■過去最悪のクマ被害の「本当の理由」
環境省の発表によれば、4~11月のクマによる被害者数が全国で230人となった。
過去最悪のクマ被害を出した令和7年も師走を迎えたが、クマが冬ごもりに入るはずのこの時期になっても人身事故は後を絶たない。
今月4日には、富山市婦中町で新聞配達中の夫妻がクマに襲われ、顔などに大怪我を負い、長野県野沢温泉村では、除雪作業中の男性が襲われ怪我をした。
これほど多くの被害を出した大きな要因のひとつが、東北地方でのドングリの凶作だといわれる。
しかし筆者の体感的には、これに加えて、柿の豊作が影響しているのではないかと思う。
まだ統計が出ていないので断定はできないが、今年は全国的に柿が豊作といわれ、千葉県大多喜町の拙宅でも、たわわな柿が鈴生(すずな)りである。
柿は日本全国で生育し、多くの農家が好んで植えた。
過疎化によって山から人間が撤退し、その一方でクマの支配地域が広がり、里山に放置された果樹が野生動物を誘引する一因となっていることは、指摘されるところである。
山の木の実の不作と柿の豊作が重なったことで、例年より多くのクマが里山に下りてきた可能性がある。
■80年分の地元紙を通読してわかったこと
農作物の豊凶作と、クマによる人身被害に密接な関係があることは、過去の記録を見れば明らかである。
筆者は明治・大正・昭和と約80年分の北海道の地元紙を通読して、ヒグマによる事件を収集、データベース化し、拙著『神々の復讐』(講談社)にまとめたが、開拓時代の北海道では長雨や台風、冷害の年には、必ずと言ってよいくらいにクマ被害が増加している。
たとえば未曾有の大凶作といわれた大正2年には、筆者が把握しているところでは、ヒグマによる死者11人、負傷者8人、樺太での行方不明7人を加えると、18人もの犠牲者を出しており、これは開拓期を通して最悪の数字である。
また昭和初期には、東北地方で娘の身売りが社会問題になるほどの冷害凶作が続いたが、同時期の北海道でも、昭和3年に死者8人、負傷者14人を出している。
そしてこの時期に起きた特筆すべき事件が、士別地方で広く言い伝えられてきた「天理教布教師熊害事件」である。
この事件は白昼堂々、市街地からほど近い場所で発生したことから目撃者も多く、討ち取られたクマが公衆の面前で解体されたため、ショッキングな事件として長く語り継がれてきた。
■24歳の青年はヒグマに連れ去られ…
概略は『林』(1953年12月号)で犬飼哲夫教授が記録している。
白昼に道路を通行中に熊にさらわれた青年がある。
昭和六年十一月に上川郡温根別村にあったことで、午前十時頃道路から人のはげしい悲鳴が聞えたので、皆が駈け寄って見たら、道に小さな風呂敷包みと鮮血に染った帽子が落ちていて、誰かが熊に襲われたことが判り大騒ぎとなって捜索したところ、天理教布教師の原田重美さんという二十四才の青年であることが判った(後略)(「熊」)
『熊・クマ・羆』(林克巳、1971年)によれば、事件が起きたのは《一度降った雪も消えて、小春日和を思わせる晩秋の日》であったという。
他にもいくつかの記録があるが、なかでも『士別よもやま話』(士別市郷土史研究会、1969年)の及川疆の談話が詳しいので適宜引用する。
旭川で用事を済ませて帰宅途中の天理教の原田布教師が、大津澱粉工場を過ぎて百メートルほどのところで、突然飛び出してきたヒグマに担ぎ上げられ北側の斜面に連れ去られた。
布教師の悲鳴は澱粉工場にも伝わり、働いていた連中は屋根に逃げるなど大騒ぎとなった
■2時間で「体の半分」が食い尽くされた
新聞によれば、通報と同時に警察隊が組織され、午後0時半頃に落葉松林内で発見、射殺した(「小樽新聞」昭和6年11月8日夕刊)。
斜面の上でこの熊は、猟師が三間に近づくまで微動だにせず、一気に躍りかかろうとした瞬間を射殺されたという。一発は両耳を貫通し、もう一発は両耳と両目の交差する眉間の一発で、事件発生からわずか二時間のことであったという(及川疆)
加害熊の遺体は市街地に運ばれて解体されたが、腹の中から被害者の肉体が取り出されると、現場は阿鼻叫喚の様相を呈した。
死体の半分はすでに喰われていてこの半分というのが消防番屋「現士別信金本店」で町民のみている中で老兇漢の腹中から血糊と一緒にとり出される。
こわいものみたさ女ヤジ馬も現代言では失神とか、この山の王者のなれの果て、目方はそのまま測らなかったが脂気一つない肉だけですら四十三貫もとれたというからこれが健康なら優に百貫はこえていたであろう。
被毛(ひもう)が頭から肩にかけ僅(わずか)に生えているだけの裸も同様、ひどい虫歯で満足なものは一本もない。目も鼻もただれていてこのままではとうてい冬は越すことが出来なかったにちがいない。
ひ熊が人を襲うのは何の理由もなしにするものではなく、いろいろの条件が重なった結果であることを証明する様な事件であった(及川疆)
かつての「山の王者」は、栄養不良のために粘膜がただれ、歯は欠け、体毛が抜け落ちていた。生き延びるためには、危険を冒してでも人を襲うしかなかったのである。
■大熊の「腹の中」から出てきたもの
満足なエサが得られなければ、見境なく人間を襲い、4カ月に及ぶ穴居生活に耐えうる栄養を、なんとしてでも蓄えようとする。
クマの凶暴さは、ここに極まると言っていいだろう。
そして以下の二つの事件もまた、その典型といえよう。
天塩国留萌郡鬼鹿村では、昨秋は果実が至って不足で、彼等の食餌を欠乏させたと見え、今年は頻りに人家に近づき、あるいは板倉を破って数ノ子、筋子、鰊などを盗み食うので、人民は大いに憂慮していたが一夜、同村字田崎沢口の菓子を渡世とする某方で十時ごろ、何やら突然、仏間の背後を押破る音がしたので、その家の主人は、馬が畑から入って来たようだから追い出せと職人某に命じたので、職人は直ぐさま縄を用意し外に出ると、何ぞはからん馬と思ったのは一頭の大熊で、それと見るやいなや、矢庭にその職人を引き捕え、肩に引き担いで、どこともなく逃去った。この時、職人は必死に助けを呼んだが、起き出る者もなく、そのまま熊の餌食となったのは、とても憐れなことだった。翌朝、早速猟夫人足とも十人余りを頼み、そそくさと分けて探したところ、彼の熊は職人某の死体を半身土中に掘り埋め、余りの半身をメリメリ喰らっていたのを認めたので、一同砲先揃へて打ち放ったその弾は過またず、いずれもすべて的中し、さすがの大熊も、もろく打ち倒れたので、衆人打ち集まって熊の腹を割いてみると、かねて田沢奥に炭焼を渡世とした老父があったが、この老父も喰われたと見え、その腹中に衣類の細片になったもの、その他、結髪シナ(木皮)で結んだままのもの等あったので、初めて右老父も害されたこと知った。
■冬になっても「クマの恐怖」は続く
今年は天候不順で山野の果実不足のためか、近頃熊の出没が繁く、北見地方渚滑では、去る六日、中山儀市(三五)等三名が薪切りをしていると、午前十時頃、中山の背後より一声高く飛びかかろうとしたので、中山はあまりの急なことに気絶するばかりに夢中で斧をふりあげ、脳天めがけて一撃を加えたが、致命傷には到らず、狂いに狂った熊は、直ちに左腕に噛みつき振り廻したと見えるや、中山は悲鳴をあげるまま絶息した。他二名は腰も抜かさんばかりに逃げ帰り、中渚滑より約三十名が出動し現場に到ると、熊は悠然として中山の太股にかじりついているのを射止められた。この熊は牡で、なお牝熊の出没を恐れて通行が全く杜絶の状態である(後略)(「北海タイムス」大正15年9月15日朝刊)
師走のこの時期でも、いまだクマが出没し、見境なく人間を襲う背景には、絶対的なエサ不足がある。
冬ごもりに十分なエサが得られるまで、彼らは出没を繰り返すに違いない。
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中山 茂大(なかやま・しげお)
ノンフィクション作家、人喰い熊評論家
明治初期から戦中戦後にかけて、約70年間の地方紙を通読、市町村史・郷土史・各地の民話なども参照し、ヒグマ事件を抽出・データベース化している。主な著書に『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)など。
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(ノンフィクション作家、人喰い熊評論家 中山 茂大)

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