■品質を犠牲に価格を下げていた
「うちの名前がついたタオルで、こんなもん出荷していいのか」
ベテラン社員から厳しい声が上がった。1990年代後半以降、愛媛県今治市のタオル産業は深刻な価格競争の渦中にあった。卸や小売店からの値下げ圧力は日増しに強まり、メーカー側は品質を犠牲にしてでも価格を下げざるを得ない状況に追い込まれていた。
今治タオル工業組合の田中良史理事長(57)が振り返る当時の状況は、まさに“底なし沼”だった。田中産業で4代目社長を務める田中氏が入社した1994年はまだ好景気の余韻が残っていた。しかし、その後の凋落は凄まじかった。冒頭の発言はまさにそうした時期に飛び出した悲痛の叫びだった。
田中氏が家業に入るまでには、紆余曲折があった。高校生の時に継ぎたいと父親に伝えたところ、意外な言葉が返ってきた。
「お前はそんなことしか思いつかないのか。もっと世界に羽ばたくとか、大きな夢を持て」
父親は婿養子として田中産業に入った人物で、親族間のもめごとを避けたいという思いもあり、息子に家業を継がせることに消極的だった。一方、田中氏の弟の一人はミュージシャンの道を選び、もう一人の弟はイタリアで修行して都内でレストランを開業した。父親の「自分のやりたいことを見つけろ」という教育方針を、むしろ弟たちの方が体現していた。
■「安売りからの決別」で得たもの
それでも田中氏は家業への思いを諦めなかった。大学4年時に何とか父から許可を得ると、大学卒業後には日清紡績に就職。そして3年後、故郷・今治へと戻ってきた。「自分の意思で継いだので、苦と感じたことはない」と田中氏は言う。
とはいえ、今治のタオル生産量は減少の一途を辿り、2024年は約6800トン。ピーク時の1991年には5万トンを超えていたことを考えれば、実に7分の1以下まで縮小したことになる。
数字だけを見れば絶望的に思えるだろう。しかしながら、過去と比べて商品単価は確実に上がっており、まだ踏ん張れる状況にあるという。
■バブル崩壊で「価格交渉力」を失った
今治のタオル産業の歴史を紐解くと、1980年代半ばから90年代半ばまでの約10年間は“黄金の10年”と呼ばれる時代だった。年間生産量は5万トン前後で推移し、国内外の有名ブランドのOEM生産で潤っていた。
「あの頃は『高く売れ、高く売れ』だったんです」と田中氏は回想する。店頭からは「あれもつけろ、これもつけろ。箱も豪華にしろ、刺繍も入れろ」と、とにかく値段を上げるための要求が続いた。バブル景気に向かう日本経済の勢いそのものだった。
しかし、バブル崩壊後、状況は一変する。不況に伴うデフレ経済の波に加えて、海外製の安いタオルが大量に輸入されるようになり、価格競争は激しさを増していった。中間卸や小売店が価格の主導権を握り、メーカー側は価格交渉力を完全に失った。
「いったんデフレになると、『あれも抜け、これも抜け』『安くしろ、もっと安くしろ』の連続でした。十数年のうちに足し算と引き算を一気に見た感じです」
2000年代に入っても歯止めはかからず、値下げ要求はエスカレートしていく。
■すべての人を不幸にした安売り
安売りは、今治のタオル作りに関わるすべての人を不幸にした。
メーカーは利益が圧迫され、外注の加工業者にも値下げを要請せざるを得なくなった。従業員の賃金も上げられない。品質の高いタオルを作りたいという職人たちのプライドは傷つけられた。
「(1966年に)昭和天皇皇后両陛下もご視察された工場で作った田中のタオルが、こんなことでいいのか」
1932年創業の田中産業には、そのような伝統とプライドがあった。しかし、生き残るためには、タオルの質を落としてでも価格を下げざるを得なかった。作りたくないものを作って、それでも売り上げは伸びず、給料も上がらない。現場の士気は下がる一方だった。
かたや値下げ圧力をかけていた百貨店も収益が伸び悩み、最終的には消費者が手にするタオルの品質も下がっていった。
「あれは誰がいい目をしたんだろう、と今でも思います。誰も得をしていなかった。全員が負のスパイラルに巻き込まれていたんです」と田中氏は吐露する。
安いことはいいことだ――。デフレ経済の真っ只中、そんな風潮が日本全体を覆っていた。商品の質や中身を見比べることなく、ただ安い方を選ぶ。牛丼チェーンが競い合うように価格を下げた「牛丼戦争」はその象徴だったが、実は日本のタオル業界もそうした煽りをもろに受けていた。
今治のタオル産業がどん底からはい上がるためには、もはや抜本的な戦略転換が不可欠だったのだ。
■「最後のチャンスなんだ」
転機は2006年に訪れた。四国タオル工業組合(現・今治タオル工業組合)で理事長を務めていた藤髙豊文氏が、強力なリーダーシップのもとで「今治タオルプロジェクト」を立ち上げた。
「これが我々の最後のチャンスなんだ」
藤髙氏はそう言い切った。そして、ブランディング・プロデューサーに佐藤可士和氏を起用するという大胆な決断を下す。
「高齢の理事の中には佐藤可士和さんを知らない人もいました。『誰だそれ?』という感じだったんです。一方で、私たち30~40代の若手は『えっ、あの佐藤可士和⁉』と色めき立ちました」
田中氏自身も2006年に組合の監事となり、まさにブランド化プロジェクトのスタート時に組合の中枢に加わった形となった。背景にあったのは、青年部時代から培われた長年の人間関係だった。今治タオル工業組合には愛媛県で最初にできた組合青年部があり、田中氏もその出身だった。
■“青年グループ”の奮闘
この青年部の存在は、今治タオルのブランド化成功の隠れた要因だった。親組合からは独立した財務体制をとっており、親組合ができないことを青年部が実行する――その柔軟性が新しい発想を生んできた。
かつて田中氏が青年部にいた頃には、タオル生地を使ったアパレル製品を企画。さらにはデザイナーにデザインを依頼し、ファッションショーまで開催していた。一例を挙げると、今治市民祭り「おんまく」の前身である「バリ祭」というイベントでは、「バリコレ」と称し、数年間にわたってショーを実施。プロのモデルだけでなく、組合企業の社員や子どもたちも出演。特にキッズモデルには応募が殺到した。
今治タオルのブランド化がスタートした2006年当時、組合理事のほとんどは青年部の先輩たちで、「お前もやっと来たか」という雰囲気で田中氏は迎えられたという。20代からの信頼関係があったからこそ、田中氏ら若手メンバーが各ポジションで責任を持って動くことができた。実際、プロジェクトの各委員会で委員長や責任者を務めることとなった。
2007年2月、今治タオルのロゴマークが発表されて商品が出始めたものの、リーマン・ショックなどの影響もあり、タオルの生産量が上向きになることはなかった。
しかし、2009年――。組合が「奇跡の夏」と呼ぶ時期が訪れる。メディア露出が一気に増え、今治タオルの認知度が急上昇した。それに伴い生産量もアップ。2010年は9851トンと前年比約5パーセント増。ここから生産量は増加に転じ、2016年には1万2036トンまで回復した。
■平均出荷単価は3倍に上昇
消費者の認知度向上によって今治タオルの生産量が増えたのもさることながら、ブランド化の最大の成果は、価格の主導権を取り戻したことだった。
「以前は、中間の卸や小売店に隷属とは言わないまでも、支配されている部分が多かったです。この規格をこの値段で作れといったイメージでした」
それが今治タオルというブランドを確立したことで状況は一変した。
「この価格では無理です」「今治タオルとしての品質を維持するためには、これ以上は下げられません」――。そう堂々と相手に主張できるようになったのだ。
田中産業の場合、単位当たりの平均出荷単価は過去最低だった時期に比べて約3倍になった。生産量は減少しているが、商品単価が上がったことで、企業としては持続可能な経営ができるようになった。こうした状況は組合に所属する他のタオルメーカーでも見られる傾向だという。
「かつては3000円のバスタオルが標準でしたが、今は5000円、1万円、さらには数万円のバスタオルも珍しくありません。高価格帯の商品を作っても、それに見合う品質をきちんと提供してきたから、20年間、今治タオルブランドが継続できているのだと思います」
当然、過去と現在ではものづくりの品質などでも大きく異なるため、単純な比較はできないが、あくまでも参考値として、田中産業が製造するOEM商品のバスタオルの場合、かつては2000円のものもあったが、現在は最高額で4万円を超えるという。
暴利を得ようとしたわけではない。高い価格を設定する以上、それに見合う材料を使い、それに見合う製法で、真面目にものづくりをする。その姿勢を貫いてきたことが、消費者の信頼を獲得した。
■ブランドを守る「厳しい基準」と「自己規制」
事実、今治タオルのブランド管理は厳格だ。組合が関与するのは品質のみで、75社ある組合員企業(2025年11月現在)はそれぞれ独自のものづくりと価格設定の自由を持つ。しかし、今治タオルのロゴマークをつけるには、すべての品質テストに合格しなければならない。
この品質基準は世界でもトップクラスだと言われる。吸水性、色落ち、強度など、あらゆる項目で厳しい基準が設けられている。
一方で、価格やデザインに対して、組合は基本的に口出ししない。薄手の軽いタオルを好む人もいれば、厚手のふわふわしたタオルを好む人もいる。75社がそれぞれ異なるアプローチでタオルを作っているからこそ、消費者は自分に合った今治タオルを選べる。この多様性こそが大きな魅力になっている。
ただし、ブランドイメージを守るため、「大安売り」「○○円が××円に」といった表現は、今治タオルのロゴマークをつける限り、極力使わない。それが他の組合員への配慮であり、ブランド全体を守ることにつながる。
「今治タオルの恩恵を受けている以上、皆のためにルールは守る。それがなければ、うちの会社もとっくに『長い間お世話になりました』と貼り紙して廃業していましたよ」と田中氏は苦笑いする。
■安売りをやめて起きた変化
価格競争から脱却できたことで、従業員への還元も可能になった。2019年には組合主導による子育て支援制度を開始し、高校生年代までの子どもを持つ女性社員に対して、月1万円の支援金を提供する仕組みを作った。2025年3月末時点で24社101人が受給している。
職場環境の改善にも投資できるようになった。女性用トイレの改装、休日の増加、昇給とボーナスの実施。ごく当たり前のことかもしれないが、安売り競争にさらされていた時代には不可能だったことが、いくつかの企業で見られるようになった。加えて、タオル産業の活性化に伴い、Uターン、Iターン、Jターンで今治に移ってくる若者も増えているという。
■ブランド化だけでは生き残れない
しかし、課題は山積している。最大の問題は、生産量の減少が止まらないことだ。
2024年の6857トンという数字は、2006年のブランド化開始時の1万2207トンから見ても、大幅な減少だ。組合員数も2020年からの5年間で27社減り、75社に。タオル産地は分業体制で成り立っており、タオルメーカーだけでなく、染色会社、プリント会社、刺繍屋、機械部品屋、資材屋、運送会社など、多くの関連業者が存在する。ある程度の生産量がなければ、この生態系全体が維持できなくなる。
「1万トンというラインは何とか維持したい。タオル会社だけが残っても、周辺の業者がいなくなれば産地としては成り立たないんです」
もう一つの課題は、市場の性質だ。今治タオルはブランド化に成功したが、実は当初の目論見とは異なる方向に進んでいた。
「脱ギフトで、自分のために買ってもらうタオルを目指したはずでした。でも結果的に、今治タオルは『いいものだからギフトにしよう』という使われ方が多くなってしまった」
日本のタオル市場の特殊性は、実需と離れたニーズが大きいことだ。冠婚葬祭の贈答、企業の記念品、イベントのグッズ――。自分で使うためではなく、誰かにあげるためのタオルが、市場の大きな部分を占めてきた。
しかし、お中元やお歳暮の習慣は失われつつあり、ギフト市場は縮小の一途をたどっている。だからこそ、本当に「自分のために買う」タオルとしての需要を掘り起こさなければならない。
■海外マーケットの拡大も視野に
生産量を増やすなどして、真の意味でタオル産地・今治を復活させるべく、組合は2025年に新たな取り組みを開始した。青年部のメンバーを、組合の各ワーキンググループ(ブランドマネージメント、プロモーション、ヒューマンリソース、イノベーション)に委員として参加させたのだ。
「かつて30~40代だった若手がブランド化を推進したように、今の若い世代の感覚が必要なんです。例えば、InstagramやTikTokでどう情報発信するかなど、私たちの世代ではもう追いつけない」
もう一つの新たな展開が、海外市場である。為替が円安に振れたこともあり、輸出の引き合いが明らかに増えている。
「東京・南青山にある今治タオルの店舗では、売り上げの半数以上がインバウンド客です。私たちは海外向けに広告などを打っているわけではないのに来てくれる。これは大きなチャンスです」
田中産業でも香港、台湾、米国、南米などへの輸出が増えている。コンテナ単位での輸出も実現した。
人口減少によって国内市場がシュリンクする中、海外マーケットは大きな可能性を秘めているのは間違いない。今後、組合全体でも海外向けのプロモーションに力を入れていく方針だ。
■ここでしか作れないタオルがある
今治の産業構造を見ると、経済面では造船業の存在感が大きいものの、雇用の受け皿としてのタオル産業の重要性は無視できない。高校を卒業したばかりの若者から70代のベテランまで、女性も男性も、障がい者も、さまざまな人々が働ける場がある。内職という働き方も提供できる。こうした多様性は造船業にはない特徴だろう。
「タオルは生活必需品です。コロナ禍で貿易が止まったとき、タオルがなくなったんですよ。輸入品が8割を占める市場で、それがストップしたら困るのは消費者です」
国内生産を一定レベルで維持することの大切さを田中氏は強調する。食料自給率と同様に、生活必需品の国内生産率も考えるべきだ、と。
そして、今治という土地でなければ作れないタオルがあるという事実も重要だ。
「今治市内を流れる蒼社川の水が、タオルの染色や洗いに適している軟水なんです。ここだからこそできる品質がある。工業製品とはいえ、場所が持つ意味は大きい」と田中氏は訴える。
染色工程では、今でも食用のデンプンを糊として使っている企業もある。これは糸を切れにくくし、織りやすくするためのものである。化学糊ではなくデンプンを使うのは、排水処理で分解しやすいから。最終的に瀬戸内海に流す排水は、国立公園の厳しい基準をクリアしなければならない。元々、今治のタオル産業はサステナブルなものづくりをしてきたのだ。
■今治タオルは優等生であれ
かつて佐藤可士和氏から言われた言葉を、田中氏は今でも忘れない。
「今治タオルは、クラスの真面目な優等生でありなさい。学級委員をやるような、そういう存在でいなければ駄目なんだ」
一時、おどけた感じのPR施策を提案したとき、佐藤氏から厳しく注意された。面白みはないかもしれない。でも、誠実で、真面目で、品質に妥協しない。その姿勢を貫くことが、ブランドの本質なのである。
ブランド化から20年という歳月を経ても、今治タオルの認知度は衰えていない。「アパレルブランドでも20年も知られているものは本当に少ない」と業界関係者に言われたこともあるという。これを可能にしているのは、安売りに走らず、品質に対して真摯であり続けたからだろう。
「安売りをやめるということは、売り手だけの問題ではありません。私たちメーカーに対する自己規律でもあるんです。評価されるものづくりをしなければ、最後に投げ売りされても仕方ない。だから、安売りされないものづくりをする責任が、私たちにはある」
認知度という資産と、以前よりもはるかに安定した財務基盤。この2つを持って、今治タオルは新たなステージに挑もうとしている。生産量の減少を食い止め、若い世代に選ばれ、海外市場を開拓する。そして何より、産地としての生態系を守り、次代に継承する。
田中氏は時々、組合員に対してこう語るのだという。
「我々は絶滅危惧種のようにたまたま生き延びた存在ではなく、選ばれて勝ち残った会社なのだ」
そうした意識を持って、今治タオルは前に進む。安売りという底なし沼から抜け出した先に、まだ多くの可能性が広がっている。
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伏見 学(ふしみ・まなぶ)
ライター・記者
1979年生まれ。神奈川県出身。専門テーマは「地方創生」「働き方/生き方」。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修了。ニュースサイト「ITmedia」を経て、社会課題解決メディア「Renews」の立ち上げに参画。
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(ライター・記者 伏見 学)

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