※本稿は、藤田直央『極秘文書が明かす戦後日本外交 歴代首相の政治決断に迫る』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
■ソ連は二島返還に同意していたのに…
第二次大戦が終わって80年、日本とロシアの間にまだ平和条約はない。北方領土問題が解決していないからだ。2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降、これを批判する日本とロシアの外交は凍結状態だが、もし再起動しても北方領土問題が最大の懸案として立ちはだかることに変わりはない。
1945年8月に日本が降伏すると表明した直後、ソ連軍は択捉、国後、歯舞、色丹の「北方四島」を占領。日本人の住民らは島を追われた。その後に始まった冷戦のもとで米国が主導した52年発効の対日講和条約にソ連は加わらなかった。
日本は首相が対米関係を重視した吉田茂から1954年に鳩山一郎に代わると、対ソ外交に乗り出す。56年に鳩山がモスクワを訪れ、共産党第1書記フルシチョフらと国交回復で合意。しかしソ連が実効支配を続ける北方領土の問題が残った。
この時に交わされた条約である日ソ共同宣言(56年宣言)に、こうある。
第9項 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
日本とソ連は平和条約の締結へさらに交渉を続け、締結後にソ連から日本に歯舞、色丹を引き渡すという内容だ。戦後日本の対ソ連、対ロシア外交は、この「二島」に加え、残りの国後、択捉の扱いを少しでも日本に有利な形で決着させた上で、平和条約を結ぼうとする模索だった。
■国がいまだに明かさない日ソ交渉の裏側
ただ、2012年に首相に復帰した安倍晋三は、中国の台頭に対応するため日ロ関係を進展させようと北方領土問題で妥協へ動く。18年の大統領プーチンとの首脳会談で「56年宣言を基礎として平和条約交渉を加速させる」と合意。歯舞、色丹の「二島」での決着を急いでいた。
その安倍の判断を評価する上で、そもそも56年宣言をまとめた鳩山の訪ソでどのような交渉があったのかを知ることは欠かせない。だが実は、政府はいまだに関連の外交文書をほとんど明かさない。30年ルールによる公開時期をとっくに過ぎているが、「継続中の交渉に関する過去の記録は非公開」という理由からだ。
鳩山訪ソの記録が「公的な私文書」として政府の外にもあるのを知ったのは、2019年9月のことだ。日米関係史に詳しい日本大学名誉教授の信夫隆司を別件で取材の折に、「三木文書を知っていますか」と聞かれた。
戦前から国政で活躍し、首相まで務めた三木武夫は実に丁寧に文書を残す人で、没後に膨大な量を母校の明治大学が長年かけて整理したのだという。この企画に関わった信夫は、すでに1960年代後半の三木外相当時の小笠原・沖縄返還交渉関連文書に注目して読み込んでいた。
三木文書の編集にあたったのは明治大学史資料センター。東京・神田に担当者を訪ねて話を聞き、興味は一層深まった。
■元首相のメモに書かれていたこと
徳島出身の三木は1937年の衆院選で30歳で当選。敗戦後は小政党を率いながら55年の保守合同で自民党に合流し、翌年に幹事長になった。自民党政権では小派閥の領袖として閣僚や党三役を歴任し、金権政治批判で退陣した田中角栄の後の首相に登り詰めた。
その三木の永田町(政界)での動きや、霞が関(中央省庁)からの報告などの史料、約6万5千点が2004年に妻の睦子から明大に寄贈されていた。このセンターで整理を続けており、電子データ化をふまえた目録を作成中との話だった。
2019年11月に公開されたPDFの目録を開くと、それだけで616ページと圧倒された。だが、「おや?」と思うタイトルが1ページ目にいきなりあった。
「池田内閣期以前 日ソ関係 日ソ交渉会談録(昭和三十一年九月‐十月 於東京及びモスクワ)1957年7月 欧亜局第3課」
「昭和三十一年」、つまり1956年の10月といえば、1年5カ月にわたる日ソ交渉が鳩山訪ソで決着し56年宣言が調印された時だ。
この会談録が作られた頃の三木は岸政権のキーパーソンだ。内閣改造に伴い自民党の幹事長から政調会長に横滑りしていた。56年宣言が12月までに日ソ双方の議会で承認されて一段落した頃、外務省がこの会談録をまとめ、鳩山訪ソの最終報告として三木に届けていたことは十分ありうる。
■専門家を驚嘆させた記録の数々
筆者は2019年12月、九州大学准教授で著書『沖縄返還と日米安保体制』(2012年)がある中島琢磨を別件で福岡に訪ねた際に、この件を相談した。電子データ化された三木文書を大学で購入しており、中島は研究や授業で1950年代前半の保守合同前夜の政界の動きを伝える記録などを生かしていた。
「日ソ交渉会談録」はまだ見ていなかったというので、中島のパソコンで一緒に文書の画像をのぞいた。劣化して黄ばんだ紙に、タイプの文章で計236ページ。
「日ソ交渉会談録」の表紙に続く目次には、1956年9月から10月にかけての日付が連なり、当時の両政府のキーパーソンの名が連なる計25の「会談録」「議事録」といったタイトルが並ぶ。文字がかなりかすれているが、「鳩山、ブルガーニン」「河野、フルシチョフ」などと読める。
鳩山とフルシチョフの首脳同士の会談や、健康に不安のある鳩山に同行し、フルシチョフと実質的な交渉をした農相河野一郎らが重ねた会談の記録だ。
計236ページにわたり延々と記された会談の記録には、56年宣言の書きぶりで会談ごとに双方が提案した内容まで付属資料として含まれていた。「すごいですね」と中島。外交文書の読み込みで中島に遠く及ばない筆者にも、鳩山訪ソの際のハイレベル会談を網羅した完成度の高い記録に思えた。
■「公的な私文書」の懸念点
東京に戻ると、明治大学史資料センターの担当者に連絡し、「日ソ交渉会談録」の電子データの提供を受けた。気合を入れて資料を読み始めたのは、2019年の暮れだった。
こうした「公的な私文書」を記事にする時に難しいのは、何が「ニュース」なのかだ。外務省が30年ルールで公開した「公文書」であれば、当時の記事にない話を見つけて「実はこうだった」と書ける。ところが今回のように「継続中の交渉」だからと外務省が出していない分野だと、かなり厄介だ。
それが三木文書という形で見つかったのだから、そのまま「ニュース」になるのではと思われるかもしれない。だが、「継続中の交渉」だとして政府が長年公文書を伏せてきたからこそ、56年宣言の裏でどんな交渉があったかについて当時から関心は高いままであり、それに応えようと様々な文献がすでに世に出ているのだ。
松本の回顧録『モスクワにかける虹』(1966年)が有名だが、他にも二つある。
■北方領土交渉の定説を覆す新発見
もう一つは、日ソ国交回復40年にあたる1996年、ソ連から北方領土交渉を継いだロシア政府が「大統領文書館公報」に載せたソ連側議事録だ。
いずれも朝日新聞論説委員の駒木明義から教わった。モスクワ支局長を経験し、北方領土問題に関する著書もある先達で、協力して「日ソ交渉会談録」を読み込んでいた。筆者がざっと目を通し、とりあえず領土問題のやり取りを中心にメモを作った頃、駒木はすでに56年宣言交渉をめぐる定説を覆す大きな「ニュース」を見つけていた。
国交回復と、平和条約締結後の歯舞・色丹引き渡しが明記された56年宣言に至る交渉について、従来の見方はこうだった。
日本側は択捉・国後の残り二島の話をソ連側に棚上げされないよう、「領土問題を含む平和条約締結交渉を継続する」と記すことにぎりぎりまでこだわったが、ソ連側に押しきられた――。
ところが三木文書には、交渉の途中で日本側から降りる譲歩案を示していたことが記されていたのだ。
補足する。前述したように、56年宣言交渉に関しては日本政府が文書を公開していない一方で、「松本回顧録」「野口メモ」「ソ連側議事録」が世に出ており、それらですでに語られていることをふまえないと、三木文書の「日ソ交渉会談録」がどれだけの「ニュース」なのかはわからない。
■フルシチョフに渡された「妥協案」
56年宣言交渉の大詰めは、鳩山率いる政府全権団が1956年10月にモスクワを訪れて始まった。
上記4点の記録に通じる流れは、領土問題について河野とフルシチョフが四回の会談を重ね、第三回でフルシチョフが「領土問題を含む」を削ると急に言い出して押しきったため、56年宣言には「国交回復後に平和条約締結交渉を継続し、締結後にソ連は日本に歯舞・色丹を引き渡す」とだけ記されたというものだ。
そして「松本回顧録」では、日本側は第三回の河野・フルシチョフ会談まで「領土問題を含む」ことを共同宣言に記すよう主張し続けたことになっている。鳩山の『鳩山一郎回顧録』(1957年)にも「最も心を砕いた」こととして、「こちらは終始『残る領土問題を含めて、平和条約のための交渉を継続する』ということにしようと主張し続けた」とある。
ところが三木文書には、河野が第二回の会談で「領土問題を含む」という文言を含まない妥協案をフルシチョフに渡す様子が記され、その全文も添付されているのだ。
世を去って3年になるスターリンの独裁を公然と批判し世界を驚かせたフルシチョフと、戦前の衆院議員の頃から鳩山を支え自民党総裁に押し上げた党人派の河野。会談の場所は四回とも、ソ連共産党中央委員会のフルシチョフの部屋と記されている。クレムリン宮殿のある赤の広場から車で5分ほどの建物だ。
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藤田 直央(ふじた・なおたか)
朝日新聞編集委員
1972年、京都府生まれ。京都大学法学部卒、政策研究大学院大学修了。94年に朝日新聞社に入り、主に政治部で政治・外交・安全保障を取材し、2019年より現職。21年より法政大学兼任講師。ハーバード大学客員研究員、東京大学客員教授も務めた。
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(朝日新聞編集委員 藤田 直央)