「アンパンマン」の作者、やなせたかしさんと妻の暢さんはどんな夫婦だったのか。ライターの市岡ひかりさんは「やなせ本人の書籍にもあるように、長年苦労を分かち合った戦友だった。
■「あんぱん」では描かれなかった夫婦の最後の5年間
連続テレビ小説「あんぱん」がついに最終回を迎えた。「逆転しない正義」を追い求めてきた2人が、ついに愛と献身のヒーローであるアンパンマンにたどり着いた。それでもなかなか日の目を見なかったが、最終週でついにアニメ化が実現し人気が爆発。半年にわたって、嵩(演・北村匠海)とのぶ(演・今田美桜)の物語を見守ってきた視聴者にとって感慨深いものとなった。
しかし、その分、最終週で描かれた、のぶの深刻な病にショックを受けた人も少なくないだろう。
嵩が「教えてくれない? のぶちゃんに何ができるか」と語り掛けるシーンがあったが、このセリフに史実上のやなせたかしの切なる思いが込められている。なんとか妻・暢(のぶ)を笑わせたい。笑顔を見たいと、余命いくばくもない妻との時間を祈るように過ごした最後の5年間を、当時の資料からひも解きたい。
「あんぱん」に描かれたように、暢の病がわかったのも突然だった。1988年12月、暢が体調を崩し、東京女子医大で診断を受けたときには、すでにがんは全身に転移していた。医師は「奥様の生命は、長くてあと3カ月です。
■藁にもすがりたいのです
思い返してみれば、気になっていたことはあった。暢が痩せてきたこと、頬にシミが増えたこと……。でも、体調が悪くてもいつも元気に乗り切っていく暢だった。やなせは当時の思いを著作『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)の中でこう語っている。「もっと早く、無理にでも病院へ連れて行くべきだった。悔やんでみても後の祭り」――。
「悪いところは全部切り取ってしまったから大丈夫」。手術後、やなせはそう言って暢を励ました。全身にがんが転移している、とはどうしても言えなかった。
悲嘆に暮れていたやなせに、声をかけたのは漫画家の里中満知子だった。
「私もがんだったの。でも、丸山ワクチンを打ち続けて7年で完治しました。試してみれば」
丸山ワクチンとは皮膚結核の治療薬として開発された薬で、1976年にがん治療薬として厚生省(当時)に申請されたが「薬効を証明するデータが不十分」として5年後に却下。ただ、有償治験薬として患者への接種が認められている。
「そんなもの、水みたいなもので効きませんよ」と怪訝な顔をする医師にやなせは「藁にもすがりたいのです、お願いします」と頼み込み、暢に丸山ワクチンの皮下注射を始めた。
■痩せた妻が以前よりも愛おしい
入院から1カ月がたち、歩けるようになった暢を元気づけようと、やなせは病院に愛犬・チャコを連れて行ったこともある。柴犬とのミックスで、茶色毛だったから「チャコ」。「あんぱん」にも登場した「メイ犬BON」をはじめ、やなせたかしの作品に犬が多いのは2人が愛犬家だったのにも関係している。
病院の玄関でチャコに再会した暢は嬉しそうにその体をなで、チャコもちぎれるほど尻尾を振って暢に甘えたという。
ちなみにチャコを飼うことになったのも、やなせ夫妻らしい逸話がある。
その年の暮れに、暢は退院。自宅まで徒歩30分の道のりを、2人で歩いて帰った。痩せて紙のように薄い肩になった暢を、やなせは以前よりももっと愛しいと思ったという。年が明けて、正月になった。暢は薄化粧し、2人はおとそとビールで乾杯した。
「本年も相変わりませずはやめよう、今年は相変わって良い年にしよう」とやなせが言うと、暢は「そうね、変わらなくちゃ」と大笑いした。その笑顔を見て、やなせは改めて思ったという。生きていることはいい。カミさんが笑う顔をみるのはいい。
■「カミさんは戦友だった」
「生命が終わるならその前になんとかカミさんを喜ばせたい、何がいいだろう」
そう考えあぐねていたという。
ところが、驚くべきことが起きた。暢は血色がよくなり、がんになる前は45キロほどだった体重が50キロを超えたほどだった。「いやだわ、肥りすぎだわ」と体型を気にする暢を、やなせは「いやじゃない。肥ったほうがいい。もっと肥ってくれ」と励ました。暢は、お茶のおけいこも、好きだった山歩きも再開できた。
「治るかもしれない」。そんな希望さえ胸をよぎった。「カミさんは、僕にとってはなくてはならない人だった。四十数年苦労を分かち合った戦友だった」〔『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)〕。
アンパンマンのアニメがスタートしたのは、まさにそんな時だった。プロデューサーの武井英彦から「何をやっても2%しかいかないという時間帯ですから期待しないでください」とくぎを刺されていた。
期待度ゼロのスタートだったが、ふたを開けてみれば異例の視聴率7%をたたき出す。一躍ヒットアニメとなり、アンパンマンは文化庁テレビ優秀映画に選ばれた。1990年、やなせは日本漫画家協会大賞を受賞。「正直言って、この受賞は嬉しかった。暗夜の光という感じだった」〔『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)〕。
■ようやく長年の苦労が実った
絵本の売り上げは1000万部を突破し、収入も一気に10倍ほどに。この時、やなせは71歳。ようやく、長年の苦労が実ったのだ。
「庶民の生活をしないと漫画は描けない」と長年築50年以上のマンションに住んでいたやなせだったが、暢のために現代的なシステムキッチンにリフォームした。
暢の体調もまずまず落ち着き、1991年5月、国立劇場で行われた叙勲の伝達式や、同年11月に行われた秋の園遊会にも出席ができた。やなせは勲章をもらうのには気後れしたが、暢となるべく記念になることをしたいと参加を決めたのだという。
しかし、当の暢は、自分の命が長くないことを悟っていたのかもしれない。
後に、やなせの秘書となる越尾は、暢がやなせを任せられる人を探すのに躍起になっていたと知る。酒が飲めず、編集者との酒宴を断っていたやなせを暢は「子どもっぽい主人を置いていけない」と常に心配していたそうだ。
■光と影の苦しみは、僕しかわからない
アンパンマンが人気を集めていくのと反対に、暢の体調は下り坂を駆け下りていくようだった。抗がん剤の副作用で髪は抜け落ち、カツラなしでは外出できなくなった。食欲もがくっと落ちた。
「なんとかカミさんを喜ばせたい」
その一心で、以前暢が喜んだアンパンマンパーティーを再び開いた。1993年7月、アンパンマン20周年を記念し、赤坂プリンスホテルの会場には、招待状の倍の人数が出席する盛り上がりぶり。ホテルにSLのアンパンマン号を設置し、やなせがそれに乗って登場する。グレイのシルクハットを被り、派手なベストを着て、満面の笑みで招待客に手を振るやなせ。しかし、きらびやかな会場にいながら、心は沈痛だった。
主賓であるはずの暢は容体が悪化し、出席できなかった。足の痛みから車いすが必要な生活で「車いすで出席するのはいやだ」と辞退したのだ。やなせは、当時の思いをこう語っている。
「光と影が入り混じって、この時は半分は奈落に落ちるような暗い恐怖と不安。半分は華やいだスポットライトを浴びて、ようやく陽のあたる場所に登場した高揚感。その心境について、誰ひとり知る人はいませんでした。」〔『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)〕
■なんのために生まれて、何をして生きるのか
その年の11月13日、暢の容体が急変し、再び入院となる。彼女は病室にアンパンマンの手拭いやTシャツを置いて、看護婦や見舞客に配っていた。やなせは毎日病院に通いながら仕事をした。顔色が良い時もあり、ある夜はやなせが出演しているテレビを見ては「タカシさんが出ている」とはしゃいだそうだ。
しかし、11月22日朝、脳の血管が切れて意識不明となり、午後4時、暢は眠るように旅立った。享年75歳。余命3カ月と言われたが、5年もその命を奮い立たせた。
父にも、伯父や伯母、弟、そして母の死に目にも会うことはできなかったやなせだが、暢だけは最後の時までしっかり手を握っていられたという。「それがせめてもの幸福だと思うしかなかったのです」(『』フレーベル館)。
1カ月後の同じ時刻、愛犬チャコも後追うようにこの世を去った。暢と同じ肝臓がんだった。「カミさんが連れて行った」とやなせは思った。
長年の戦友を失い、茫然自失となったやなせ。仕事は淡々と続けたが、睡眠薬が欠かせなくなり、食欲も低下。62キロあった体重は50キロまで落ちた。このまま死ぬのか、とさえ思った。
「なんのために生まれて、何をして生きるのか」。アンパンマンマーチの歌詞を、再び自分に問いかけた。
■墓石に記した言葉
人生の結末をどう描くか。思い浮かんだのは、故郷・高知県香北町の山々の景色だ。
先祖代々の墓地は、故郷の山の上にある。子どものいなかったやなせ夫婦にとって、子どものような存在であったアンパンマンに、家を建ててやりたい。そして、そこを訪れる子どもたちに喜んでもらいたい。故郷にアンパンマンの美術館をつくろう、とやなせは思い立った。
話を聞きつけた人に「美術館を建てるそうですね」と聞かれたやなせは、こう答えたそうだ。
「ええ、僕たち夫婦の墓標の代わりです」
1996年に高知県香北町(現・香美市)に「やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム」が開館。全国からファンが訪れ、多くの子供や大人を笑顔にしている。
そこからほど近く、やなせの実家跡の公園内の墓に、やなせと暢は静かに眠っている。墓石には、やなせの手書きの文字でこう書かれている。以下、石碑より引用したい。
「柳瀬家はここにあった 三百年以上続いた旧家だが 今は影もかたちもない 一族の墓石は 後方の 山の中腹にある ぼくはここでねむりたい 故郷の土はあたたかい 木蓮科のマグノリア 一本の朴ノ木にぼくはなりたい 季節には はにかみがちに 白い花を咲かせて 風の中でゆれていたい やなせたかし」
----------
市岡 ひかり(いちおか ひかり)
フリーライター
時事通信社記者、宣伝会議「広報会議」編集部(編集兼ライター)、朝日新聞出版AERA編集部を経てフリーに。
AERA、CHANTOWEB、文春オンライン、東洋経済オンラインなどで執筆。2児の母。
----------
(フリーライター 市岡 ひかり)
それゆえ2人の最後の別れは胸に迫るものがある」という――。
■「あんぱん」では描かれなかった夫婦の最後の5年間
連続テレビ小説「あんぱん」がついに最終回を迎えた。「逆転しない正義」を追い求めてきた2人が、ついに愛と献身のヒーローであるアンパンマンにたどり着いた。それでもなかなか日の目を見なかったが、最終週でついにアニメ化が実現し人気が爆発。半年にわたって、嵩(演・北村匠海)とのぶ(演・今田美桜)の物語を見守ってきた視聴者にとって感慨深いものとなった。
しかし、その分、最終週で描かれた、のぶの深刻な病にショックを受けた人も少なくないだろう。
嵩が「教えてくれない? のぶちゃんに何ができるか」と語り掛けるシーンがあったが、このセリフに史実上のやなせたかしの切なる思いが込められている。なんとか妻・暢(のぶ)を笑わせたい。笑顔を見たいと、余命いくばくもない妻との時間を祈るように過ごした最後の5年間を、当時の資料からひも解きたい。
「あんぱん」に描かれたように、暢の病がわかったのも突然だった。1988年12月、暢が体調を崩し、東京女子医大で診断を受けたときには、すでにがんは全身に転移していた。医師は「奥様の生命は、長くてあと3カ月です。
肝臓にもびっしりがんが転移しています。もう手の施しようがありません」とやなせに告げた。やなせは全身から血の気が引いていくのが解ったという。
■藁にもすがりたいのです
思い返してみれば、気になっていたことはあった。暢が痩せてきたこと、頬にシミが増えたこと……。でも、体調が悪くてもいつも元気に乗り切っていく暢だった。やなせは当時の思いを著作『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)の中でこう語っている。「もっと早く、無理にでも病院へ連れて行くべきだった。悔やんでみても後の祭り」――。
「悪いところは全部切り取ってしまったから大丈夫」。手術後、やなせはそう言って暢を励ました。全身にがんが転移している、とはどうしても言えなかった。
暢は気丈な性格だったので、真実を知ったらかえって心が折れてしまうのではないかと心配したのだ。
悲嘆に暮れていたやなせに、声をかけたのは漫画家の里中満知子だった。
「私もがんだったの。でも、丸山ワクチンを打ち続けて7年で完治しました。試してみれば」
丸山ワクチンとは皮膚結核の治療薬として開発された薬で、1976年にがん治療薬として厚生省(当時)に申請されたが「薬効を証明するデータが不十分」として5年後に却下。ただ、有償治験薬として患者への接種が認められている。
「そんなもの、水みたいなもので効きませんよ」と怪訝な顔をする医師にやなせは「藁にもすがりたいのです、お願いします」と頼み込み、暢に丸山ワクチンの皮下注射を始めた。
■痩せた妻が以前よりも愛おしい
入院から1カ月がたち、歩けるようになった暢を元気づけようと、やなせは病院に愛犬・チャコを連れて行ったこともある。柴犬とのミックスで、茶色毛だったから「チャコ」。「あんぱん」にも登場した「メイ犬BON」をはじめ、やなせたかしの作品に犬が多いのは2人が愛犬家だったのにも関係している。
病院の玄関でチャコに再会した暢は嬉しそうにその体をなで、チャコもちぎれるほど尻尾を振って暢に甘えたという。
ちなみにチャコを飼うことになったのも、やなせ夫妻らしい逸話がある。
やなせスタジオ代表取締役の越尾正子著『やなせたかし先生のしっぽ やなせ夫婦のとっておきの話』(小学館)によると、年齢的にももう犬は飼えないと思っていたやなせ夫妻だったが、ある時近所の人がチャコを連れ「どうか飼ってください」と鰹節をつけて頼みに来たのだという。人の頼みをむげにできない、やなせ夫妻らしい。
その年の暮れに、暢は退院。自宅まで徒歩30分の道のりを、2人で歩いて帰った。痩せて紙のように薄い肩になった暢を、やなせは以前よりももっと愛しいと思ったという。年が明けて、正月になった。暢は薄化粧し、2人はおとそとビールで乾杯した。
「本年も相変わりませずはやめよう、今年は相変わって良い年にしよう」とやなせが言うと、暢は「そうね、変わらなくちゃ」と大笑いした。その笑顔を見て、やなせは改めて思ったという。生きていることはいい。カミさんが笑う顔をみるのはいい。
■「カミさんは戦友だった」
「生命が終わるならその前になんとかカミさんを喜ばせたい、何がいいだろう」
そう考えあぐねていたという。
ところが、驚くべきことが起きた。暢は血色がよくなり、がんになる前は45キロほどだった体重が50キロを超えたほどだった。「いやだわ、肥りすぎだわ」と体型を気にする暢を、やなせは「いやじゃない。肥ったほうがいい。もっと肥ってくれ」と励ました。暢は、お茶のおけいこも、好きだった山歩きも再開できた。
「治るかもしれない」。そんな希望さえ胸をよぎった。「カミさんは、僕にとってはなくてはならない人だった。四十数年苦労を分かち合った戦友だった」〔『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)〕。
アンパンマンのアニメがスタートしたのは、まさにそんな時だった。プロデューサーの武井英彦から「何をやっても2%しかいかないという時間帯ですから期待しないでください」とくぎを刺されていた。
期待度ゼロのスタートだったが、ふたを開けてみれば異例の視聴率7%をたたき出す。一躍ヒットアニメとなり、アンパンマンは文化庁テレビ優秀映画に選ばれた。1990年、やなせは日本漫画家協会大賞を受賞。「正直言って、この受賞は嬉しかった。暗夜の光という感じだった」〔『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)〕。
■ようやく長年の苦労が実った
絵本の売り上げは1000万部を突破し、収入も一気に10倍ほどに。この時、やなせは71歳。ようやく、長年の苦労が実ったのだ。
「庶民の生活をしないと漫画は描けない」と長年築50年以上のマンションに住んでいたやなせだったが、暢のために現代的なシステムキッチンにリフォームした。
暢の体調もまずまず落ち着き、1991年5月、国立劇場で行われた叙勲の伝達式や、同年11月に行われた秋の園遊会にも出席ができた。やなせは勲章をもらうのには気後れしたが、暢となるべく記念になることをしたいと参加を決めたのだという。
しかし、当の暢は、自分の命が長くないことを悟っていたのかもしれない。
『やなせたかし はじまりの物語:最愛の妻 暢さんとの歩み』(高知新聞社)によると、1992年、暢の茶道教室に通っていた越尾正子が、仕事を辞めたことをなにげなく暢に話すと「じゃあうちに来ない?」とやなせスタジオの仕事に誘ったという。
後に、やなせの秘書となる越尾は、暢がやなせを任せられる人を探すのに躍起になっていたと知る。酒が飲めず、編集者との酒宴を断っていたやなせを暢は「子どもっぽい主人を置いていけない」と常に心配していたそうだ。
■光と影の苦しみは、僕しかわからない
アンパンマンが人気を集めていくのと反対に、暢の体調は下り坂を駆け下りていくようだった。抗がん剤の副作用で髪は抜け落ち、カツラなしでは外出できなくなった。食欲もがくっと落ちた。
「なんとかカミさんを喜ばせたい」
その一心で、以前暢が喜んだアンパンマンパーティーを再び開いた。1993年7月、アンパンマン20周年を記念し、赤坂プリンスホテルの会場には、招待状の倍の人数が出席する盛り上がりぶり。ホテルにSLのアンパンマン号を設置し、やなせがそれに乗って登場する。グレイのシルクハットを被り、派手なベストを着て、満面の笑みで招待客に手を振るやなせ。しかし、きらびやかな会場にいながら、心は沈痛だった。
主賓であるはずの暢は容体が悪化し、出席できなかった。足の痛みから車いすが必要な生活で「車いすで出席するのはいやだ」と辞退したのだ。やなせは、当時の思いをこう語っている。
「光と影が入り混じって、この時は半分は奈落に落ちるような暗い恐怖と不安。半分は華やいだスポットライトを浴びて、ようやく陽のあたる場所に登場した高揚感。その心境について、誰ひとり知る人はいませんでした。」〔『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)〕
■なんのために生まれて、何をして生きるのか
その年の11月13日、暢の容体が急変し、再び入院となる。彼女は病室にアンパンマンの手拭いやTシャツを置いて、看護婦や見舞客に配っていた。やなせは毎日病院に通いながら仕事をした。顔色が良い時もあり、ある夜はやなせが出演しているテレビを見ては「タカシさんが出ている」とはしゃいだそうだ。
しかし、11月22日朝、脳の血管が切れて意識不明となり、午後4時、暢は眠るように旅立った。享年75歳。余命3カ月と言われたが、5年もその命を奮い立たせた。
父にも、伯父や伯母、弟、そして母の死に目にも会うことはできなかったやなせだが、暢だけは最後の時までしっかり手を握っていられたという。「それがせめてもの幸福だと思うしかなかったのです」(『』フレーベル館)。
1カ月後の同じ時刻、愛犬チャコも後追うようにこの世を去った。暢と同じ肝臓がんだった。「カミさんが連れて行った」とやなせは思った。
長年の戦友を失い、茫然自失となったやなせ。仕事は淡々と続けたが、睡眠薬が欠かせなくなり、食欲も低下。62キロあった体重は50キロまで落ちた。このまま死ぬのか、とさえ思った。
「なんのために生まれて、何をして生きるのか」。アンパンマンマーチの歌詞を、再び自分に問いかけた。
■墓石に記した言葉
人生の結末をどう描くか。思い浮かんだのは、故郷・高知県香北町の山々の景色だ。
先祖代々の墓地は、故郷の山の上にある。子どものいなかったやなせ夫婦にとって、子どものような存在であったアンパンマンに、家を建ててやりたい。そして、そこを訪れる子どもたちに喜んでもらいたい。故郷にアンパンマンの美術館をつくろう、とやなせは思い立った。
話を聞きつけた人に「美術館を建てるそうですね」と聞かれたやなせは、こう答えたそうだ。
「ええ、僕たち夫婦の墓標の代わりです」
1996年に高知県香北町(現・香美市)に「やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム」が開館。全国からファンが訪れ、多くの子供や大人を笑顔にしている。
そこからほど近く、やなせの実家跡の公園内の墓に、やなせと暢は静かに眠っている。墓石には、やなせの手書きの文字でこう書かれている。以下、石碑より引用したい。
「柳瀬家はここにあった 三百年以上続いた旧家だが 今は影もかたちもない 一族の墓石は 後方の 山の中腹にある ぼくはここでねむりたい 故郷の土はあたたかい 木蓮科のマグノリア 一本の朴ノ木にぼくはなりたい 季節には はにかみがちに 白い花を咲かせて 風の中でゆれていたい やなせたかし」
----------
市岡 ひかり(いちおか ひかり)
フリーライター
時事通信社記者、宣伝会議「広報会議」編集部(編集兼ライター)、朝日新聞出版AERA編集部を経てフリーに。
AERA、CHANTOWEB、文春オンライン、東洋経済オンラインなどで執筆。2児の母。
----------
(フリーライター 市岡 ひかり)
編集部おすすめ