東京ディズニーランドはなぜ成功しているのか。ディズニーランドの元マーケターである渡邊喜一郎さんは「働いている人もお客様もディズニー教になったことが大きい」という。
エンタメ社会学者の中山淳雄さんとの対談を紹介する――。
※本稿は、中山淳雄編『エンタメビジネスの教科書 対談編』(慶應義塾大学出版会)の「対談8 テーマパーク」の一部を再編集したものです。
■なぜ日本のディズニーだけが大きく成功したのか
【中山】オリエンタルランドは世界で唯一「ディズニー以外でディズニーランドを経営する会社」です。パリも香港も上海も直営なのに、そういったランドと比べても東京ディズニーランドだけが大きく成功したのはなぜなのですかね。
【渡邊】私や一緒に働いていた人たちは“ディズニー教”なんですよ。それが日本中に広がっていって、リピーターが多くいるというのが一番良い表現だと思います。
実はオープン前後の最初の5年ぐらいは今思うとダメな部分も多くて、ごく普通の遊園地みたいだったんですよ。エンターテインメントの場所をつくりこむんだとダンサーはオーディションを通じてえりすぐりの人に入ってもらい、教えるのも宝塚のトップスターを起用しました。
ラリー・ビルマン(1)が取り仕切って、パレードが始まったのも1985年からです。彼はその後ディズニーシーまでずっと続けていました。こうして時間をかけながら、パレードやショーのレベルを上げてきたというのが、東京ディズニーランドの現実です。
【中山】ディズニー「シー」が日本にしかないのも面白いですよね。

■「シー」のモデルになったイタリアの街
【渡邊】社長だった高橋政知さんが生前から海をテーマに何かをつくりたいといっており、ディズニー・イマジニアリングの人たちも「じゃあつくろう」となって始まったのです。1988年に「第二パーク構想」として発表されて、実際に形になったのは2001年です。
高橋さんご自身はそのオープンを見ることなく、2000年に亡くなってしまっていますが。ミラコスタ(2)というホテルも、入り口あたりにイタリアをイメージしたものをつくりたいと考えて、ポルトフィーノ(3)を模した建物にしたのです。
実はあの風景、そのままフロリダのユニバーサル・オーランド・リゾートにもあるんです。ディズニーシーに先駆けた1999年に、その中にできたアイランズ・オブ・アドベンチャーでポルトフィーノの街並みが再現されています。当時、ディズニーシーを構想していたディズニー・イマジニアリングのメンバーがユニバーサルへ転職してしまったので、先にユニバーサルで実現してしまったのです。
【中山】アイデアを持っていかれたんですね。でも海外のディズニーと日本のオリエンタルランドとは競争関係にも近いと思うのですが、どうして直営のパリのユーロ・ディズニーランド(現:ディズニーランド・パリ)は経営がうまくいかなかったのでしょうか?
■ユニバーサルとの違い
【渡邊】フランスの方々は“ディズニー教”に染まらなかったからなのかな、と思います。日本人はすごく真面目で働いている人に(お客様を)喜ばせようという気持ちが強く、そうしたキャストやチームの努力もあってディズニー教に染まるスピードが速かったんです。今、上海のディズニーランドもすごく人気が上がってきたでしょう、あれはディズニー教が中国の方にも浸透してきたのだなと私は思いました。
【中山】米国はもちろん、日本もディズニー教に染まり、上海も染まりつつあるのですね。
ユニバーサルはそうならないのですか?
【渡邊】いや、どうなんでしょう。ディズニーとユニバーサルって、衝撃の受け方が違うんです。ディズニーってアトラクションもショーもじわじわとくる感動じゃないですか。涙が出てくることもある。ただユニバーサルって、歩いていると「ワッ」と驚かせてくる感じですね。何回もそれを受けていると、それが快感に変わっていきます。実写とのコラボはユニバーサルのほうが得意ですし、それぞれの得手不得手があるのだと思います。
■将来的にはクルーズも飛行機も
【中山】オリエンタルランドは東京ディズニーリゾートでここまで成功しているのに、他のテーマパークを作るってことにはならないのでしょうか?
【渡邊】オリエンタルランドは上場したこともあって、東京ディズニーリゾート自体の最大化がミッションになってますよね。ただオリエンタルランドとしては「ディズニー」という名称を使っていないだけで、名古屋や京都、沖縄のホテルリゾートも展開していますし、実は手広くやっています。ただ会社としては基本的にディズニーと組んで舞浜の周りで、どこまで展開できるかが中心軸です。
これは私の個人的な考えですが、ディズニー社が展開しているクルーズライン事業(4)を日本に持ってくる、かつディズニーエアラインもつくる、といった形で将来的な発展可能性(5)があると思います。
【中山】渡邊さんのキャリアは、オリエンタルランド内での異動も含め、どのような変遷をたどるのでしょうか?
【渡邊】ディズニーランドのマーケターとしてのキャリアは、実はオープン後2年にも満たないのです。
1980年代半ばにはディズニーリゾートの不動産開発の仕事になって、オフィシャルホテルの開業やリゾート全体の開発などを手掛けていました。
中山さんもご存じのように私はキャラクターの次に車が大好きなので、1991年に日産自動車に行って欧州日産で車のマーケティングの仕事に携わり、当時の日本企業では2番目となる会社ホームページの立ち上げなどを行いました。その経験が買われて、1995年にNTTのマルチメディアビジネス開発に担当課長として入って、SPEEDなど音楽コンテンツの仕事をしていた最中に、先ほどのノーム・エルダーから誘われて1999年にUniversal Studios Recreation Supervision社に入社しました。
■他のテーマパークとの違い
【中山】テーマパークやリゾート開発からネット・デジタル・コンテンツまで手掛けていたのは驚きです。
【渡邊】2003年に富山幹太郎(6)さんから声をかけてもらってトミーに入って、タカラとの合併後にティーツーアイエンターテイメントという子会社の副社長をやっていました。マーチャンダイジングやグッズの事業はこの時期から手掛けていて、その後ダイヤモンド社から声をかけてもらってディズニーランドでの仕事を形にしておこうと『ディズニーこころをつかむ9つの秘密(7)』を出したあたりから、講演をしたり社外取締役・顧問でいろいろな会社のお手伝いをしたりするようになりました。
【中山】日本では1990年代に様々なテーマパークが生まれましたが、その7~8割は赤字で半分以上が撤退しています。なぜ東京ディズニーランドは、これほど成功したのでしょうか?
■クオリティコントロールに、「ほどほど」なんてない
【渡邊】実は本当の意味でのテーマパークというのは、私の中ではディズニーランドとユニバーサル・スタジオしかないんです。それ以外は基本的に「遊園地」で、いわゆる五感を使ってお客様の笑顔をつくる仕事という意味で「コンセプトを入り口から出口まで全て完遂させている」場所というのはこの2つ以外にはない、と思っています。
クオリティコントロールに、「ほどほど」なんてないんです。基本的には「これでもか、これでもか」と徹底し続ける。お客様に見えない毒リンゴの「芯」までつくれ、というくらいに“ホンモノを再現すること”にこだわっています。
そこにディズニーランドのすごさがあり、飽くことなくリピーターを生み続ける秘訣があります。
私はその後も仕事はいろいろな場所で続けていますが、気持ちとしては当時の最初のオリエンタルランドでの仕事から変わっていません。
【中山】スタッフ自身が飽きないように15分ローテーションで担当のポジションを変えるそうですが、これは一日中同じ場所で同じセリフを繰り返しているとモチベーションが落ちてしまうということですね。
【渡邊】おもてなしですよね。そういうお客様を喜ばせようという気持ちは、社内やスタッフに対しても同じなんです。私なんて辞めてからもう30年もたつのに、いまだにディズニーのアニバーサリーのタイミングで、サプライズでプレゼントが米国ディズニー社から贈られてくるんです。こういうのを見ているとさらにディズニーが大好きになってしまいますよね。ファンづくりの向先が外だけではなく、社内やOBにもきちんと向いているのです。
だから今のPirates Factory社でも何かディズニーとやりたいなと思って「Disney FUNTRAVEL」シリーズとして、東京ディズニーランドのオープン時のミッキーマウスをオマージュして、日本全国で地域にあわせてデザインをアレンジしたトートバッグをつくって販売したり、これだけ転職してもディズニーとの付き合いは続いています。

(1)Larry Billman。1938年生まれ。2017年没。

ステージパフォーマーとしてキャリアを歩み、ディズニーリゾートのライブ演出を世界中で手掛け、40年以上牽引してきた。東京ディズニーランド・東京ディズニーシーにおいてオープン時のイベントの演出を手掛けていた。

(2)東京ディズニーシーの敷地内に立っているディズニーテーマパーク一体型ホテル。

(3)イタリアのリグーリア州にある港町。地中海に面し、美しい自然景観とカラフルな建物が特徴。

(4)1998年ディズニー・クルーズ・ラインが新事業として、ディズニー・マジックの運航を開始した(2028年度に日本での就航が予定されている)。

(5)株式市場におけるオリエンタルランドの位置づけもエンターテインメント業界では注目の的となっている。すでに時価総額9兆円(2023年現在)で任天堂すら超えるオリエンタルランドの株式を京成電鉄が20%保有しており、その持ち分だけで京成電鉄自体の7000億円の時価総額を上回っている。そうした逆転現象が起こるほど、東京ディズニーリゾートは成功している。2023年3月31日現在、持ち株比率は以下の通り。京成電鉄(22.15%)、日本マスタートラスト信託銀行(信託口)(10.03%)、三井不動産(6.65%)、日本カストディ銀行(信託口)(4.19%)、千葉県(4.03%)。オリエンタルランドの自己株は35787千株で、京成電鉄の半分以下ではあるが日本マスタートラスト信託銀行(信託口)よりも多い。


(6)1954年生まれ。タカラトミー元社長。2015年同社代表取締役会長。2024年同社名誉会長

(7)渡邊喜一郎(2013)『ディズニーこころをつかむ9つの秘密』ダイヤモンド社。

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渡邊 喜一郎(わたなべ・きいちろう)

Pirates Factory 社長

1959年生まれ。1981年定期採用2期生としてオリエンタルランド入社。運営本部マーケティンググループに配属され、東京ディズニーランド、1983年のオープン、1984年の入場者1000万人達成に携わる。その後も同グループで、ホテルのオープンやディズニーリゾート全体の開発を手掛けた。その後、日産自動車、日本電電話(現:NTT)、Universal Studios RecreationSupervisionを経て、トミー(現:タカラトミー)コンテンツ事業戦略本部副本部長、メディア工房常務執行役員、DELTAFORCE代表取締役など、ベンチャーを含む多くの企業で社外取締役・役員を歴任。2019年、ダブルエル(現:ファンダム)取締役。2020年、ダブルエルグループのPirates Factory社長。

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中山 淳雄(なかやま・あつお)

エンタメ社会学者、Re entertainment社長

1980年栃木県生まれ。東京大学大学院修了(社会学専攻)。カナダのMcGill大学MBA修了。リクルートスタッフィング、DeNA、デロイトトーマツコンサルティングを経て、バンダイナムコスタジオでカナダ、マレーシアにてゲーム開発会社・アート会社を新規設立。2016年からブシロードインターナショナル社長としてシンガポールに駐在。2021年7月にエンタメの経済圏創出と再現性を追求する株式会社Re entertainmentを設立し、大学での研究と経営コンサルティングを行っている。著書に『エンタの巨匠』『推しエコノミー』『オタク経済圏創世記』(すべて日経BP)など。

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(Pirates Factory 社長 渡邊 喜一郎、エンタメ社会学者、Re entertainment社長 中山 淳雄)
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