朝ドラ「ばけばけ」(NHK)のモデルとなった、文学者・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。八雲のひ孫である小泉凡さんは「ハーンの前半生はギリシャ人の母と別れ、アイルランド人の父に死なれ、片目の視力を失うという苦難の連続だった」という――。

※本稿は、小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■175年前、ギリシャの英国領の島に生まれた
八雲は、1850(嘉永3)年6月、ギリシャ・レフカダ島に生まれました。アイルランド、アメリカを経て、39歳で来日を果たします。セツと結婚して、三男一女を授かりました。長男の一雄が僕の祖父にあたり、一雄の一人息子が僕の父である時(とき)(1925~2009)です。
八雲作品は、再話文学として「雪女」などを収めた代表作『怪談』(1904)をはじめ、山陰を舞台に明治期の市井の暮らしを活写した紀行文『知られぬ日本の面影』(1894)といったノンフィクション作品、宗教や家族、天皇観などから国情を分析した文化論『日本 一つの解明』(1904)などがよく知られています。
教育者としては、高等教育機関である第五高等中学校(現在の熊本大学の前身)や、最高学府の帝国大学(現在の東京大学)で教えました。こうしたおもだった経歴について知ると、「文豪」のイメージも伴い、さぞや恵まれた環境で育ったエリートに思えるかもしれません。
実は全く、そんなことはないのです。
■父はアイルランド人、2歳でダブリンに移り住む
むしろ大人になるまで幾度も悲劇に見舞われました。幼い頃から家庭環境に恵まれず、少年期には事故で左目の視力を失いました。通っていた神学校は親代わりになって援助してくれた大叔母の破産で中退を余儀なくされます。
大学など高等教育機関で学ぶ機会などありませんでした。
生まれたのはギリシャ・イオニア海にあるレフカダ島です。ギリシャといっても、この島は政治的には英国領で、八雲の国籍も英国籍でした。
そこでアイルランド出身で軍医の父チャールズと、イオニア諸島のキシラ島で育った母ローザとの間に生まれました。2歳の頃に、父の赴任地だったレフカダ島から父方の親類が暮らすダブリンに移り住みます。
ローザはアイルランドの気候や風土があわなくて、精神を病んでしまいます。そして八雲が4歳の頃、故郷に帰らざるを得なくなりました。それが永遠の別れとなります。チャールズはローザとの結婚は無効だったとして離婚します。まもなく別の女性と再婚した父を、八雲は嫌いました。
■両親は離婚、乳母からケルト民話を聞いて育つ
そんな境遇の子どもを育ててくれたのは、資産家だった父方の大叔母、サラ・ブレナンです。
キャサリン・コステロという、子ども時代をともに過ごした乳母の影響が、八雲の精神世界を育みました。
彼女が夜ごと語ったアイルランドの物語は、ファンタジーを求める子どもの心の糧になります。感じやすい子で、顔のない幽霊を見る、という恐怖体験もしました。この時に心に染みついたイメージは来日後、「むじな」という東京・赤坂で暗躍する、のっぺらぼうを描いた怪談の執筆につながってゆきます。
こうしたケルトの口承文芸と恐怖体験が八雲の鋭い感受性で渦を巻き、後に十八番となる再話文学へと昇華していったのでしょう。そこには幼い頃に生き別れ、思慕の念を募らせた母譲りのギリシャの精神風土に多・神教の世界観が宿っていたこともあるように思います。
大叔母のサラは、自らの屋敷に私設の教会を建てるほど熱心なカトリック信者でした。八雲を聖職者にしようと、フランスの神学校に通わせました。フランス語が身についたのは収穫だったのですが、生来、疑い深い性格の八雲は、カトリックの教えが腑(ふ)に落ちませんでした。
■カトリックの神学校に入り、16歳で左目を失明
13歳の頃、イングランド北部にある全寮制の神学校に入れられます。そこで神父でもある教師を困らせました。ある時、アイルランドの人々の信仰のような「あらゆるものに神が宿るという考え方」について尋ねたことがありました。すると、そんな考え方がいかにばかげているか長々と説教されました。

その後もカトリックの教えに納得がいかず教師を質問攻めにするなど、学校ではトラブルをしばしば起こしました。そんなやんちゃぶりに友人らはひそかに喝采を送りました。八雲のファーストネームのパトリックにちなみ、「パディ」と呼ばれる人気者になったそうです。
数学はからきし駄目でしたが、英語は得意でした。英文学のとりこになり、文才もあったのでしょう、「ブリティッシュ・ライター」というあだ名がつけられたのは暗示的です。
16歳の時、学校での事故で左目の視力を失います。手術を受けましたが、視力は戻りませんでした。強烈なショックを受けましたが、視力以外の身体感覚が研ぎ澄まされていった面もあります。音に敏感な書き手となり、よく聞こえる耳から著述における描写力が培われた、とも言えるでしょう。
義眼は入れませんでしたが、八雲の写真は右側から撮影されたり、横を向いたり、うつむいていたり、というカットばかり残されています。容姿については、一言では語れない思いを抱いていたのでしょう。
■17歳で父が死去、ロンドンでスラム街を放浪
17歳の頃、父は赴任先で他界します。
同じ頃、大叔母は野心家の親類が起こした事業に投資しましたが、それが立ちゆかなくなり、破産します。八雲は援助を打ち切られ、神学校の中退を余儀なくされました。大叔母らが暮らす家に身を寄せましたが、冷淡な扱いを受けます。まだ少年でしたし、さぞや絶望したことでしょう。
貧困の中、ロンドンに流れ着き、テムズ河畔のスラム街を昼も夜も放浪します。寝泊まりをする部屋もなかったでしょう。ただ自暴自棄にならず、非行に走ることはありませんでした。
それはセツと同じように、八雲に宿された向日性ゆえでしょう。とにかく、へこたれない性格です。人間の欲深さやみにくさを見る路上生活の日々でしたが、底辺で暮らす人々への興味や共感もまた抱くのでした。
八雲の、権威主義を嫌う、曇りのないローアングルの構えは、こうした少年時代から清濁併せのんだ環境でしぶとく育ったことから培われたものです。
身長157センチという小柄で、隻眼の19歳には志がありました。
時を得て、自らの文才をたのみとして物書きになるのだ、と念じていたのです。
■移民としてアメリカに渡り、職場を転々とする
19世紀半ば、きわめて深刻な飢饉に苦しめられたアイルランドからおびただしい人がアメリカに移り住みます。いきおい、アイルランド系の人には厳しい目が向けられることが多かったといいます。
八雲は1869(明治2)年、ニューヨークに渡りました。かぼそい縁をたより、オハイオ州のシンシナティに行きます。書記として入った会社ではきちんと計算ができず、解雇されます。電報配達の仕事に就きましたが、年下にからかわれ、給料も受け取らずにやめてしまいました。
ぶきっちょな人なのです。
頑固者で、これだ、と決めたことには邁進する。それはそれでいいのですが、身辺のことを要領よくこなす、ということが全くできない。
現代のように、コスパとかタイパというような効率性をもっぱら求められたら、すぐに立ち往生してしまうでしょう。
転々と職を変わらざるをえず、赤貧の暮らしが続きました。
馬小屋に入り込み、干し草のなかに入って暖を取り、しのぐ夜もありました。
■同じく片目が不自由な老人の家で文才を磨く
そんな折、印刷屋を営むヘンリー・ワトキンという老人が救いの手を差し伸べます。三度の食事と印刷で余った紙をつかった寝床を用意してくれます。移民の家系で、片方の目が不自由な人でした。同じような境遇の若者が路頭に迷っているのを、放っておけなかったのでしょう。父親の愛情を知らぬ八雲はこの人物を「オールド・ダッド」と呼んで、生涯、慕いました。
居候のような暮らしでしたが、持ち前の文才を磨こうと、独習を重ねます。折しもオープンしたばかりのシンシナティ公立図書館には膨大な書籍があり、そこを居場所として読書に努めます。ライターとして習作に励み、ボストンの週刊誌などに寄稿を続けました。
■不屈の精神でついに新聞社社員の座をつかむ
24歳の頃、地元の新聞社シンシナティ・エンクワイアラー社にイギリスの詩人作品への批評を持ち込んだところ、主筆であるジョン・コカリルに大変評価されました。正社員に採用され、記者として働けるようになります。
ついに機会を得ました。
移民として渡った米国で、物書きへの階段を上がれた。喜びようはいかばかりだったか。ここでつかんだチャンスを、八雲は決して手放しませんでした。身一つで渡った米国で悪路をくぐり抜け、なお前へ前へと進んでゆく。僕のような普通の人ならへこたれてしまい、人生そのものを投げだしてしまったに違いありません。
出典=『セツと八雲

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小泉 凡(こいずみ・ぼん)

小泉八雲記念館館長

1961(昭和36)年、東京都生まれ。成城大学大学院で民俗学を専攻し、87年から曽祖父・小泉八雲ゆかりの松江市で暮らす。小泉八雲記念館館長、焼津小泉八雲記念館名誉館長、島根県立大学短期大学部名誉教授を務める。著書に『怪談四代記 八雲のいたずら』(講談社)、『小泉八雲と妖怪』(玉川大学出版部)など。撮影=朝日新聞出版写真映像部・佐藤創紀

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(小泉八雲記念館館長 小泉 凡 取材・文=木元健二)
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