2026年1月2日、3日に開催される箱根駅伝を前に、10月から大学駅伝のシーズンが始まる。毎年のように記録が更新される一方、途中棄権する選手が急増している。
■いまの駅伝選手には「勁さ」がない?
まもなく第37回の出雲全日本大学選抜駅伝(10月13日)を皮切りに、3大大学駅伝のシーズンが始まる。
筆者は物書きという職業柄、経済物であれスポーツ物であれ、常にドラマを持っている主人公を探している。具体的には、一筋縄でいかない人生行路によって、独特の印影や勁(つよ)さを兼ね備えた人柄となり、読者が魅力を感じる人物だ。
しかし、最近の大学駅伝では、なかなかそうしたランナーにお目にかからない。
むしろ逆に、わいせつ事件で相次いで逮捕される選手や元選手が出たりして(2008年東洋大学、2015年上武大学、2021年駒沢大学)、幻滅を感じることも少なくない。
また1947年(戦後復活第1回)~1986年までの40年間で途中棄権したチームは4校しかないが、1987年~2025年までの39年間では3倍の12校が途中棄権し、スピードこそあれ、勁さが失われているのではないかとも感じる。
長距離走で“勁さ”というのは、レースにおいて、不測のアクシデントがあったとしても、簡単に崩れない肉体的・精神的タフネスを指し、その後の人生の助けにもなる資質である。
■「大人の都合」に翻弄される選手たち
筆者は、大学2年生になる直前に早稲田大学競走部に準部員として入部したが、故・中村清監督から「お前らは瀬古(利彦)と違って石ころだ。石ころは年に一度、箱根駅伝で花を咲かせればいいんだ」と言い放たれ、面食らった。大学の長距離走の指導者にとって、箱根駅伝で勝つことが自分の指導力を示す最高の手段で、異様な箱根駅伝重視は、当時からどの大学も同じだった。
1987年からテレビ中継が始まると、視聴率は30%近くに達し(2025年の関東地区の視聴率は往路が27.9%、復路が28.8%)、特別協賛のサッポロホールディングスが払うスポンサー料は推定で1回8~10億円、その他、ミズノ、トヨタ自動車、セコム、敷島製パン、NTTドコモなど、超大手企業からスポンサー料やサービス・商品が提供され、興行主である読売グループや日本テレビに莫大な利益が落ちる(CMの多くは読売広告社が取り扱っている)。
箱根駅伝で名前が売れると、受験生や受験料収入が増えるので、各大学ともスポーツ推薦枠や予算を拡大し、駅伝強化に特別な力を入れるようになった。各大学が負担する強化費用は、最低でも年間2億円程度と見積もられ、実質的な広告宣伝費となっている。
■札束合戦で選手が劣化している
箱根駅伝によって生み出される金は、選手たちにも降り注ぐ。
5000mでインターハイ(全国高校総体)に出場できる選手は全国で66人しかいないが、毎年約400人程度が大学にスカウトされ、授業料免除、栄養費という名目の小遣い(一番多い大学は月30万円といわれる)、酸素ルームなど各種設備があり、マッサージを施す複数のトレーナーがいる合宿所、栄養管理が行き届いた食事、医科学を駆使した体調管理、メーカーからの用具提供など、さまざまな特典が与えられる。
選手の多くは、高校進学の時点から無試験で、受験やアルバイトの経験もなく、夏休みはその大半を日本各地での合宿練習に費やし、ろくに大学の授業に出ない者や、栄養費でブランド品を買いあさる選手もいる。
■檀家回りと両立させていた駒沢のエース
昔の話で恐縮だが、筆者の時代(1979年、80年箱根駅伝出場)にあったのは、スカウト活動と、一部の大学での授業料の一部ないしは全額免除くらいである。マッサージは練習後に選手同士で行い、専門のマッサージ療院に行くときは、1回2500円を自腹で払っていた。家の経済状態が厳しい選手は、下落合(新宿区)の旅館の布団敷きのアルバイトをやったりしていた。
この点に関して、筆者が常々感心していたのが、駒沢大学陸上競技部の主将を務めた大越正禅(おおこししょうぜん)氏だ。筆者と同じ北海道出身で、1学年上だったので、中・高・大学時代を通じて、何度も一緒に走ったことがある。
北海道十勝地方にある浦幌町の曹洞宗寺院の長男だった大越氏は、8歳で得度(とくど)し、中学時代からお盆の時期に改良衣と呼ばれる黒い着物に絡子(らくす)(小型の袈裟)、草履ばきで自転車を漕ぎ、檀家を回って棚経を上げていた。
大越氏より10歳下の青山学院大学の原晋監督は、自分を殺して修行僧のように精進する、当時の競技生活を評して「私たちは仏道修行のために陸上をやっているのではないはずだ」と著書で訴えているが、大越氏は、文字通り仏道修行と陸上競技を両立していた。
■王者・順天堂からスカウトされる実力だったが…
大越氏の実家の寺は檀家を約400軒も抱え、それが東京23区よりも広い面積の浦幌町の内外に点在していたので(北海道には東京23区より広い自治体が47もある)、7月の20日頃から8月中旬まで、父と手分けして、ほぼすべての檀家を回っていた。約25日間しかない短い夏休みは、ほとんど檀家回りでつぶれ、その合間を縫って、指導者もいない中、一人で毎月600kmを走る猛練習を積み、インターハイの5000mで9位に入った。
大学は、当時日本インカレ(日本学生陸上競技対校選手権大会)の男子総合で5連覇中(最終的には16連覇)の「陸上競技王国」順天堂大学の世界的ランナー澤木啓祐氏(当時コーチ)がわざわざ北海道までやって来て勧誘し、同大学への進学が決まった。しかし、曹洞宗の北海道第2宗務所(教区)のトップや駒沢大学教務部の強い意向で、駒沢大学仏教学部への進路変更を余儀なくされ、頭を下げて澤木氏に断るはめになった。
■1年で「地球1周分」を走っていた
大学時代も、毎年お盆に帰省し、檀家回りを務め、大学3年のときには、法戦式(ほっせんしき)という、仏道や禅の修行・悟りについて激しい問答を戦わせる儀式も行った。これは大量の難解なセリフや所作をおぼえる必要があり、無事終えると、住職へのステップになる座元(ざげん)という法階(僧侶の階級)が与えられる。式のリハーサルは、父に頭を叩かれながらの厳しいもので、たまたま用事で寺に来ていた葬儀屋が「若、よくプッツンしないねえ!」と感心していたという。
競技のほうは、4年連続で箱根駅伝に出場し、5区(山登り)で区間2位、日本インカレの3000m障害でも2位という学生トップクラスの成績を残した。1978年に出した3000m障害8分51秒4の駒沢大学記録は、47年たった今も破られていない伝説のランナーだ。
卒業後は、川崎にある大本山總持寺で約1年間修行し、翌年には父親の跡を継いで住職になった。仕事のかたわら、何とか陸上競技を続けようと2年あまり頑張ったが、仕事があまりにも忙しく、伸び盛りの25歳で競技を断念せざるを得なかった。
その後は、曹洞宗の北海道青年会副会長、町の体育指導員、陸上競技協会の普及部長といった公職を務め、檀家のニーズを重視した寺院運営を行うとともに、試合には出場しなかったが、毎月300~400kmを走り続け、68歳になった今も走っている。
筆者は、同じ北海道の神社の長男だったが、大越氏ほどには家業を手伝わず、跡も継がなかった。大越氏の半生は、一抹の恥じ入る気持ちとともに見てきた。
■家庭教師で生計を立てていた学生チャンピオン
大越氏と並んで筆者がすごいと思うのは、大越氏の道立浦幌高校の2年先輩で、高校卒業後地元の役場に2年間勤務した後、順天堂大学に進学した竹島克己氏だ。
高校時代はインターハイに出場したものの予選落ちだった。しかし、大学では着実に力を伸ばし、日本インカレの30kmで優勝、箱根駅伝9区で区間賞(区間新記録)、箱根駅伝総合優勝という、輝かしい成績を残した。
竹島氏の学生生活で感心するのは、週に3回(月、水、金)の家庭教師を卒業まで4年間続けたことだ。これは、親になるべく負担をかけたくないと思っていた竹島氏に、澤木コーチが紹介したアルバイトで、大学の近くの京成大久保駅(千葉県習志野市)の真ん前にある蕎麦屋の一人息子で小学3年生の男の子を教えるというものだった。両親は店の仕事で忙しいので、その子と一緒に夕食をとり、その後、1時間程度学校の復習を中心に面倒をみてほしいという要望だった。
■二度驚かされた竹島氏の一言
驚くのは、「陸上競技王国」の順天堂大学でも、当時は寮で食事が出るのは昼食だけで、コンロなどの自炊用設備も乏しく、湯を沸かす程度しかできなかったという。学生たちは、マーガリンを塗ったパンや紅茶の朝食をとり、昼は寮の食堂で200円程度を払って定食的な物を食べ、夕食は皆、京成大久保駅周辺の商店街の店で外食していたという。
筆者は今般、大越氏と竹島氏の競技生活や大越氏の仏道修行を描いた『袈裟と駅伝』というノンフィクション(ベースボール・マガジン社刊)を上梓した。取材で竹島氏の大学時代の練習日誌を見せてもらったが、「陸上競技王国」の名にふさわしい多彩な練習メニューだった。ポイント練習(強い練習)では、40km走を2時間22分とか、200mのジョグを挟んで1000m(2分58秒程度)×10+600m(1分40秒程度)×5+200m(28秒程度)×3など、相当な走り込みをしていた。筆者が「40km走の後に、よく家庭教師なんかできましたね。疲れてへとへとじゃなかったですか?」と訊くと、「いや、普通にやってたよ」とごく当たり前のことのようにいうので、二度驚かされた。
■かつては一般入試組が当たり前にいた
大越氏や竹島氏のように、競技以外にタスクを持ってこなしていくこと(二足の草鞋)は、時間管理、自己管理、体調管理などの能力を高め、それが競技に反映される好循環をもたらし、さらに人格も磨かれるというメリットがある。
竹島氏の卒業後、蕎麦屋の息子の家庭教師のアルバイトは、3年下の後輩、小山輝夫氏(静岡県立御殿場南高校出身)が引き継いだが、小山氏もその子を中学1年から3年まで教え、箱根駅伝には3年連続出場し、10区で区間2位と区間賞、5区で区間2位、総合優勝2回という素晴らしい成績を収めている。
大越氏より1歳半年下で、24歳になって駒沢大学の夜間の経済学部に入学し、自活のため川崎市の小学校用務員として働きながら箱根駅伝などで活躍した大八木弘明氏もそうした選手の一人だ。同氏は1995年に駒沢大学の指導者になると、今日も続く黄金時代を築き上げた(現在は同大学陸上競技部総監督兼アスリートプロジェクト「Ggoat」指導者)。
大越氏、竹島氏、大八木氏ほどの両立ぶりではないにしても、当時は一般入試組が多く、学業と競技の両立は必須のタスクだった。筆者の2年先輩で早稲田の駅伝主将を務め、箱根駅伝を3回走った内野郁夫氏(神奈川県立小田原高校出身、5000mでインターハイに2回出場)は政経学部だったし、1年先輩でやはり箱根駅伝を3回走った森山嘉夫氏(静岡県立浜松北高校出身、インターハイ1500m障害7位)は理工学部だった。
■「走ることしか知らない学生アスリート」に大学も危機感
確かに箱根駅伝人気で、競技人口は増え、中学・高校時代からの走り込み、練習方法や用具の進歩、競技環境の向上で、競技レベルは格段に上がった。結構なことだが、昨今のセミプロ化した高校野球(甲子園のベスト4に残る強豪校は金をかけた私立が大半で、選手たちの大半もスカウト入学)と状況は似ていて、大人の都合に引っ張られた結果ともいえる。そのため「学生スポーツがそんなんでいいの?」というもやもや感が常につきまとう。
走ることしか知らない選手たちは、いざ走れなくなると人生で立ち往生しそうな危うさを抱え、冒頭で述べたような過ちを犯したりもする。
時計の針を巻き戻して、昔のようにやれとはいわないが、やれることはいくつもあるはずだ。たとえば早稲田大学では、2014年度から運動部員全員の学業を重視する「WAP(ワセダ・アスリート・プログラム)」という、文武両道を奨励し、人格陶冶を支援する制度を実施している。具体的には、学生アスリートとして必要な教養やスキルを学ぶためのオリジナルテキストの配布、講演会・セミナー開催、ボランティア・地域貢献活動への参加、国際交流、学業成績優秀チームや個人の表彰などだ。OBのひいき目かもしれないが、いわれてみれば、昨今の早稲田の選手たちの顔つきは、なかなかしっかりしているようにも見える。
■実社会の厳しさ、お金の大切さを学ぶ機会を与える
大学が制度として作らなくても、各校の指導者がやれることは少なくない。
たとえば、高校時代に実績のない選手を鍛え上げることで定評のある帝京大学の中野孝行監督が一つの例だ。
中野氏が行っている独特の取り組みは、夏に群馬県の万座高原で行う選抜合宿のメンバーにあと一歩で選ばれなかった数人の選手たちを、現地の旅館「万座亭」のアルバイトとして約1カ月間、布団の上げ下ろしや食事の配膳をさせながら、選抜メンバーとは別メニューで練習させることだ。
学生であっても、万座亭の制服を着ている限り、客に失礼があれば万座亭の責任になるという緊張感の中で働くことは、実社会の厳しさやお金の大切さを学ぶことにつながる。中野氏はアルバイトの選手たちのために朝4時に起き、雨の中、20km走を車で伴走したりし、彼らの中から箱根の本番を走れるまでになる選手を数多く育てている。
本稿の分量の関係上、これ以上詳しくは述べないが、現状を前提にしてもやれることはいろいろあるはずだ。関係者の問題認識および工夫と努力で、心から感動と共感をもたらしてくれる勁い選手たちが多数出ることを期待したい。
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黒木 亮(くろき・りょう)
経済小説家
1957年、北海道生まれ。ロンドン在住。早稲田大学法学部卒業後、カイロ・アメリカン大学大学院(中東研究科)修士号取得。銀行や証券会社、総合商社に23年あまり勤務後、2000年に『トップ・レフト』で作家デビュー。最新刊は『マネーモンスター』。
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(経済小説家 黒木 亮)
大学駅伝ランナーは、なぜ心や体が弱くなってしまったのか。『袈裟と駅伝』(ベースボール・マガジン社)を出した作家で元箱根駅伝ランナーの黒木亮さんが解説する――。
■いまの駅伝選手には「勁さ」がない?
まもなく第37回の出雲全日本大学選抜駅伝(10月13日)を皮切りに、3大大学駅伝のシーズンが始まる。
筆者は物書きという職業柄、経済物であれスポーツ物であれ、常にドラマを持っている主人公を探している。具体的には、一筋縄でいかない人生行路によって、独特の印影や勁(つよ)さを兼ね備えた人柄となり、読者が魅力を感じる人物だ。
しかし、最近の大学駅伝では、なかなかそうしたランナーにお目にかからない。
むしろ逆に、わいせつ事件で相次いで逮捕される選手や元選手が出たりして(2008年東洋大学、2015年上武大学、2021年駒沢大学)、幻滅を感じることも少なくない。
また1947年(戦後復活第1回)~1986年までの40年間で途中棄権したチームは4校しかないが、1987年~2025年までの39年間では3倍の12校が途中棄権し、スピードこそあれ、勁さが失われているのではないかとも感じる。
長距離走で“勁さ”というのは、レースにおいて、不測のアクシデントがあったとしても、簡単に崩れない肉体的・精神的タフネスを指し、その後の人生の助けにもなる資質である。
■「大人の都合」に翻弄される選手たち
筆者は、大学2年生になる直前に早稲田大学競走部に準部員として入部したが、故・中村清監督から「お前らは瀬古(利彦)と違って石ころだ。石ころは年に一度、箱根駅伝で花を咲かせればいいんだ」と言い放たれ、面食らった。大学の長距離走の指導者にとって、箱根駅伝で勝つことが自分の指導力を示す最高の手段で、異様な箱根駅伝重視は、当時からどの大学も同じだった。
1987年からテレビ中継が始まると、視聴率は30%近くに達し(2025年の関東地区の視聴率は往路が27.9%、復路が28.8%)、特別協賛のサッポロホールディングスが払うスポンサー料は推定で1回8~10億円、その他、ミズノ、トヨタ自動車、セコム、敷島製パン、NTTドコモなど、超大手企業からスポンサー料やサービス・商品が提供され、興行主である読売グループや日本テレビに莫大な利益が落ちる(CMの多くは読売広告社が取り扱っている)。
箱根駅伝で名前が売れると、受験生や受験料収入が増えるので、各大学ともスポーツ推薦枠や予算を拡大し、駅伝強化に特別な力を入れるようになった。各大学が負担する強化費用は、最低でも年間2億円程度と見積もられ、実質的な広告宣伝費となっている。
■札束合戦で選手が劣化している
箱根駅伝によって生み出される金は、選手たちにも降り注ぐ。
5000mでインターハイ(全国高校総体)に出場できる選手は全国で66人しかいないが、毎年約400人程度が大学にスカウトされ、授業料免除、栄養費という名目の小遣い(一番多い大学は月30万円といわれる)、酸素ルームなど各種設備があり、マッサージを施す複数のトレーナーがいる合宿所、栄養管理が行き届いた食事、医科学を駆使した体調管理、メーカーからの用具提供など、さまざまな特典が与えられる。
選手の多くは、高校進学の時点から無試験で、受験やアルバイトの経験もなく、夏休みはその大半を日本各地での合宿練習に費やし、ろくに大学の授業に出ない者や、栄養費でブランド品を買いあさる選手もいる。
■檀家回りと両立させていた駒沢のエース
昔の話で恐縮だが、筆者の時代(1979年、80年箱根駅伝出場)にあったのは、スカウト活動と、一部の大学での授業料の一部ないしは全額免除くらいである。マッサージは練習後に選手同士で行い、専門のマッサージ療院に行くときは、1回2500円を自腹で払っていた。家の経済状態が厳しい選手は、下落合(新宿区)の旅館の布団敷きのアルバイトをやったりしていた。
この点に関して、筆者が常々感心していたのが、駒沢大学陸上競技部の主将を務めた大越正禅(おおこししょうぜん)氏だ。筆者と同じ北海道出身で、1学年上だったので、中・高・大学時代を通じて、何度も一緒に走ったことがある。
北海道十勝地方にある浦幌町の曹洞宗寺院の長男だった大越氏は、8歳で得度(とくど)し、中学時代からお盆の時期に改良衣と呼ばれる黒い着物に絡子(らくす)(小型の袈裟)、草履ばきで自転車を漕ぎ、檀家を回って棚経を上げていた。
大越氏より10歳下の青山学院大学の原晋監督は、自分を殺して修行僧のように精進する、当時の競技生活を評して「私たちは仏道修行のために陸上をやっているのではないはずだ」と著書で訴えているが、大越氏は、文字通り仏道修行と陸上競技を両立していた。
■王者・順天堂からスカウトされる実力だったが…
大越氏の実家の寺は檀家を約400軒も抱え、それが東京23区よりも広い面積の浦幌町の内外に点在していたので(北海道には東京23区より広い自治体が47もある)、7月の20日頃から8月中旬まで、父と手分けして、ほぼすべての檀家を回っていた。約25日間しかない短い夏休みは、ほとんど檀家回りでつぶれ、その合間を縫って、指導者もいない中、一人で毎月600kmを走る猛練習を積み、インターハイの5000mで9位に入った。
大学は、当時日本インカレ(日本学生陸上競技対校選手権大会)の男子総合で5連覇中(最終的には16連覇)の「陸上競技王国」順天堂大学の世界的ランナー澤木啓祐氏(当時コーチ)がわざわざ北海道までやって来て勧誘し、同大学への進学が決まった。しかし、曹洞宗の北海道第2宗務所(教区)のトップや駒沢大学教務部の強い意向で、駒沢大学仏教学部への進路変更を余儀なくされ、頭を下げて澤木氏に断るはめになった。
■1年で「地球1周分」を走っていた
大学時代も、毎年お盆に帰省し、檀家回りを務め、大学3年のときには、法戦式(ほっせんしき)という、仏道や禅の修行・悟りについて激しい問答を戦わせる儀式も行った。これは大量の難解なセリフや所作をおぼえる必要があり、無事終えると、住職へのステップになる座元(ざげん)という法階(僧侶の階級)が与えられる。式のリハーサルは、父に頭を叩かれながらの厳しいもので、たまたま用事で寺に来ていた葬儀屋が「若、よくプッツンしないねえ!」と感心していたという。
競技のほうは、4年連続で箱根駅伝に出場し、5区(山登り)で区間2位、日本インカレの3000m障害でも2位という学生トップクラスの成績を残した。1978年に出した3000m障害8分51秒4の駒沢大学記録は、47年たった今も破られていない伝説のランナーだ。
卒業後は、川崎にある大本山總持寺で約1年間修行し、翌年には父親の跡を継いで住職になった。仕事のかたわら、何とか陸上競技を続けようと2年あまり頑張ったが、仕事があまりにも忙しく、伸び盛りの25歳で競技を断念せざるを得なかった。
当時、車で檀家回りをしていたが、年間4万km、すなわち地球1周分を走っていたそうである。
その後は、曹洞宗の北海道青年会副会長、町の体育指導員、陸上競技協会の普及部長といった公職を務め、檀家のニーズを重視した寺院運営を行うとともに、試合には出場しなかったが、毎月300~400kmを走り続け、68歳になった今も走っている。
筆者は、同じ北海道の神社の長男だったが、大越氏ほどには家業を手伝わず、跡も継がなかった。大越氏の半生は、一抹の恥じ入る気持ちとともに見てきた。
■家庭教師で生計を立てていた学生チャンピオン
大越氏と並んで筆者がすごいと思うのは、大越氏の道立浦幌高校の2年先輩で、高校卒業後地元の役場に2年間勤務した後、順天堂大学に進学した竹島克己氏だ。
高校時代はインターハイに出場したものの予選落ちだった。しかし、大学では着実に力を伸ばし、日本インカレの30kmで優勝、箱根駅伝9区で区間賞(区間新記録)、箱根駅伝総合優勝という、輝かしい成績を残した。
竹島氏の学生生活で感心するのは、週に3回(月、水、金)の家庭教師を卒業まで4年間続けたことだ。これは、親になるべく負担をかけたくないと思っていた竹島氏に、澤木コーチが紹介したアルバイトで、大学の近くの京成大久保駅(千葉県習志野市)の真ん前にある蕎麦屋の一人息子で小学3年生の男の子を教えるというものだった。両親は店の仕事で忙しいので、その子と一緒に夕食をとり、その後、1時間程度学校の復習を中心に面倒をみてほしいという要望だった。
■二度驚かされた竹島氏の一言
驚くのは、「陸上競技王国」の順天堂大学でも、当時は寮で食事が出るのは昼食だけで、コンロなどの自炊用設備も乏しく、湯を沸かす程度しかできなかったという。学生たちは、マーガリンを塗ったパンや紅茶の朝食をとり、昼は寮の食堂で200円程度を払って定食的な物を食べ、夕食は皆、京成大久保駅周辺の商店街の店で外食していたという。
竹島氏は「週に3回、蕎麦屋で栄養のある夕食をとれるのは、有難かった」という。
筆者は今般、大越氏と竹島氏の競技生活や大越氏の仏道修行を描いた『袈裟と駅伝』というノンフィクション(ベースボール・マガジン社刊)を上梓した。取材で竹島氏の大学時代の練習日誌を見せてもらったが、「陸上競技王国」の名にふさわしい多彩な練習メニューだった。ポイント練習(強い練習)では、40km走を2時間22分とか、200mのジョグを挟んで1000m(2分58秒程度)×10+600m(1分40秒程度)×5+200m(28秒程度)×3など、相当な走り込みをしていた。筆者が「40km走の後に、よく家庭教師なんかできましたね。疲れてへとへとじゃなかったですか?」と訊くと、「いや、普通にやってたよ」とごく当たり前のことのようにいうので、二度驚かされた。
■かつては一般入試組が当たり前にいた
大越氏や竹島氏のように、競技以外にタスクを持ってこなしていくこと(二足の草鞋)は、時間管理、自己管理、体調管理などの能力を高め、それが競技に反映される好循環をもたらし、さらに人格も磨かれるというメリットがある。
竹島氏の卒業後、蕎麦屋の息子の家庭教師のアルバイトは、3年下の後輩、小山輝夫氏(静岡県立御殿場南高校出身)が引き継いだが、小山氏もその子を中学1年から3年まで教え、箱根駅伝には3年連続出場し、10区で区間2位と区間賞、5区で区間2位、総合優勝2回という素晴らしい成績を収めている。
大越氏より1歳半年下で、24歳になって駒沢大学の夜間の経済学部に入学し、自活のため川崎市の小学校用務員として働きながら箱根駅伝などで活躍した大八木弘明氏もそうした選手の一人だ。同氏は1995年に駒沢大学の指導者になると、今日も続く黄金時代を築き上げた(現在は同大学陸上競技部総監督兼アスリートプロジェクト「Ggoat」指導者)。
大越氏、竹島氏、大八木氏ほどの両立ぶりではないにしても、当時は一般入試組が多く、学業と競技の両立は必須のタスクだった。筆者の2年先輩で早稲田の駅伝主将を務め、箱根駅伝を3回走った内野郁夫氏(神奈川県立小田原高校出身、5000mでインターハイに2回出場)は政経学部だったし、1年先輩でやはり箱根駅伝を3回走った森山嘉夫氏(静岡県立浜松北高校出身、インターハイ1500m障害7位)は理工学部だった。
森山氏は理工学部の中でも難易度の高いゼミに所属しており、実験のために部の全体練習に出られないこともしばしばで、よく夕暮れのグラウンドを一人で走っていた。筆者自身も一般入試組(法学部)である。
■「走ることしか知らない学生アスリート」に大学も危機感
確かに箱根駅伝人気で、競技人口は増え、中学・高校時代からの走り込み、練習方法や用具の進歩、競技環境の向上で、競技レベルは格段に上がった。結構なことだが、昨今のセミプロ化した高校野球(甲子園のベスト4に残る強豪校は金をかけた私立が大半で、選手たちの大半もスカウト入学)と状況は似ていて、大人の都合に引っ張られた結果ともいえる。そのため「学生スポーツがそんなんでいいの?」というもやもや感が常につきまとう。
走ることしか知らない選手たちは、いざ走れなくなると人生で立ち往生しそうな危うさを抱え、冒頭で述べたような過ちを犯したりもする。
時計の針を巻き戻して、昔のようにやれとはいわないが、やれることはいくつもあるはずだ。たとえば早稲田大学では、2014年度から運動部員全員の学業を重視する「WAP(ワセダ・アスリート・プログラム)」という、文武両道を奨励し、人格陶冶を支援する制度を実施している。具体的には、学生アスリートとして必要な教養やスキルを学ぶためのオリジナルテキストの配布、講演会・セミナー開催、ボランティア・地域貢献活動への参加、国際交流、学業成績優秀チームや個人の表彰などだ。OBのひいき目かもしれないが、いわれてみれば、昨今の早稲田の選手たちの顔つきは、なかなかしっかりしているようにも見える。
■実社会の厳しさ、お金の大切さを学ぶ機会を与える
大学が制度として作らなくても、各校の指導者がやれることは少なくない。
たとえば、高校時代に実績のない選手を鍛え上げることで定評のある帝京大学の中野孝行監督が一つの例だ。
中野氏は、大越氏や竹島氏と同じ北海道東部の道立白糠高校の出身で、農家の三男として若い頃からお金に苦労し、話していると、言葉の端々に、物やお金を大切にし、地に足を着けて堅実に生きる価値観を選手たちに教えていることが感じられる。
中野氏が行っている独特の取り組みは、夏に群馬県の万座高原で行う選抜合宿のメンバーにあと一歩で選ばれなかった数人の選手たちを、現地の旅館「万座亭」のアルバイトとして約1カ月間、布団の上げ下ろしや食事の配膳をさせながら、選抜メンバーとは別メニューで練習させることだ。
学生であっても、万座亭の制服を着ている限り、客に失礼があれば万座亭の責任になるという緊張感の中で働くことは、実社会の厳しさやお金の大切さを学ぶことにつながる。中野氏はアルバイトの選手たちのために朝4時に起き、雨の中、20km走を車で伴走したりし、彼らの中から箱根の本番を走れるまでになる選手を数多く育てている。
本稿の分量の関係上、これ以上詳しくは述べないが、現状を前提にしてもやれることはいろいろあるはずだ。関係者の問題認識および工夫と努力で、心から感動と共感をもたらしてくれる勁い選手たちが多数出ることを期待したい。
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黒木 亮(くろき・りょう)
経済小説家
1957年、北海道生まれ。ロンドン在住。早稲田大学法学部卒業後、カイロ・アメリカン大学大学院(中東研究科)修士号取得。銀行や証券会社、総合商社に23年あまり勤務後、2000年に『トップ・レフト』で作家デビュー。最新刊は『マネーモンスター』。
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(経済小説家 黒木 亮)
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