中国の歴代皇帝を支えた「後宮」の女性たちは、どのような暮らしをしていたのか。中国文学者で明治大学教授の加藤徹さんが書いた『後宮 宋から清末まで』(角川新書)から、北宋が滅亡する契機となった事件の渦中にいた女性皇族たちの顛末を紹介する――。

■中国・北宋で起きた前代未聞の拉致事件
1127年金国の軍勢が宋(北宋)の都・開封を占領し、宋の上皇徽宗(きそう)と皇帝欽宗(きんそう)をはじめ、皇后・皇族3000余名を捕らえ拉致したとされる靖康の変は有名な事件で、関連の書籍も多い。
漫画家の青木朋氏が連載中の『天上恋歌~金の皇女と火の薬師~』は、靖康の変の前後の宮廷を舞台に金の皇女が活躍する歴史コミックだが、歴史の勘所をおさえ、金の側の言い分や視点も取り込んだ傑作である。
紙数の都合上、詳細は他書にゆずり、ここでは靖康の変で運命が激変した皇后たちを取り上げよう。
徽宗は結局、金軍に献上するため大規模な後宮を構えたようなものだが、彼が70人も子女をもうけたことは、王朝存続の保険としては意味があった。
徽宗や欽宗の二帝以下の皇族が金に連行されたとき、徽宗の九男であった康王趙構は、奇跡的に難を逃れていた。ただし、趙構の生母韋氏も、妻の●(けい)氏も、彼の娘も金に連行されてしまっていた。
※けいの漢字は开におおざと
金は当初、領土に対する執着は薄かった。金軍は宋に傀儡国家を残し、北に撤収していく。傀儡国家「大楚」の皇帝には、北宋の宰相・張邦昌(ちょうほうしょう)がなったが、彼は愛国者だった。金軍が撤収すると、彼はすぐさま帝位を返上した。そして、民間から元祐皇后孟氏を迎えて垂簾聴政(※)を行ってもらった。
※皇后・皇太后が幼い皇帝の代わりに摂政を行うこと
哲宗の皇后だった孟氏はすでに廃され、失脚していた。
靖康の変のとき、彼女は都を離れて実家に引きこもっていたため、無事だったのだ。
元祐皇后孟氏は、康王趙構を皇帝に指名する。趙構は即位し、南宋の初代皇帝・高宗となった。孟氏は高宗の生母ではなかったが、皇太后として尊ばれた。張邦昌は、宋の復国のシナリオを作成して実行した功労者であったが、金軍のもとで帝位を僭称した罪を弾劾され、自殺を命じられた。
もし靖康の変がなければ、孟氏が奇跡のカムバックを果たすことはなかったろう。
■皇帝の母と妻は、敵国で辱めを受けた
靖康の変では、高宗(変の当時はまだ康王趙構)の母と妻子も金軍に捕まっている。趙構の生母で徽宗の側妃だった韋氏(後の顕仁皇后。1080年‐1159年)、趙構の正妻・●秉懿(けいひょうい・後の憲節皇后。1106年‐1139年)と側室の田春羅(でんしゅんら)と姜酔媚(きょうすいび)、4歳から2歳までの女児5名、あわせて9名の女性が金軍によって連行された。
金軍の北送の旅路は過酷だった。趙構の妻・●氏も含め、妊娠中だった皇室の女性は次々に落馬して流産した。
趙構の5人の娘のうち、下の3人は旅の途中で死んだ。
旅路の途中も、金国に到着してからも、貴婦人らは金人から言いようのない辱めを受けた。欽宗の美貌の皇后・仁懷皇后朱氏(1102年‐1127年)は金に到着後、屈辱に耐えきれず自殺した。
■病に倒れた妻の死すら知らされず
趙構は南宋の初代皇帝・高宗となり、臨安(現在の杭州)を臨時の首都としたが、金との熾烈な戦争は継続中で、北送された家族の安否は不明だった。高宗は、敵国で消息不明の妻を皇后に「遙冊」し、彼女が帰国する日まで皇后を立てぬことを誓う。
金人は高宗の家族を洗衣院(※)に入れた。正妻と2人の側室だけでなく、すでに50に手がとどく年齢になっていた生母の韋氏も、まだ4歳の幼女2人も、洗衣院に入れられ、屈辱の日々をしいられた。
※金軍の捕虜になった女性たちが収容されたとされる施設。小説風の歴史書『靖康稗史』(せいこうはいし。後世の偽書説あり)に記載されている。
側室の田春羅は洗衣院に入れられた翌年に死んだ。
1135年、金の第二代皇帝・太宗(靖康の変のときの皇帝)が死去し、第三代皇帝・熙宗が即位すると、高宗の家族はようやく洗衣院から解放され、五国城(現在の黒竜江省ハルビン市依蘭県)に遷された。
この年、高宗の父・徽宗が五国城で病没している。
1139年、●氏は34歳で五国城において病没した。金人はこれを秘匿し、高宗は妻の死を知らなかった。
■皇后たちの波乱の人生
1142年、高宗は、金の第三代皇帝・熙宗と「紹興の和議」を成立させた。高宗の生母の韋氏は解放され、南宋に渡り、息子との再会を果たす。正史『宋史』后妃伝によると、高宗はこのとき初めて妻が三年前に死去したことを知ったという。
高宗は政治を休み、喪に服し、丁重な葬儀を行った。1145年、皇后●氏の棺が金から南宋に送られてきたとき、高宗はあらためて深い悲しみにくれた。最終的に、彼女の諡(おくりな)は「憲節」とされた。
波瀾の人生を送った韋氏は、高宗の皇太后として大切にされ、幸福な晩年を送り、80歳で死去。死後、「顕仁」と諡(おくりな)された。
靖康の変は皇后たちの運命も激変させた。
奇跡の復活を遂げた元祐皇后孟氏、自殺した仁懷皇后朱氏、恥辱を生き延びて天寿を全うした顕仁皇后韋氏、遙冊された憲節皇后●氏。
高宗の二番目の皇后、憲聖慈烈皇后呉氏(1115年‐1197年)も、靖康の変後の時代を雄々しく生きた傑物である。彼女は高宗・孝宗・光宗・寧宗の四代54年にわたり后位(皇后や皇太后などの位)を保ち、国を裏から支えた逸材である。
■命を狙われる夫を軍服を着て支えた皇后
呉氏は、14歳で康王時代の高宗の側室となって以来、ずっと彼を支えてきた。正史『宋史』后妃下によると、彼女は頭が良く、当時の女性としては珍しく文字の読み書きもかなりできたようだ。
話を、靖難の変の直後に戻す。
高宗の権力は、即位後もしばらく安定しなかった。金軍だけではない。国内の不満分子にも命を狙われた。金国に抑留中の「徽欽二帝」はまだ存命だったため、高宗の即位の手続きの正統性を疑う声も根強かったのだ。
高宗は即位の前後、各地を転々と逃げ回った。呉氏は軍服を着用して高宗の左右に侍した。
浙江の四明山に逃げたとき、衛兵の一部が反乱をたくらんだ。反乱者が高宗の所在を捜したとき、呉氏は機転をきかせ嘘をつき、難を逃れた。
その後、高宗らは船に乗って海上を逃げた。魚が一匹、海面から跳ね上がり、船の中に飛び込んできた。歴史をよく勉強していた呉氏は「吉兆です。白魚入舟の故事の再現です」と言って励まし、高宗を喜ばせた。白魚入舟は敵を降して支配する吉兆である。昔、周の武王が殷の紂王と戦う直前、武王の舟に白魚が自ら飛び込むという珍事が起きた。武王はこれを天の吉兆だと見なし、周軍の士気は大いにあがり、殷軍に勝利したのだ。
その後も、呉氏は勉学に励み、高宗からますます寵愛され、貴妃にまで昇った。紹興の和議が成立し、遙冊された皇后・●氏の死が判明した翌年、呉氏は皇后に立てられた。

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加藤 徹(かとう・とおる)

明治大学法学部教授

日本京劇振興協会非常勤理事、日本中国語検定協会理事。
1963(昭和38)年、東京都に生まれる。専攻は中国文化。東京大学文学部中国語中国文学科卒業。同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。90~91年、中国政府奨学金高級進修生として北京大学中文系に留学。広島大学総合科学部助教授等を経て、現職。『京劇「政治の国」の俳優群像』(中公叢書)で第24回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞。

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(明治大学法学部教授 加藤 徹)
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