NHKの朝ドラ「ばけばけ」では、小泉八雲をモデルとするヘブン(トミー・バストウ)が松江で英語教師を務めるシーンが描かれている。なぜ八雲は松江に来たのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、その史実をひもとく――。
■小泉八雲は“特派員”として来日した
朝ドラ「ばけばけ」(NHK)は第5週に入り、小泉八雲をモデルとするヘブン(トミー・バストウ)が久しぶりに登場した。視聴者の多くは「小泉八雲は、いったいなぜ松江のような地方都市にやって来たのか」と疑問に思っているのではないだろうか。
実は、そこに至る過程には無計画なバックパッカーのようなトラブルの積み重ねがあった。
小泉八雲がバンクーバー経由の汽船で横浜に到着したのは明治23年4月4日のことであった。この時、八雲はアメリカのハーパーズ・マガジンの特派員(あるいは通信員)という肩書きを持っていた。ハーパーズ・マガジンは、これ以前に八雲が西インド諸島に滞在した際の紀行文を掲載してからの付き合いだが、関係はあまりよくなかった。
日本行きは念願であり、船賃を出してくれたハーパー社には感謝していたかもしれないが、来日した途端にそんな気持ちは吹き飛んだ。
というのも、彼は一定期間滞在して紀行文を書いたら帰国するつもりで契約をしていた。ところが、横浜についてみると話はまったく違った。同行する挿絵画家のチャールズ・ウェルドンが八雲の文章に絵を添えるのかと思っていた。
■日本に到着するも“所持金が3カ月しかもたない”
ところが実際にはその逆で、挿絵画家が描いた文章に、八雲が文章をつけるというのだ。
おまけに、挿絵画家の報酬は八雲よりもずっと多かった。なによりハーパー社は船賃は出したが滞在費などの経費を払うつもりがなかった。
売れない中年作家であっても自尊心が強かった八雲にとっては屈辱である。八雲はすぐに契約を解消する手紙をハーパー社に送りつけた(広瀬朝光『小泉八雲論 研究と資料』1976年)。
この時八雲が持っていたのは、250ドル。全額を日本円にして当時の為替相場で250円ほど。現在の貨幣価値で約600万~650万円になる(『日本銀行百年史 資料編』日本銀行 1986年)。かなり手持ちがあるように見えるが、当時、外国人が日本に滞在する場合の滞在費は高額だった。
横浜の外国人居留地にあった横浜グランドホテルの滞在費は、一月あたり2食付きで58ドルとされている。八雲が滞在した宿は、これよりも安価だったようだが、それでも外国人が泊まれる宿は限られており、宿泊費が高額だったと考えられる。つまり、諸費用も含めれば、もって3カ月程度……八雲は、異国の地でいきなり詰んだのである(永田雄次郎「ラフカディオ・ハーンと石仏の美:横浜から熊本までの時」『人文論究』第61巻4号)。
■貧乏旅行と同レベル、お先は真っ暗だった
現代の感覚なら、そんなに費用がかかるなら日本人向けの店で食事したりして節約できるのでは? と考えるだろうが、当時はそうはいかない。
当時の日本の衛生状態ではコレラや赤痢の感染リスクも高く、言葉も通じない中で未知の料理に挑戦するのは危険度が高すぎた。
当時の日本奥地を旅したイザベラ・バードはよく知られているが、バードは既に有名な旅行作家かつ資産家で、有能な通訳を雇い、十分な資金を持っての冒険だった。対して八雲は、無謀な貧乏旅行者の類いである。ゆえに安全を確保しようとすれば、ニューヨークなら数十セントの食事に何ドルも払わなければならなかったのだ。
八雲の記した『知られざる日本の面影』の一説「極東第一日」には、こう記されている。
なにもかもが、言いようもなく、愉快で、目新しくて、たまらない。だから、どこへでもいい(『小泉八雲全集』第1巻 みすず書房 1955年)。
横浜の外国人居留地から人力車で出かけた八雲は、こんな晴れ晴れとした気持ちを書いている。初めての日本は見るも聞くもみな新鮮だった。それには感動しても、この先どうするかはまったくお先真っ暗だったのである。
■在日外国人の中で顔の広い“米海軍の軍人”を頼った
そんな八雲の手にあったのが、渡航前にエリザベス・ビスランド(編集部注:アメリカのジャーナリストで、八雲と親交があった11歳年下の後輩)がくれた紹介状で、横浜のグランドホテルに滞在していたミッチェル・マクドナルドを訪ねた。マクドナルドは米海軍の軍人で、日本に滞在している外国人の中でも顔が広かった。
マクドナルドは、さっそく帝国大学で教鞭を執っていたバジル・ホール・チェンバレンに紹介状を書いてくれた。
さっそくこれを添えて手紙を送ったところ、すぐに返事は来た。幸運にもチェンバレンは、八雲が出版していた『中国怪談集』などを読んでおり、文部省に職のアテを探してみると申し出てくれたのである。
八雲が横浜に到着したのが4月4日、チェンバレンが八雲からの手紙に返事を書いたのが、4月6日だから、かなり切羽詰まっていたことがわかる。
帝国大学で教鞭を執っているチェンバレンが動くのだから、なにがしか職は見つかることは間違いなかったが、八雲は不安でたまらなかった。この後、4月6日には、小部屋と食物さえ手に入れば、ハーパー社から原稿料を取る自信があるといい、9日には、英語教師の職はないかと訪ね、11日には具体的に九州の学校の話などに触れている。
八雲は不安でいっぱいだが、チェンバレンの動きも早かった。彼はすぐに文部省の普通学務局長だった服部一三に連絡を取っている。これは、八雲にとって更なる幸運であった。
■「松江の英語教師」になるまで、不安な日々
服部は長州の出身で、明治の初めにアメリカに留学。帰国後は官僚として順調に出世し、明治17年にニューオーリンズで開催された万国工業兼綿百年期博覧会に参列している。このとき、ハーパーズ・マガジンの依頼で会場を取材した八雲は偶然にも服部と会っていた(貝嶋崇「小泉八雲の教育」『比治山大学・比治山大学短期大学部教職課程研究』第9巻)。

この二人が八雲に好意をもって仕事を探してくれて松江に英語教師の職が見つかったのは、5月下旬頃のことであった。ところが、それが見つかるより早く5月上旬にはハーパー社に絶縁状を送りつけている。
いよいよ職も見つかるという自信があったのだろうか。
しかし、それを送りつけながらも、また不安になった八雲はビスランドに、なにか職はないかと手紙を書いている。手紙の中で八雲は「どこかアメリカに定給で私を雇う職場を探してください」といい、次のように記す。
ある就職口を見つけましたが、その職場は9月まで待たなければなりません。それまで、どうにか生活できるでしょうか。私は生きるために人から馬鹿にされ、無視されることはもうこりこりごりです。
■“米海軍の軍人”がいなければ、八雲の人生は詰んでいた
当時の学制では新学期は9月からの始まりである。今、仕事を見つけてもらっても、数カ月は無収入のままである。それではとても耐えられないという切羽詰まった中で八雲は生きていたのである。
しかも、そこまで切羽詰まっているのは自業自得の側面もあった。
ハーパーズ・マガジンと絶縁するにあたって八雲は、すべての契約書を返送し、原稿料も受け取りを拒否したのである(速川和男『小泉八雲の世界』笠間書院1978年)。
元来、自尊心が高く不器用だった八雲だが、やっていることが無茶苦茶である。これを助けたのが、前述のマクドナルドであった。これを知ったマクドナルドは、アメリカ領事を通して、それらのお金を受け取り、まずグランドホテルの株を買い、徐々に説得して八雲に受け取らせたのであった。さらに、マクドナルドは八雲に500円を貸している。後、八雲はこの時に借りた500円を返済しようとしたが、マクドナルドは決して受けとろうとしなかったという(小泉一雄『父小泉八雲』小山書店1950年)。
実に、マクドナルドがいなければ松江にたどり着く以前に八雲の人生は詰んでいたといえるだろう。『知られざる日本の面影』では、松江までの日々も美しく描かれているが、実は一寸先は闇のような状況が長らく続いていたのである。
■八雲と共にしていた謎の僧侶「アキラ」
ともあれ、9月からの松江での英語教師の仕事も決まり、マクドナルドからの500円などでひとまずの不安が解消されたのか、八雲は横浜周辺のあちこちに出かけている。そんな中で、八雲は真鍋晃という真言宗の若い僧侶と出会っている。真鍋は東京で英語を学んでおり、八雲はその英語力を「少し妙なアクセントではあるが、上品な言葉を選んで使っている」と記している。
この真鍋という人物、小泉八雲の研究者の中でも謎の人物である。
どういう偶然か知り合った後に八雲は真鍋をガイドに横浜近辺のあちこちを回り、ついには松江まで同行している。
いわば、八雲来日初期の重要人物なのだが、経歴は謎である。その名前も八雲の著書では「アキラ」と繰り返されているのみ。漢字も『千家宮司邸日記』に「九月十三日夜、一、同日英国人ラフカジオ・ヘルン通辯人真鍋晃大社参拝候」と書かれていることから、わかるのみである(梶谷泰之『へるん先生生活記』松江今井書店 1964年)。
しかし、松江についてきた真鍋は翌年にはフェードアウトしている。八雲の「杵築雑記」には「アキラはもはやわたくしの身辺にはいない。仏教雑誌の編集をするのだといって、神聖なる仏教の都、京都へ行ってしまった」とある(『小泉八雲全集』第1巻 みすず書房 1955年)。そして、その後の経歴も明らかではない。
■給料を前借りして、なんとか松江にたどり着いた
仲違いをしたのかなどとも考えられるわけだが、八雲の息子・一雄は、こう記している。
真鍋晃なる人は、ハーンが渡来当時横浜の寺院で出会って以来通弁として雇い入れた。その素性の程は明らかではない。彼はその後出雲までハーンと同行している。松江滞在中変な女と結託してハーンを騙そうとしたとかで解雇された。
そんな怪しげな人物の案内で日本文化に触れながら、八雲は授業の始まる9月までを充実して過ごしていたようだ。しかし、さすがに数カ月のホテル暮らしとなればマクドナルドから貰った500円があっても足りなかった。
いよいよ松江にいくことになった時に、困ったのは旅費であった。当時松江までは一人およそ40円。二人だから80円かかる(永田雄次郎「ラフカディオ・ハーンと石仏の美:横浜から熊本までの時」『人文論究』第61巻4号)。
やむなく八雲は来月から貰う給料を前借りし、なんとか松江までたどり着いたのであった。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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