NHK「ばけばけ」では、小泉八雲がモデルのヘブン(トミー・バストウ)が言葉の壁にぶつかり、周囲も振り回されるシーンが描かれている。英語のわからない“女中のセツ”とは、どうやって仲を深め、夫婦になったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などから史実に迫る――。
■“八雲と妻のセツ”にだけ通用する「独特の言葉」があった
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」8週目が終わったが、トキ(髙石あかり)とヘブン(トミー・バストウ)の関係の進展はまだまだこれからだ。11月17日の放送の第36回ではヘブンの求めるビア(ビール)がわからず奔走し、琵琶を持ってくる姿が話題となり、ますます今後が期待される。
そんな作中で度々見られるのが、八雲が辞書を手に言葉を探して、意志を伝えようとするシーンだ。
実際、日本で長らく暮らした八雲だったが、まったく問題なく言葉が話せるようになったとは言いがたい。彼が日本で書いた著作も原文は英語である。
そもそも、八雲は生涯を通して日本を愛していたが、日本語はさほど得意ではなかった。それも、別に学ぶ気がなかったとか、能力に欠けていたわけではない。もっと言葉では言い表せない日本の魂を知ることに忙しくて学ぶ暇がなかったのだ。
八雲の次男・稲垣巖は、ラジオ番組で次のように語ったことが記録に残っている。
元来、ヘルンは日本語の知識は殆ど有って居りませんでした。日本語の研究などして居ては自分の天職を果たす間に合はないといって、日常の談話の出来る程度の日本語と、片仮名、平仮名、それにほんの少数の漢字の知識で満足していたのですから、日本の書物の読書力は全然ないのです。

それに日常の会話と申しましても夫人との間に於いてのみ完全に通用する英語直訳式の一種の独特の言葉でありました。ワタクシの兄は母に次いで中々上手でしたが、私も父の死ぬ1、2年前頃から、言はれる言葉を聴き分けることだけはできました。
(小野木重治 編著『ある英語教師の思い出 小泉八雲の次男・稲垣巖の生涯』恒文社 1992年)

■八雲の人間関係は“狭く深いタイプ”だった
この英語直訳式の一種の独特の言葉は、現在は「ヘルンさん言葉」として伝わっている。「テンキコトバナイ」といえば「天気は申し分なくよろしい」というわけである。
そうなったのは、日本語学習に時間を割かれることを嫌ったのに加えて、八雲自体が他人に時間を使うことを嫌ったことも大きい。八雲の交際嫌いの証言は多く、セツ本人も次のように語っている。
ヘルンは面倒なおつき合いを一切避けていまして、立派な方が訪ねて参られましても、「時間を持ちませんから、お断りいたします」と申し上げるようにと、いつも申すのでございます。ただ時間がありませんでよいというのですが、玄関にお客がありますと、第一番に書生さんや女中が大弱りに弱りました。(小泉節子「思い出の記」『小泉八雲』恒文社 1976年)
とにかく、自分の学びの時間を妨げられることに対しては「潔癖者」のようだったとセツは評している。とはいえ、松江の時代には親しい友人を招いて宴会を催すこともあったというから、単なる人嫌いというわけではない。むしろ、心から信頼できる少数の友人とだけ深く付き合う、現代で言えば「狭く深く」タイプの人間だったのだろう。
■“日本風”への強いこだわり
それ自体は悪いことではないのだが、日本語の習得という観点から見ると、これは有益ではなかった。
日本語を話す機会が限られてしまい、十分な語学力を身につけるには至らなかったのである。
そうした中で、セツとの間に「ヘルンさん言葉」という、八雲の家庭内だけで通用する言語が生まれたのは、誰もが経験する、あの感覚だ。恋人同士や夫婦の間だけで通じる言葉、二人だけの「暗号」のようなもの。それが自然発生するのは、膨大な時間を共に過ごし、相手を理解しようと努力した証拠である。他人とは極力話さない八雲が、セツとだけは「完全に通用する」言語を作り上げた。それは、二人がいかに深く向き合っていたかを示している。
そんな二人の暮らしはどのくらい濃密なものだったのだろうか。まず「思い出の記」の記述を探してみると、こんな一節がある。
学校から帰るとすぐに日本服に着替え、座布団に坐って煙草を吸いました。食事は日本料理で日本人のように箸で食べていました。何事も日本風を好みまして、万事日本風に日本風にと近づいて参りました。西洋風は嫌いでした。
西洋風となるとさも賤しんだように「日本に、こんな美しい心あります、なぜ、西洋の真似をしますか」という調子でした。これは面白い、美しいとなると、もう夢中になるのでございます。
■セツは“面倒な人だと思っていなかった”可能性
だが、こんな偏屈ぶりはまだ序の口である。「思い出の記」には八雲が死去するまでの結婚生活のエピソードがさまざま記されているが、ひとつひとつを聞けばとても一緒には住みたくない面倒くさい人だ。紋付き袴は喜んで着るのに、礼服は嫌いだといってフロックコート(当時の一般的な礼装)すら持っておらず、説得されてしぶしぶ仕立てる。晩年、気に入って避暑に訪れた静岡県の焼津も汽車が嫌いだといって、東京から徒歩、疲れたら人力車でいくと言い張る……。
これだけ聞けば「よくセツは耐えられたな」と思うだろう。だが、「思い出の記」を読み進めると、不思議なことに気づく。セツは一度も八雲を「面倒くさい」とは書いていないのだ。
実は、セツもそんな八雲と似たもの同士な一面があった。「思い出の記」には、こう記されている。
私は部屋から庭から、綺麗に、毎日二度くらいも掃除せねば気のすまぬ性ですが、ヘルンはあのバタバタとはたく音が大嫌いで「その掃除はあなたの病気です」といつも申しておりました。
学校へ参ります日には、その留守中に綺麗に片付けて、掃除しておくのですが、在宅の日には朝起きまして、顔を洗い食事をいたします間にちゃんとしておきました。この外掃除をさせてくださいと頼みます時には、ただ5分とか6分とかいう約束で、承知してくれるのです。
■絶妙な距離感から「ヘルンさん言葉」が生まれたか
どうだろう? 要するに、二人とも面倒くさいのだ。八雲は日本風へのこだわり、セツは掃除へのこだわり。どちらも妥協を知らない。だが、不思議なことに、二人は衝突しなかった。
いや、むしろ逆である。「5分だけ」「承知してくれる」この絶妙な距離感こそ、二人が長年かけて作り上げた「交渉術」なのだ。偏屈同士だからこそ、お互いの「譲れない一線」がわかる。そして、その一線を侵さないように、毎日丁寧に言葉を交わす。「ヘルンさん言葉」は、そうした日々の積み重ねから生まれたのである。
これは、想像するしかないが、女中にやってきた時から、こんな感じだっただろう。
八雲視点で考えてみよう。ずっと女中を探してくれといっているのに、なにを勘違いしたかやってくるのは妾候補。教頭の西田千太郎は英語が通じるから「ハウスキーパーが必要だ」といって理解している……と思いたい。そして、やってきたセツ。西田から「住み込みの女中」と聞いてるはずだが、なにか覚悟を決めたような雰囲気がある。まだ寒くて体調もよくないので、とりあえず家事と食事を頼んで、自分は部屋に戻る。
するとどうだろう。バタバタ、バタバタ。ずっとハタキの音だ。何時間掃除をしているんだ、この女中は‼
“Stop it! Too noisy!”
通じない。当たり前だ。辞書を引く。
「音」「うるさい」「やめる」……ええと、どう言えばいいんだ。とにかく日本語らしき何かを口にする。
ここで、たいていの人間は諦める。いや、正確には「諦めたふり」をする。
■セツは「八雲を理解する努力」を怠らなかったのではないか
これまでの富田旅館の人々や「妾候補」たちは、だいたいここで諦めた。だいたい「はいはい」と適当に返事をして、また同じことを繰り返す。
こちらが必死で辞書を引いて、単語を並べて、身振り手振りで説明しても、相手は理解しようとしない。面倒くさいのだ。外国人の奇妙な要求など、どうせわからないから聞き流しておけばいい。そういう態度が、ありありと見える。
だが、セツは違う。八雲の片言の日本語を聞くと、じっと顔を見る。わからないという顔をする。八雲が辞書を指差すと、一緒にのぞき込む。「ああ!」と声を上げ、ハタキを置く。そして、別の掃除道具を持ってくる。静かに掃除を続ける。
あくまで想像だが、きっと初日には、そんな驚きの瞬間があったに違いない。
きっとセツは翌日あたりには小さな帳面などを用意して、八雲がなにかいうと、セツはそれを書き取っていっただろう。発音を聞き取り、意味を確認し、必死でメモを取る。時には八雲に辞書を見せて「これですか?」と確認する。家事の合間で、八雲の言葉を必死に理解しようと努めたし、常に伝える努力も怠らなかったはずだ。
女中で雇っているだけなのに、この努力を怠らない態度は、八雲にとって衝撃だったはずだ。
■八雲は「自分をちゃんと見てくれる女性」に出会ったことがなかった
なぜなら、既に中年の八雲が初めて会ったタイプの女性だったからだ。シンシナティで結婚した最初の妻であるアリシア・フォリーは、八雲の仕事にも、八雲自身にも関心を持とうとしなかった。(参考記事:だから「普通の英語教師」になれなかった…ばけばけ・小泉八雲が「最底辺の移民」から「文学の巨人」になれたワケ
八雲がラブレターのような手紙を送り続けた11歳年下の女性ジャーナリスト、エリザベス・ビスランドも、八雲を「崇拝者の一人」としか見ていなかった。才能は認めるが、恋愛感情はゼロ。
八雲は一度も告白する勇気を持てず、ただひたすら手紙を書き続けるだけだった。左目失明のコンプレックス、そして何より、自分より成功している年下の美女に告白する勇気など、持てるはずもなかったのだろう。(参考記事:11歳年下の女性にゾッコン…「ばけばけ」で描かれない、小泉八雲が来日直前に書いていた“ラブレター”の中身
そもそも、八雲は生涯を通じて「自分をちゃんと見てくれる女性」に出会ったことがなかった。
八雲は2歳の時、母親と引き離されている。ギリシャ人の母ローザは、アイルランド人の父チャールズと離婚し、八雲を父方の大叔母に預けたまま、二度と会うことはなかった。母の記憶すら、ほとんど残っていない。
つまり、40歳を過ぎるまで、八雲は一度も「自分のことを、きちんと見てくれる女性」に出会ったことがなかったのだ。
■「自分を見てくれている」その瞬間に恋に落ちた
もしかすると、セツは「クビにされたら困る」と必死だっただけかもしれない。しかし、それは八雲にとっては驚きだった。ちゃんと自分の言葉を理解しようとしてくれる。それも、ゼロから英語を覚える気概すら見せている。
筆者の勝手な推測だが、八雲がセツに恋をしたのは、おそらく雇用から三日目のことだったのではないだろうか。
初日、ハタキの音に辟易し、辞書を引いて必死に日本語を並べた。そして、セツは理解しようとした。
二日目、セツは帳面を持ってきた。昨日のやりとりで出てきた英単語が、几帳面な字で書き連ねてある。
そして三日目、おそらくこの日、八雲は気づいたのだ。この女性は、本気で自分を理解しようとしている。
40年の人生で、誰も与えてくれなかったもの。母は与えてくれず、アリシアは与えてくれず、ビスランドは決して与えてくれなかったもの。「理解されたい」という、人間の最も根源的な欲求。それが、今、目の前の日本人女性によって、初めて満たされようとしていた。
恋とは、往々にして、こうした瞬間に生まれるものである。劇的な出会いや、運命的な一目惚れではない。日常の中で、ふと気づく。この人は、自分を見てくれている‼ そう気づいた瞬間に、人は恋に落ちる。
八雲がセツを妻にしようと決めたのは、それから間もなくのことだったに違いない。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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