■「女郎買いのガイド本」という傑作
世の中、松平定信(井上祐貴)が号令をかける「倹約」一色に染まり、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)の「故郷」である吉原は、金を落とすお大尽もいなくなり、厳しい状況に追い込まれていた。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第37回「地獄に京伝」(9月28日放送)。
そこで蔦重は「吉原を救うためのもんを考えたいんだ」といって、北尾政演、すなわち戯作者の山東京伝(古川雄大)を、「お前、吉原にはさんざん世話になっている身だ。やらねえとはいわねえよな」とけしかけた。
しかし、恋川春町(岡山天音)が、御政道をからかう黄表紙を書いた責任をとって腹を切って間もない。京伝自身、罰金刑になったばかりなので、「けど、お咎め受けるようなのは」と乗り気ではない。
しばらくして、喜多川歌麿(染谷将太)と京伝が蔦重に提案したのは、「女郎買いを指南する洒落本」だった。歌麿はこう説明した。「女郎と客の小話を通して、いい客ってのはこんなだよ、よくねえ客ってのはこんなだってわからせて、いい客を増やす、育てるって考えだ」。
蔦重はピンとこない様子だが、京伝は「歌さんの絵は、ありのままだからおもしれえわけじゃねえですか。小話もそういう具合にしてえなって」。
だが、吉原での女郎との遊びを題材にした文学など、結局のところ、松平定信が許すわけもなかったのである。
■大奥vs.定信の結果
市井における女の園が吉原なら、江戸城における女の園は大奥だった。「べらぼう」第37回では、吉原が苦境だという話に続いて、場面は大奥に切り替わった。
大奥の女中の最上位に位置する上臈御年寄の1人である大崎(映美くらら)が、定信と対面していた。大崎が「大奥はすでに倹約に努めております。これ以上、なにを削れと?」と問うと、定信は羊羹(ようかん)の倹約を要求し、続いて、倹約すべき事柄を列挙した書状を渡した。
すると定信は、大奥の嘆願を受けた一橋治済(生田斗真)に呼ばれた。「大奥があまりに質素なのは、ご公儀の威光に関わるとのお」と伝える治済に、定信は「贅沢であれば威厳があるというのは、浅薄極まりない考え」と反論。治済から「大奥の女たちには、表に出る楽しみもない」のだから、中で楽しむことぐらい許してほしいと頼まれると、「では、中の楽しみを減じぬような倹約の手を、私のほうで考えましょう」と伝えた。
そして後日。家臣が治済に「大奥より使いが参り、大崎殿が老女の役を免ぜられた」と伝えた。そこにいた定信は、「大崎殿は不正な貯えのほか、老女の任にふさわしからぬ行いも多く認められ、お役を免ずべきと決しましてございます。お約束どおり、楽しみを減ずることなく倹約もかないましたかと」と啖呵を切った。
細々とした倹約をたくさん強いるのが嫌なら、贅沢好きな老女をまるごと排除してしまえばいい、というのが定信の理屈だった。
■将軍家斉の乳母すら追い出した
このように、松平定信が「寛政の改革」で取り締まった対象には、女性がらみの場所が多かった。最初に大奥から見ていきたい。
将軍に直接お目通りできる「御目見得以上」の大奥女中は、将軍の側近くに仕えて公家出身者が多かった「上臈御年寄」が最上位で、「御年寄」「中年寄」「御客会釈」「御中臈」「御小姓」と続いた。トップの上臈御年寄は定員が8人だが、定信は老中就任中の6年間に、8人のうち5人を解任してしまったのである。
まず、定信の老中就任に反対した2人、「べらぼう」では冨永愛が演じた高岳、それから滝川を追い出した。続いて、ドラマの第37回で描写されたように、寛政元年(1789)11月には、大崎を解任してしまった。
とりわけ大崎の解任は、たとえ老中首座兼将軍補佐の判断としても、かなり大胆なものだったといえる。
■側室の叔母も追放
そんなことをして、将軍家斉の反感を買わないはずもないが、定信はさらに突き進んでいった。寛政4年(1792)8月には2人の上臈御年寄、梅野井と高橋を解任している。とくに高橋を追い出した影響は大きかった。
家斉は寛政元年(1789)3月、側室のお万の方に、のちに尾張徳川家に嫁ぐ長女の淑姫(ひでひめ)を産ませた。家斉にとってはじめての実子で、側室のなかでもとりわけお万の方を寵愛した家斉は、その後、長男と次女、三女も彼女に産ませた(その3人は夭折した)。高橋はそのお万の方の叔母だったのである。
家斉最愛の側室、お万の方が長男の竹千代を生むと、その周囲の女中たちは、正室の寔子が男子を生まないように呪い、寔子付の女中たちとの対立が生じたといわれる。定信はそれを解消するために、高橋を解任したというのだが、将軍補佐役としての自分に、過剰なまでの自信をいだいていたのだろうか。将軍最愛の側室を支える身寄りを追い出すというのは、かなり大胆だというほかない。
定信は将軍補佐役として、大奥に入り浸る家斉にがまんがならなかったのだろう。
■嫌な感じの「相互監視システム」
さて、山東京伝が書き、寛政2年(1790)に蔦重が刊行した前述の『傾城買四十八手』は、それ自体がお咎めを受けることはなかったが、定信が黙って許したというわけではなかった。
じつは、遊里などを描いたいわゆる好色本は、すでに享保7年(1722)、8代将軍吉宗による「享保の改革」のもと、町触で禁じられていた。だが、時間を経て有名無実になっていた。そこで定信は、寛政2(1790)年5月と9月、70年近く前の禁令を確認する御触書を出し、洒落本の刊行を原則として禁じることにした。
将軍家斉が入り浸る先の大奥を徹底的に締め上げ、年間20万両といわれた経費も3分の1にまで減らしたという定信。市井の男性が入り浸る遊里も嫌ったのか、遊里を舞台にした戯作は事実上、出せなくしてしまった。
しかも、続けて10月には洒落本や黄表紙などを刊行する場合、地本問屋の仲間内で、内容に問題がないかどうか「行事」が確認する「改」を行うように義務づけた。相互監視システムによって、徹底的に取り締まろうとしたのである。
■大奥の締め付けと洒落本禁止の意外な共通点
だが、蔦重は「べらぼう」でも描かれているように、定信の締めつけに確信犯的に抵抗したのだろう。京伝に『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』という3冊の洒落本を書かせ、寛政3年(1791)に刊行した。
とはいえ、なんら配慮をしなかったわけではない。
それでも、綱紀粛正の徹底を図る定信のお目こぼしを得ることはできず、蔦屋も京伝も、さらには「改」にかかわった地本問屋仲間の「行事」までもが、重い罰を受けることになってしまった。
大奥の倹約と綱紀粛正。市井の遊里を対象にした洒落本の禁止。両者のあいだには、共通点がないように見えて、じつは「女の園」でつながっている。それらへの定信の介入には、女の園への入り浸りを嫌がる定信の性癖も、見てとれるように思われる。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)