■年収最大520万円→2000万円のチャレンジ
丸亀製麺を運営するトリドールホールディングス(トリドール)は、店長の年収を成果に応じて最大2000万円まで引き上げると発表した。その狙いは、中途採用で優秀な人材を確保するとともに、仕事に対する満足感を引き上げて業績アップにつなげることだ。
現在の最大520万円から大幅に引き上げるトリドールの改革は、新卒一括採用・年功序列型賃金・終身雇用というわが国の長年にわたる労働慣行に、相応のインパクトを与えることになりそうだ。
トリドール以外にも、給与水準を引き上げて働く人の労働意欲と満足感を高めようとする企業は増加している。官公庁でも、人材確保に給与を引き上げて中途採用枠を増やしている。
■賃上げに成功する企業、失敗する企業
一方、改革の取り組みが進まず、業務運営に行き詰まる企業も増えているようだ。東京商工リサーチの調査によると、今年1~8月期の人手不足倒産は239件。前年同期比22.5%増で、集計開始以降で最多の数字となった。人件費を上げたが、そのコストを上回る収益が出せず倒産する企業もあるという。
人手不足が深刻化する中、企業経営者にとって賃上げは避けられない。賃上げ実施とともに、消費者の満足感の高い商品を生み出すことが必要だ。そうした企業が増えると、わが国の労働市場は働きやすい状態に向かうことも期待できる。
古い慣行を崩して新しい仕組みを作れるか、わが国の社会全体がそうした動きを求められている。私たちも発想の転換が必要だ。
■いまは新卒も中途も「売り手市場」
現在、わが国の労働市場は変化している。年功序列賃金・終身雇用などわが国特有の慣行は残っているものの、中途採用の増加などの変化が顕在化しつつある。中途採用に関する調査の一つによると、2025年度の中途採用比率は昨年度から3.8ポイント上昇し、46.8%だった。
少子高齢化による労働力の減少を補うため、仕事の現場に即戦力として中途採用人員を配分する鉄道会社もある。横並びの傾向が強かった新卒の給与水準も大きく変化している。優秀な学生を確保しようと、初任給を大幅に引き上げるケースが相次いだ。初任給を30万円、IT関連分野では40万円を超える初任給を提示する企業も多い。
国内の労働市場を見ると、トランプ政権の政策リスクの高まりにもかかわらず、国内の転職市場は活況を呈している。パーソルキャリアによると、業種別の求人倍率ではコンサルティング(ITや人材)、人材サービス関連の求人が7倍台だという。人手不足の深刻さがうかがわれる。
■30代課長に年収3000万円台を出す企業も
トリドールは、人手不足の解消と成長に貢献できるプロを育成するため、店長の給与水準を大幅に引き上げた。大手総合商社など民間企業の中には、30代の課長職で3000万円台の給与水準を提示するケースもある。
公務員でも給与は上昇し始めた。今年8月、国家公務員の人事管理を担当する人事院は、2025年度の給与改定で月給を平均3.62%引き上げるよう勧告した。引き上げ率は34年ぶりの水準だ。公務員の分野でも人手不足は深刻である。
また、非正規雇用の賃金も上昇している。リクルート・グループによると、7月、首都圏、東海、関西でアルバイト募集時の平均時給は、前年同月比3.8%(46円)高い1268円だった。比較可能な2024年4月以降での最高を更新した。
そうした状況下、これから社会に出る若者の意識も変わりつつある。新卒学生の中には、実力の向上と高い賃金を目指し、外資系企業やITスタートアップ企業での就業を希望する人は増えた。学生のうちに起業して、成功を追い求める人も増えた。
■賃金改革で従業員の「働きがい」を高める
わが国の企業経営者の多くが、従業員の仕事の満足度の停滞に危機感を強めている。
それは、ワーク・エンゲージメント(仕事から得られる満足感)の向上を目指す改革だ。ワーク・エンゲージメントとは、仕事の喜び、働きがいを言う。オランダのユトレヒト大学のウィルマー・B・シャウフェリ教授が提案した。
ワーク・エンゲージメントの構成要素は、活力(生き生きと仕事をする)、熱意(仕事で成長しようとする)、没頭(集中して業務に取り組める)だ。当該分野の調査の一つによると、わが国の仕事満足度は世界最低レベルで推移している。
その背景要因として、給与の停滞と、雇用慣行の影響は大きい。1990年のはじめにバブルが崩壊すると、資産価格は下落し、経済は冷え込んだ。労働組合は賃上げよりも雇用(終身雇用)の維持を重視した。その結果として、経済全体で新しい需要創出は難しくなった。
■「実力より年次」賃金体系からの転換
1997年以降は、金融システム不安の発生、不良債権問題の深刻化も重なり、持続的に物価が下落するデフレ環境にわが国は陥った。
近年、名目賃金は緩やかに増えているが、その上昇率は食品や日用品の価格上昇率を下回っている。しかも、年功序列の賃金体系の名残から、実力・実績より入社年次で給料、手当の水準が決まる企業は依然として多い。従業員は能動的に新しい理論に習熟し、リスクをとって大きな成果を上げる気にはなりづらい。
むしろ、賃金上昇ペースの鈍さに嫌気がさし、より給与水準の高い企業に移る人は増える。専門性の高いプロ人材、経営者を確保することが難しいと、競争に取り残され事業の継続に行き詰まるリスクは高まる。危機感の高まりから、トリドールのように賃金を引き上げ、成長を実現できる人材確保を急ぐ日本企業は急増している。
■結局、企業の成長を左右するのは人材
突き詰めると、企業の成長は人材にかかっている。個々人が新しい発想を実現し、多くの収入、自己実現の満足感を得ようとすることが企業の業績拡大・成長に欠かせない。
社会と経済の変化に対応して、個々人が得意な分野を見つけるため学び直しをする。それによって、実力・実績に応じた収入を得る。
そうした変化に対応するため、トリドールのように賃金制度を見直す企業も増加傾向だ。それは、わが国の労働市場の流動性がさらに高まり、欧米のような状態に向かうことを意味する。
■労働市場の変化をチャンスに変えられるか
欧米では成長分野に進出するため、構造改革(リストラ)を実行する企業は多い。収益性、競争力が低下した事業を売却する。経済環境などに応じて、人員も削減する。足元の欧州自動車業界ではコストカットに人員を削減する企業が相次いだ。
わが国でも、総合電機メーカーなどを中心に、黒字でもリストラを実行する企業は増えている。高い成果を実現し企業の業績拡大に貢献した人には相応に報い、長期の視点で活躍してもらう環境を提供する。トリドールは、そうした考えを実践しようとしているのだろう。
わが国の労働市場は、徐々にではあるが市場の原理が働くようになりつつある。
重要なことは、労働市場の流動化が加速する中、政府や企業がより能動的に変化をチャンスに変えようとする人を増やせるかどうかだ。それが難しいと、所得格差問題は拡大する。
失業保険のあり方や、学びなおし制度拡充の重要性は高まる。労働市場の流動性向上と、仕事からの満足感をいかに高めるか、私たちも真剣に考えることが必要だ。
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真壁 昭夫(まかべ・あきお)
多摩大学特別招聘教授
1953年神奈川県生まれ。一橋大学商学部卒業後、第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。ロンドン大学経営学部大学院卒業後、メリル・リンチ社ニューヨーク本社出向。みずほ総研主席研究員、信州大学経済学部教授、法政大学院教授などを経て、2022年から現職。
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(多摩大学特別招聘教授 真壁 昭夫)
丸亀製麺を運営するトリドールホールディングス(トリドール)は、店長の年収を成果に応じて最大2000万円まで引き上げると発表した。その狙いは、中途採用で優秀な人材を確保するとともに、仕事に対する満足感を引き上げて業績アップにつなげることだ。
現在の最大520万円から大幅に引き上げるトリドールの改革は、新卒一括採用・年功序列型賃金・終身雇用というわが国の長年にわたる労働慣行に、相応のインパクトを与えることになりそうだ。
トリドール以外にも、給与水準を引き上げて働く人の労働意欲と満足感を高めようとする企業は増加している。官公庁でも、人材確保に給与を引き上げて中途採用枠を増やしている。
■賃上げに成功する企業、失敗する企業
一方、改革の取り組みが進まず、業務運営に行き詰まる企業も増えているようだ。東京商工リサーチの調査によると、今年1~8月期の人手不足倒産は239件。前年同期比22.5%増で、集計開始以降で最多の数字となった。人件費を上げたが、そのコストを上回る収益が出せず倒産する企業もあるという。
人手不足が深刻化する中、企業経営者にとって賃上げは避けられない。賃上げ実施とともに、消費者の満足感の高い商品を生み出すことが必要だ。そうした企業が増えると、わが国の労働市場は働きやすい状態に向かうことも期待できる。
古い慣行を崩して新しい仕組みを作れるか、わが国の社会全体がそうした動きを求められている。私たちも発想の転換が必要だ。
■いまは新卒も中途も「売り手市場」
現在、わが国の労働市場は変化している。年功序列賃金・終身雇用などわが国特有の慣行は残っているものの、中途採用の増加などの変化が顕在化しつつある。中途採用に関する調査の一つによると、2025年度の中途採用比率は昨年度から3.8ポイント上昇し、46.8%だった。
少子高齢化による労働力の減少を補うため、仕事の現場に即戦力として中途採用人員を配分する鉄道会社もある。横並びの傾向が強かった新卒の給与水準も大きく変化している。優秀な学生を確保しようと、初任給を大幅に引き上げるケースが相次いだ。初任給を30万円、IT関連分野では40万円を超える初任給を提示する企業も多い。
国内の労働市場を見ると、トランプ政権の政策リスクの高まりにもかかわらず、国内の転職市場は活況を呈している。パーソルキャリアによると、業種別の求人倍率ではコンサルティング(ITや人材)、人材サービス関連の求人が7倍台だという。人手不足の深刻さがうかがわれる。
■30代課長に年収3000万円台を出す企業も
トリドールは、人手不足の解消と成長に貢献できるプロを育成するため、店長の給与水準を大幅に引き上げた。大手総合商社など民間企業の中には、30代の課長職で3000万円台の給与水準を提示するケースもある。
業界の垣根を越えて人材争奪戦は熾烈だ。
公務員でも給与は上昇し始めた。今年8月、国家公務員の人事管理を担当する人事院は、2025年度の給与改定で月給を平均3.62%引き上げるよう勧告した。引き上げ率は34年ぶりの水準だ。公務員の分野でも人手不足は深刻である。
また、非正規雇用の賃金も上昇している。リクルート・グループによると、7月、首都圏、東海、関西でアルバイト募集時の平均時給は、前年同月比3.8%(46円)高い1268円だった。比較可能な2024年4月以降での最高を更新した。
そうした状況下、これから社会に出る若者の意識も変わりつつある。新卒学生の中には、実力の向上と高い賃金を目指し、外資系企業やITスタートアップ企業での就業を希望する人は増えた。学生のうちに起業して、成功を追い求める人も増えた。
■賃金改革で従業員の「働きがい」を高める
わが国の企業経営者の多くが、従業員の仕事の満足度の停滞に危機感を強めている。
トリドールは賃金改革の狙いは、「従業員の内発的動機による唯一無二の感動創造に挑戦」であると発表した。同社トップは、従業員がチャレンジして新しい需要を生み出し、仕事への喜びを高めてほしいと考えている。
それは、ワーク・エンゲージメント(仕事から得られる満足感)の向上を目指す改革だ。ワーク・エンゲージメントとは、仕事の喜び、働きがいを言う。オランダのユトレヒト大学のウィルマー・B・シャウフェリ教授が提案した。
ワーク・エンゲージメントの構成要素は、活力(生き生きと仕事をする)、熱意(仕事で成長しようとする)、没頭(集中して業務に取り組める)だ。当該分野の調査の一つによると、わが国の仕事満足度は世界最低レベルで推移している。
その背景要因として、給与の停滞と、雇用慣行の影響は大きい。1990年のはじめにバブルが崩壊すると、資産価格は下落し、経済は冷え込んだ。労働組合は賃上げよりも雇用(終身雇用)の維持を重視した。その結果として、経済全体で新しい需要創出は難しくなった。
■「実力より年次」賃金体系からの転換
1997年以降は、金融システム不安の発生、不良債権問題の深刻化も重なり、持続的に物価が下落するデフレ環境にわが国は陥った。
失われた30年などと呼ばれる長期停滞の間、企業は成長期待の高い分野に進出するよりも、終身雇用などの現状維持を優先した。その結果、日本経済はIT革命やスマホの登場に取り残され、賃金はほとんど増えなかった。
近年、名目賃金は緩やかに増えているが、その上昇率は食品や日用品の価格上昇率を下回っている。しかも、年功序列の賃金体系の名残から、実力・実績より入社年次で給料、手当の水準が決まる企業は依然として多い。従業員は能動的に新しい理論に習熟し、リスクをとって大きな成果を上げる気にはなりづらい。
むしろ、賃金上昇ペースの鈍さに嫌気がさし、より給与水準の高い企業に移る人は増える。専門性の高いプロ人材、経営者を確保することが難しいと、競争に取り残され事業の継続に行き詰まるリスクは高まる。危機感の高まりから、トリドールのように賃金を引き上げ、成長を実現できる人材確保を急ぐ日本企業は急増している。
■結局、企業の成長を左右するのは人材
突き詰めると、企業の成長は人材にかかっている。個々人が新しい発想を実現し、多くの収入、自己実現の満足感を得ようとすることが企業の業績拡大・成長に欠かせない。
社会と経済の変化に対応して、個々人が得意な分野を見つけるため学び直しをする。それによって、実力・実績に応じた収入を得る。
時には、キャリアアップのために転職する。こうした考えがわが国の個人に浸透し始めた。
そうした変化に対応するため、トリドールのように賃金制度を見直す企業も増加傾向だ。それは、わが国の労働市場の流動性がさらに高まり、欧米のような状態に向かうことを意味する。
■労働市場の変化をチャンスに変えられるか
欧米では成長分野に進出するため、構造改革(リストラ)を実行する企業は多い。収益性、競争力が低下した事業を売却する。経済環境などに応じて、人員も削減する。足元の欧州自動車業界ではコストカットに人員を削減する企業が相次いだ。
わが国でも、総合電機メーカーなどを中心に、黒字でもリストラを実行する企業は増えている。高い成果を実現し企業の業績拡大に貢献した人には相応に報い、長期の視点で活躍してもらう環境を提供する。トリドールは、そうした考えを実践しようとしているのだろう。
わが国の労働市場は、徐々にではあるが市場の原理が働くようになりつつある。
そうした変化は加速するだろう。個々人、企業はそうした変化に確実に対応しなければならない。
重要なことは、労働市場の流動化が加速する中、政府や企業がより能動的に変化をチャンスに変えようとする人を増やせるかどうかだ。それが難しいと、所得格差問題は拡大する。
失業保険のあり方や、学びなおし制度拡充の重要性は高まる。労働市場の流動性向上と、仕事からの満足感をいかに高めるか、私たちも真剣に考えることが必要だ。
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真壁 昭夫(まかべ・あきお)
多摩大学特別招聘教授
1953年神奈川県生まれ。一橋大学商学部卒業後、第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。ロンドン大学経営学部大学院卒業後、メリル・リンチ社ニューヨーク本社出向。みずほ総研主席研究員、信州大学経済学部教授、法政大学院教授などを経て、2022年から現職。
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(多摩大学特別招聘教授 真壁 昭夫)
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