「子どもがほしい」と懇願され結婚した男性は、家族のためにと懸命に働いた。だが、稼いだ給料のほとんどを妻に握られ、2人目の子どもが誕生後、突如離婚を切り出される。
職場でも多くの仕打ちを受けたダメージもあり、うつ病・発達障害と診断された男性は、離婚調停の過程をよく覚えていないという。ノンフィクションライターの旦木瑞穂さんが取材した――。
■心からの最初のSOS
厚生労働省がまとめた最新の「過労死白書」(10月28日発表)によると、2024年度に仕事が原因でうつ病などの精神疾患を発症して労災請求した人は3780人、そのうち認定されたのは1055人だった。いずれも過去最多である。
職場でうつ病を引き起こす主な原因は、長時間労働や過重な業務量、人間関係のストレス(ハラスメント、プレッシャー、不和など)、職場環境の急激な変化(異動、昇進など)、そして将来への不安(キャリアや雇用の問題など)。これらが複合的に作用し、心身に大きな負担を与えることで発症リスクが高まると言われる。
前出・厚労省の調査では、精神疾患の要因は「対人関係」が最も多く、このうち「上司とのトラブル」が2010年に比べ6割以上も急増している。
九州地方在住の竹林知武さん(仮名・30代後半)も、職場でうつに罹患した一人だ。話は約20年前にさかのぼる。20年前、勤めていた不動産会社にかかってきた電話をとったものの、突然、呂律が回らず自分の名前が言えなくなってしまった。
「今思えば、あれが私の心からの最初のSOSだったのでしょう。原因は、社長夫人でもある上司と性格が合わなかったことでした」
竹林さんによると、社長夫人でもある上司は、感情的に話すタイプ。
理屈で話し、口数の少ない竹林さんとはそもそも合うはずもなかった。
高卒後、玩具屋で働いていた竹林さんだったが、店長の機嫌が悪いと物に当たる人だったため、約1年半後にその不動産会社に転職。1年ほど経った頃、顧客から「竹林という社員にひどい暴言を吐かれた」というクレームが入ったが、全く身に覚えがなかった。
「私がお客さんにそんな事を言うはずがありません」と弁明したが、社長夫人は聞く耳を持たない。結局、社長夫人が同席の上、その客に直接謝罪することに。
「私が頭を下げると、そのお客さんは、『お前は物の言い方が冷たいんだ。人の血は通っているのか?』などと責めてきました。本当に全く暴言でもなんでもないですよね。単純に私のことが気に食わなかったのでしょう。お客さんの言い分だけを聞き、謝らせる社長夫人に対しても、なんて昭和体質だろうと思います」
ほとんど言いがかりで、今でいう「カスタマーハラスメント」だが、20年前にはまだ「お客様は神様」という認識が強かった時代だ。ましてや、社長の妻が上司として働く家族経営の職場では、「長いものには巻かれておけ」というやり方がまかり通っていても仕方がないかもしれない。地方の中小企業には、ワンマン社長など特定の人物にガバナンスの権限が集中してしまい、ざまざまなハラスメントの温床となることがある。

ただ今回、突然、呂律が回らなくなるという異変を重く見た別の部署の上司が、「ここにいたら、君の心は壊れてしまう。退職を考えたほうがいいかもしれないよ」と声をかけてくれたのは不幸中の幸いだったと言えるだろう。。
自分は心の病かもしれない。一度うつ病などに罹患すると、症状が消えても完治とは言わず、「寛解」といわれる。心が壊れたら生涯元通りにはならないかもしれない。そんな不安の中で、竹林さんは「仕事は他にもある」と退職する決心した。
すると、幸いにも症状は改善した……かのように見えた。
■「家族のために」節約、「家族のために」我慢
ハローワークの職員に、「心根が優しいから向いているよ」と言われて再就職した先は、障害者福祉施設だった。
就職先が決まった竹林さんは、高校時代から交際し、22歳の頃から同棲していた1歳下の彼女と、23歳で結婚した。きっかけは、彼女から「子どもがほしい」と言われたこと。再就職したばかりだった竹林さんは、「今の収入ではまだ厳しい」と反対したが、彼女に押し切られてしまった。

やがて、24歳で第一子を授かる。妻は念願の子どもに恵まれ、竹林さんは幸せな結婚生活を送っていたのかと思いきや、全くそうではなかった。
「私にとって子どもたちは愛の結晶ではなく、業務の結果です。子作りは愛のある行為ではなく、カレンダーでこの日とこの日……って感じで会社のシフトのようでしたね。『疲れているから』と断ると激高されて、これが怖かった。私のうつ症状は改善していなかったのでしょうね。記憶がおぼろげでしたが、この取材であの頃の恐怖を思い出しました」
竹林さんの月給は、手取りで11万円ほど。手元に5000円だけを残し、残りは全て家庭に入れた。というより、妻によって入れさせられていた。それでも生活していけないため、妻は第一子を保育園に預け、パートに出ていた。
竹林さんの昼食は施設利用者たちと一緒に摂るため給料から天引きされていたが、たった5000円では、付き合いで1回お酒を飲みに行ったらなくなってしまう。
それでも竹林さんは、「家族のため」と節約に勤しんだ。
そして26歳で第二子が生まれると、明確に妻の態度が変わり始めた。
「まずスキンシップや会話が減り、手を繋ぐことや同じ布団で眠ることなどもなくなっていきました。『好きなのか』と聞くと『別に』と答え、『なぜ結婚したのか』と聞くと『他より手頃だったから』と……。この言葉はかなり強烈でしたね」
同じ頃、再就職先でも問題があった。施設長や上司から、「利用者よりも、お前のほうが障害者だな」と言っていじめを受けていたのだ。障害者支援をする立場の人間が、「障害者だな」と言って目下の者をからかうのは、ハラスメント行為にあたるだけでなく、障害者への侮辱でもある。それでも、「家族のため」と我慢して働いた。
「朝7時から夕方5時までが勤務時間で、昼休憩はありましたが、利用者さんと一緒に食事や休憩をとるので、気の休まる瞬間はなかったです。イベントを月1でやっていて、その準備で月に10日ほどは夜11時くらいまで残業をしていました。もちろん、会社の言い分は、『勝手に残っているのだから、残業代は出せない』です。施設のイベント方針の『利用者さんに楽しい思い出を』というのは、施設職員の福祉的犠牲心のもと成り立っていたに過ぎません」
筆者は、介護記事を専門としてきたため、老人介護施設でも、実際にこうした話を耳にすることは少なくない。職員が気持ちよく働くことができない施設では、利用者も快適に暮らせず、その空気を利用者の家族も感じ取る。
問題のある事業所はいずれ淘汰されていく。
独身時代はサービス業で働いていた妻は、結婚後に専業主婦(途中からパート勤め)になっていた。竹林さんが帰る頃には夕食を済ませており、テーブルの上は食器類が雑然と置かれたまま、子どもたちの食べこぼしの掃除や片付け、洗い物は竹林さんが担当した。
第一子出産後は、竹林さんが帰宅すると、妻と談笑したり、子どもを入浴させたりすることもあったが、第二子出産後はなくなっていた。竹林さんは入浴すると、翌日に妻がすぐに沸かせるよう、裸でスポンジ片手に浴槽をきれいに掃除しておいた。
障害者福祉施設は、労働環境が厳しかったこともあり、職員の入れ替わりが激しかった。おかげで竹林さんは、入社半年で中堅程度の立場に、5年目になるとチームをまとめる立場となった。
ところが、あるとき入社半年の年下の女性が、自分の時給額をポロッと口にした。その額を聞いた竹林さんは、一瞬耳を疑った。その新米社員は福祉経験もなく、資格もないにもかかわらず、チームリーダー役をまかされていた自分より、時給にして50円も高かったからだ。たかが50円、されど50円。日給、月給にしたらそれなりの額になる。

激しいショックを受けプライドを傷つけられたが、上司に苦情を申し立てることもできなかった竹林さんは、完全に心が折れてしまい、5年勤めた障害者福祉施設を辞めた。
■トドメを刺した妻の仕打ちとは
障害者福祉施設を辞めた竹林さんは、保険会社の営業に転職。手取り月給は約30万円と大幅に上がったが、小遣いは5000円のままだった。前職の施設勤務時代は給料に占める小遣い率は約5%だったが、今回はわずか2%弱となってしまった。足りなければ、「もらうこともできました」と言うが、やはり「家族のため」と節約し、がむしゃらに働いた。
SBI新生銀行の「2024 年会社員のお小遣い調査」によれば、男性会社員の小遣い平均は20代で約4万円、30代で約3万6000円(20~50代までの平均で3万9000円)。竹林さんの5000円が破格の低さであることは明白だ。
その竹林さんは、小遣いが足りなければ、「もらうこともできました」と言う。だが、やはり「家族のため」と節約。がむしゃらに働いたツケを、後で払うことになったのだ。
竹林さんの帰宅が遅くなることが増えると、妻は「実家に帰っているね」と言って不在なことが多くなった。さらに、しばらくすると妻は家に帰らなくなった。携帯電話に連絡しても出ないため、義実家に連絡すると、「来ていないよ」と言われた。
そして転職から1年後。28歳になった竹林さんに突然、調停離婚の書類が届いた。
「理由は『私の不倫』でした。もちろん身に覚えはありません。その旨を調停時に伝えると、妻はあっさり引き下がり、100万円くらいの慰謝料の請求も取り下げました。『もらえそうならもらっておけ』みたいな感じだったのではないでしょうか」
離婚調停を「とにかく早く終わらせたかった」と語る竹林さんの、この頃の記憶はかなりおぼろげだった。なぜ妻は離婚しようと思ったのか、竹林さんにどんな非があったのか、裁判前や裁判中にどんなやりとりをしたのかもよく覚えていないという。結局、養育費は月5万円と決定し、調停員から「これで離婚は成立。これより以前のことは掘り返さないこと」と言われ、残高0円の通帳が返されたのだという。
「何かアクションをする気力なんてなかったです。もうどうでもいいと思ってました」
それからすぐ後、「元妻に新しい交際相手がいる」という噂を耳にした。
「私の中で、元妻に対する『もしかしたら……』という疑惑は確信に変わりました。ほとんど家族と顔も合わさないで働いていた私も悪いのかもしれません。しかしそれくらい懸命に働いていたのは、他でもない家族を養うためです。その報いがこれです……」
月5000円の小遣いで働き、渡していた残りの給料は生活に使うだけではなく、新しい相手との交際費に回っていたのかもしれない。
「『家族を愛していたか』と聞かれると、正直微妙です。今思うと、私は“家族を養っている男”にどこか憧れていただけかもしれません。だから5000円で耐え、給料全てを渡してしまったのかもしれないと気が付きました」
離婚後、竹林さんは自暴自棄になった。働く意味を見出せなくなり、何もかも意欲を失い、保険営業の仕事を辞め、正式に心療内科を受診した結果、「うつ病」と診断された。
両親と姉家族が暮らす実家に身を寄せた竹林さんは、キャバクラのボーイや塗装業、林業など、日雇いの仕事を転々として食いつなぐ。
そんな時に訪れたのが、コロナ禍だった。
日雇いの仕事は激減。竹林さんは、社会から1人だけ取り残されたような感覚に陥る。
心療内科に通っていた竹林さんは、時間ができたことを機に、発達障害の検査を受けた。すると対人関係やコミュニケーションの困難さ、特定分野への強いこだわりや反復的な行動などが特徴の「自閉スペクトラム症」と診断。32歳のときだった。
「自分の障害を疑う瞬間は何度もありました。中学のときにアスペルガーがテーマのマンガを読んで、『自分のことでは?』と思ったのが最初です。でも学生時代は問題なく過ごせていました。障害者施設職員時代には、『自分は利用者さんに近いのでは?』と感じていて、だからこそ利用者さんに寄り添えていたのだと思っています。『やっぱりそうだったのか』という安堵と同時に、『どうして自分なんだ』という絶望感。複雑な感情が入り混じっていました」
発達障害の人は、学業や仕事、対人関係などでの失敗体験が積み重なることによる自己肯定感の低下や、無理に周囲に合わせる「過適応」による疲労やストレスなどから、二次障害としてうつ病を併発することが少なくないと言われている。竹林さんの場合も、社会人となってから、職場や家庭での人間関係構築において失敗体験が続き、うつ病を発症してしまったのだろう。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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