※本稿は、杜師康佑『超凡人の私がイノベーションを起こすには』(日本経済新聞出版)の一部を再編集したものです。
■国内トップのガラスメーカーが最先端の医薬拠点をつくるワケ
東京湾に面する横浜市鶴見区の工業地帯。巨大な工場が立ち並ぶJR鶴見線沿線にあるのは、大手素材メーカーAGCの横浜テクニカルセンターだ。同センターの一区画には、目下建設中の施設がある。
もともとガラスの加工工場や倉庫として使われていた建屋を一新し、500億円という巨額の資金を投じてバイオ医薬品の開発・製造受託拠点を建設する。都心や羽田空港からも近く、国内外からのアクセスが良好なほか、製造した医薬品を首都圏の大規模病院にタイムリーに供給できる好立地にある。
AGCは2025年からまず、人工的に増殖した細胞を投与することで治療につなげる「細胞治療薬」の開発受託サービスを始め、2026年には抗体医薬や細胞治療薬、メッセンジャーRNA(mRNA)医薬品の開発・製造の受託サービスも開始する。
医薬品には様々な種類があり、私たちが風邪を引いた際などに処方される薬の多くは化学的に合成した低分子医薬と呼ばれるもの。これに対して、動物やヒトの細胞を培養して作る高分子の医薬品のことをバイオ医薬品と呼ぶ。バイオ医薬品の中にも様々な種類があり、例えば、抗体医薬はウイルスや細胞の表面にある「抗原」と呼ばれる部分に結合し、薬としての効き目を発揮する。細胞治療薬やmRNA医薬品もバイオ医薬品に含まれる。
■製薬業界の「鴻海」をめざす
AGCはこれらのバイオ医薬品を製造するメーカーだが、AGC自身が自社ブランドで医薬品を販売しているわけではない。大手製薬会社やバイオベンチャーが顧客となり、医薬品の製造をAGCが受託する。製薬業界ではCDMO(Contract Development and Manufacturing Organization)と呼ばれる立場だ。構造としては台湾の鴻海精密工業がアップルからiPhoneの生産を受託しているのに似ている。
医薬品を開発して販売するまでには10年単位の時間がかかる。基礎研究から始まり、複数の臨床試験を経て、各国の当局に申請を出し、承認されて初めて製造販売が認められる。
厳しい品質管理が求められ、莫大な投資額が必要な工場をゼロから建設し、長い時間をかけて稼働率を維持していくことがいかに難しいかは製薬業界のビジネスモデルを見れば一目瞭然だ。であれば製造は手掛けずに外部に委託し、自分たちは研究開発に特化しようという企業が出てくるのは必然の流れ。結果としてAGCのようなCDMOがプラットフォーマーとしての役割を強める。
■液晶テレビ特需が生んだ最高益だったが…
AGCはもともと1907年、創業者の岩崎俊彌が板ガラスの国産化を目指して創立した。2018年までは旭硝子という社名だった。その名に「硝子」が入っている通り、いまでも住宅やオフィスビルなど建築用、フロントガラスやリアガラスなど自動車用、テレビやスマートフォンなど電子用といった多彩なガラス製品を手掛け、売上高の6割をガラスが占める。
話は十数年前に遡る。2010年、AGCは過去最高となる2292億円の営業利益を叩きだしていた。収益を支えていたのは液晶ディスプレーガラスと呼ばれる製品だった。
液晶テレビは、液晶と呼ぶ物質が動作する原理で動いている。AGCはこの液晶をはじめとした部材を挟み込むディスプレーのガラスを製造している。2010年前後はブラウン管から薄型の液晶テレビにシフトが始まり、各家庭で置き換えが進んだ。AGCはテレビ産業で起きたイノベーションを背景に利益を稼いでいたわけだ。
■「次を作れ」危機感からの新たな指令
だが、好調は長続きしない。競合他社との価格競争やテレビの置き換え需要が一巡した影響で、翌年の2011年からは一転減益に。4年連続の営業減益で2014年には621億円と、全盛期だった2010年の3分の1以下になってしまった。2010年は最高益だったものの、営業利益の8割をディスプレーガラスなど電子ガラス部門が稼いでいた。逆にいえば他の事業はほとんど利益が出ていないという偏りのある収益構造だった。
社内からは将来を不安視する声が出ていてもおかしくなかった。新たなチャレンジを模索する動きがあっても良かったはずだが、どことなく安堵感が漂っていたという。
そんな最中、現在AGCの社長を務め、当時は電子ガラス部門に在籍していた平井良典さんはある2人の人物から呼び出された。当時の石村和彦社長と西見有二副社長だ。
「ディスプレーであと何年ぐらい会社の利益を支えることができる?」。
石村社長は平井さんに問いかけた。社内の安堵感とは裏腹に経営トップは危機感を抱いていた。まもなく「液晶バブル」は終わり、会社の収益を支える次なる柱が必要になる。その柱を育てなければ旭硝子の先はないという危機感だ。
「あと3年くらいでしょう」。平井さんはこう答えたという。実際には2011年からは減益が始まり、AGCの収益力は低下の一途を辿ることになる。
「お前のミッションは次を作ることだ」。平井さんには液晶ディスプレーガラスに続く収益の柱を作る使命が課せられた。
■事業開拓室が実践した「両利きの経営」
継続的に利益を上げていく組織作りのため、平井さんが2011年に作ったのが「事業開拓室(現在は事業開拓部に改名)」という新規事業部門だ。建築ガラスや自動車ガラスの既存事業部門が生産プロセスの効率化などを通じて収益力を高め、その収益を原資に事業開拓部が新ビジネスの種をまく。AGCのようにこれら双方を実践する経営を「両利きの経営」と呼ぶ。
両利きとは英語で「Ambidexterity」と呼ばれる。
リスクを取って実験的に新しい取り組みを行う「知の探索」と、既存事業を効率化するなどより強くする「知の深化」をバランスよく行うことから「両利き」と言われている。
探索と深化の概念はもともと経営学者のジェームズ・マーチ氏が打ち立てた考え。1991年の論文の中では探索と深化の間でどのようにバランスを取るべきかが検討されており、組織が短期的な成果を追求するあまり深化に偏りすぎると、長期的には自己破壊的な結果を招く可能性があると指摘している。
探索を重ねて常に新たな領域にチャンスを見出そうとするのは一見、当然のようにみえるが実践するのは容易ではない。探索のためには既存の枠組みの外側に足を踏み出していく必要があるため、時間やコストが相応にかかってしまうためだ。成果の見えやすい既存事業の深化の方が短期的な収益が出やすいため、深化の方に偏重しがちで、その結果イノベーションを創出する力が枯渇してしまう。
■「探索と深化」の成功は至難の業
組織レベルで探索と深化を行う方法として、チャールズ・A・オライリー氏とマイケル・L・タッシュマン氏は2004年の論文で新規事業と既存事業のユニットを物理的・組織的に分離すること、それぞれ異なるカルチャーやプロセス、インセンティブの設計を持つこと、経営層のリーダーシップでこれらの組織を統合的に連携させることの重要性を掲げた。
両利きの経営を規模の大きな組織で実践するのはかなり難易度が高い。
既存事業はミスなく正確にオペレーションすることが重要で、組織として統率の取れた状態が求められる。一方、新規事業はリスクを取りながら小規模に製品やサービスを作り出し、失敗を重ねながら育てることが必要だ。
二つの組織では所属する人材の評価基準も違えば働き方も大きく異なる。
新規事業部門には人・モノ・カネ、あらゆるリソースが少ないことから、新規と既存を分けたままにしておくと対立の構造が生まれてしまい、既存部門の協力を得られずに新規事業の種が花を咲かせないまま終わってしまうというのがよくあるパターンだ。
■将来有望と考えた4つの分野
AGCはどうしたか。
事業開拓部には研究所などから研究開発テーマを持った人材が集められる。事業開拓部の中で新ビジネスの種を育てるのだが、建築ガラス、自動車ガラスなど既存事業を手掛ける部門にも事業開拓部のカウンターパートになる窓口を設けている点が特徴だ。新規事業が既存事業の力を借りたいときに声をかけたり、逆に既存事業の中に眠っているアイデアを新規事業に提案したり、相互のコミュニケーションを容易にする。
平井さんは将来成長する可能性やマーケットの大きさなどを考慮し、「エレクトロニクス」「モビリティ」「ライフサイエンス」「パフォーマンスケミカルズ」の4分野を新規事業の中心に据え、既存事業と連携しながらビジネス化を推進した。
エレクトロニクスには半導体やスマートフォンの材料が含まれる。
モビリティはフロントガラスやリアガラスなど自動車用ガラスとは少し異なり、アンテナやセンサーが埋め込まれた特殊なガラスを指す。自動運転やコネクテッドカーが普及すれば、自動車と外部環境の無線通信は欠かせない技術。単にガラスを耐久性が高く車内環境を守る素材として見るのではなく、通信機能を持つ部品として付加価値を高める。そしてライフサイエンスは人間の健康や寿命の延伸という普遍的なニーズが見込まれる分野だ。
■既存事業の中にいたキーマン
平井さんは「既存事業の中に協力をしてくれるキーマンを見つけておくことも重要になる」と話す。
AGCの場合、平井さんの最大の協力者になってくれたのは、平井さんの前の社長で、当時は化学品部門のトップを務めていた島村琢哉氏だった。
ライフサイエンス事業で実際にバイオ医薬品を作るには、製造プラント設備が欠かせない。AGCは当時、千葉県市原市にある千葉工場にバイオ医薬品のプラントを持っており、その千葉工場は島村氏率いる化学品部門の管轄だった。
ライフサイエンスを会社の「次」として育てたかった平井さんは、島村氏に助けを仰いだところ「全面的に協力する」との返答を得た。このタイミングこそがAGCのライフサイエンス事業が育ち始めた転換点となった。
既存事業である化学品部門の協力を得てライフサイエンス事業を一歩前に進めたAGCはその後、2017年に欧米に製造拠点を持つCMCバイオロジクス、2020年にイタリアのモレキュラーメディスン、2021年にはスイスの製薬大手ノバルティスから米国にある遺伝子治療薬工場を買収するなどライフサイエンスを事業としてさらに育てるべくM&Aを実行し、規模を拡大した。
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杜師 康佑(とし・こうすけ)
日本経済新聞社記者
1987年生まれ。広島県出身。2010年に日本経済新聞社に入社し、製造業や情報技術、スタートアップなどビジネス取材を長く経験した。イノベーション創出に関心があったことから、2023年に慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(SDM研究所)に入学。業務の傍らデザイン思考やシステム思考、プロジェクトマネジメントなどを体系的に学ぶ。2025年に修了し、現在は企業のデジタル変革や人工知能などをテーマに取材・執筆する。オンライン番組の企画や運営、出演のほか、外部講演やイベントのモデレーターなど幅広い領域で活動する。
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(日本経済新聞社記者 杜師 康佑)