといった企業の判断の方が、日本のコンテンツ流通に遥かに大きな影響を与えている。しかも、これらの企業判断に対する異議申し立ての手段は極めて限定的だ。
鳥取県なら情報公開請求で審議過程を検証できるし、議会で追及することもできる。しかしテック企業は別だ。彼らは決して情報を公開しない。せいぜいが「利用規約」「コンプライアンス」を理由をして挙げる程度である。
ところがクリエイターや出版社などが、プラットフォームを批判することは少ない。
同社の運営するBooth、あるいはFANZAやDLsiteのような販売サイトなどでは、規約違反などを理由とした修正要求や作品削除が度々起こっている。
大抵は、そうしたトラブルに遭遇した人がSNSなどに報告して話題となるのだが、騒動になることは少ない。
■クリエイターはプラットフォームに逆らえない
この現象には複数の要因が絡んでいる。
まず、クリエイターの多くがこれらのプラットフォームに収益を依存している現実がある。pixivからの流入でファンを獲得し、FANZAやDLsiteで作品を販売する。批判すれば取引停止やアカウント凍結のリスクがあるため、表立って声を上げることができない。
さらに深刻なのは、プラットフォーム検閲が「企業の自主判断」「利用規約の範囲内」という名目で行われることだ。従来の行政による規制であれば、憲法上の表現の自由を根拠に法廷闘争も可能だった。
しかし民間企業のサービス利用停止は「契約上の問題」とされ、表現の自由という憲法的権利の保護は及ばない。プラットフォームがインフラ化していても「うちは民間企業、嫌なら使うな」で済ませられるのである。
結果「国家権力 vs 表現の自由」という20世紀の図式から脱却せず、役所や政府、道徳団体やフェミニズムに対して「正義」を主張することでカタルシスを満たしているのである。
■「企業の規約」は自由を奪う最強の武器
なぜ、こうした本質的な問題が見過ごされるのか。
しかも、これらのサービスは日常生活に深く浸透していることも理解を困難にさせる。Amazon、Google、Appleなどは、もはや社会インフラの一部として機能している。そのインフラ自体が検閲システムとして働いていることを理解するのは、水道や電気が問題だといってるようなもので、容易に理解できないし、陰謀論のようにも見えてしまうからだ。
ただ、問題を直視できないのは、日本だけではない。
2025年7月のSteam規制は、この現実を如実に示している。世界最大のPCゲーム配信プラットフォームが、決済業者の基準に従って成人向けコンテンツの規制を強化すると発表した際、世界中のゲーマーやクリエイターから批判の声が上がった。
この時Visa、Mastercardといった国際クレジットカード会社以上に憎悪を向けられたのがオーストラリアの反ポルノ団体「Collective Shout」であった。
確かにCollective Shoutが決済会社に対して抗議活動を行ったのは事実である。しかし、極めて小規模な団体の抗議だけで、世界最大級の決済企業が方針を変更なんて、本当にありえるだろうか?
真の要因は、国際カード会社が本社を置く、アメリカ国内の空気である。トランプ政権下で左右が著しく対立するアメリカだが、つとに性表現に関しては、規制強化で合意しているといえる。
右派は「反ウォーク(ポリティカル・コレクトネス批判)」「家族の価値観」を掲げて道徳的観点から性的コンテンツを問題視し、左派はフェミニズムや反性搾取の観点から同様のコンテンツを批判する。政治的立場は異なるが、結論は同じ「規制強化」に向かうというわけだ。
■批判の矛先はいつも“叩きやすい相手”に
さらに、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資の普及により、企業は株主や投資家から「社会的責任」を問われるようになった。成人向けコンテンツを扱うことは、レピュテーションリスク(評判リスク)として忌避される傾向にあることも、要因と考えられる。
つまり、Collective Shoutは単なる「引き金」に過ぎなかった。VisaやMastercardのような企業は、政治的リスクと投資リスクの両方を回避するため、最も安全な選択肢として規制強化に走っている。
企業にとっては思想的な動機ではなく、純粋なリスク管理であり、同時に利益の最大化でもある。問題のあるコンテンツを排除することで、政治的批判を避け、投資家の評価を得て企業価値を維持できる。そのために、タイミングよくCollective Shoutの活動を利用したといえる。
ところが世界中のゲーマーやクリエイターは、叩きやすく、過激な発言が目立つCollective Shoutに批判のリソースの大部分を集中させた。
筆者もこの団体に取材したが、彼女らの主張は数々のゲームが「世界で性加害やミソジニーを広める要因となっており、女性や少女の人間性や尊厳を損なっている」という攻撃的なものであった。
結局、世界のゲーマーやクリエイターは、安全に感情的な攻撃がしやすいオーストラリアの小さな女性団体にリソースを注ぎ、VISAやMastercardの本質的な判断構造、アメリカの政治情勢、企業の投資基準といった複雑な要因は、着目をすることがなかった。
■なぜ日本では陰謀論が先行するのか
もうひとつ、最近、日本でわかりやすい相手を表現の自由の敵に仕立てて盛り上がったのが「ハノイ条約(国連新サイバー犯罪条約)」である。
これは、インターネット上の越境捜査に関する国際条約なのだが、日本ではなぜかこれが批准されればマンガやアニメはおろか、村上春樹や上野千鶴子の著作まで未成年の性的描写を理由に禁止されると噂され話題となった。
もちろん、条文にそんなことは書かれていない。それでもこうしたデマが広まったのは、ロシアが提案し中国も賛同している条約だからという理由だった。
しかし、筆者がロシア外務省に取材したところ、国際情報安全保障局の担当者から「条約は国連憲章の基本原則に基づき、締約国が義務を履行する際の国家主権の保護を規定している」との回答を得た。
条約の目的は「違法情報の拡散防止」「ICTの犯罪的利用への対抗」であり、ランサムウェア、不正アクセス、児童ポルノといった明確な犯罪行為への対処が主眼である。文化的表現や芸術作品への言及は一切なく、日本のマンガ・アニメは対象外ということが明らかになったのである。
■中露型で「デジタル主権」を目指す各国
結局のところロシアの目指すのは、他国の文化政策への干渉ではなく、西側テック企業の流入を排除した「デジタル主権」の確立にある。
ところが、日本ではこうした実態を無視して、「ロシア・中国が主導している」という感情的な反発のみが拡散され、外圧で日本のマンガやアニメが潰されようとしているという陰謀論が加速している。
最も皮肉なのは、世界のインターネット統制方法の趨勢が「中露型」になっていることだ。
英国は2024年からオンライン安全法を本格施行し、最大1800万ポンド(約36億円)または売上高の10%という巨額制裁金を背景に、SNSや動画サイトに厳格な年齢認証を義務づけた。EUも2024年にデジタル市場法・デジタルサービス法を全面適用し、テック企業に対して透明性確保などの圧力を強めている。
結局、西側諸国はテック企業のブラックボックス化した検閲から主権を取り戻すため、政府の介入もやむを得ないという流れになっているのだ。
■『国家権力 vs 表現の自由』の構図は時代遅れ
ところが日本は、こうしたパラダイムの転換を理解していないまま『国家権力 vs 表現の自由』という20世紀的な図式にこだわり続けている。
しかし、これも仕方がない。プラットフォームによる規制を始め、昨今の動向は想像以上に複雑だからだ。
たとえば、アメリカの状況を見ても、その複雑さがわかる。先日、アメリカ・ミシガン州議会で「公衆道徳腐敗防止法案」を提起しているジョシュ・シュライバー議員に取材する機会を得た。この法律はインターネット上での性的コンテンツをすべて禁止し、違反者には、最高25年の懲役という重罰を科すとしており、話題となっている。
筆者が驚いたのは、シュライバー議員がアメリカ宗教保守の主流である福音派(アメリカのプロテスタントの主流)かと思いきや「カトリックに改宗している」と話したことだ。神学的には水と油のカトリックなのに、道徳的には方向性が一致しているのだ。
この時、筆者は対外的にはテック企業を擁護し、デジタル覇権を推進する一方で、国内ではインターネット上でのポルノの蔓延を「近代性の嵐」と表現し、厳格な規制を求めるような人物まで抱えているアメリカの二面性を理解し説明することは非常に困難だと感じた。
しかし、この複雑さの中でも、検閲の主体が国家や道徳団体からプラットフォームへと移行している現実は直視すべきだろう。実質的な検閲は、手元のスマホのアプリの中で日々行われているのである。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)