藤原道長はなぜ権力を得ることができたのか。立命館アジア太平洋大学前学長・名誉教授の出口治明さんは「藤原氏はほかの氏族を蹴落としきると、身内のなかで容赦なく叩きあった。
藤原家バトルロワイヤルで勝利するためには、3つの条件をクリアする必要があった」という――。
※本稿は、出口治明『一気読み日本史』(日経BP)の一部を再編集したものです。
■開発バブルと地方富豪層の誕生
地方の行政は、大宝律令に基づいてなされていました。持統天皇のブレーンだった藤原不比等がつくったものです。
大宝律令の下では、公地公民制で、班田収授が行われていました。公地公民も班田収授も、乙巳の変(大化の改新)の後に出された「改新の詔」からある考え方であり、仕組みです。
公地公民とは、「土地や人民は、国家のものであって、王様(天皇)や豪族・貴族の私物やないんやで」ということです。だから、王様や豪族の土地は全部、いったん召し上げます。これらを公有の土地として、人民に再分配するのが、班田収授の仕組みです。その代わりに、人民は租庸調といった税を納めます。しかし、これらは建前であって、徹底されず、実際には、天皇や豪族・貴族の私有地が併存していました。
公地公民制は、土地を公平に分けますが、「死んだら没収やで」という共産主義のような一面もありました。
それでは、頑張って土地を耕す意欲が湧きませんよね。そのため、「開発した土地は、自分のものにしてええで」という法律が、奈良時代から出されています。それが、三世一身法や墾田永年私財法です。
すると、開発バブルが起こりました。そして、富豪が生まれます。そのなかには、事業意欲の高かった農民もいましたが、国司や郡司といった役人が、農場を経営するケースもありました。国司とは、中央から派遣された役人。郡司とは、国司の下で働く役人で、地方の豪族たちです。国司のなかには、地方の豪族と姻戚関係を結び、京都に戻らず、土着する人たちもいて、地方で富豪層を形成していきました。
■京都を離れたくない役人が出てくる
平安時代に入るころから、国司のなかに「俺は、京都が好きやから、地方になんて行かへんで」という人が出てきます。
現地での徴税などの仕事は、ほかの人たちに任せるのですが、なかでも中央政府への税の納入責任を負った人を、受領と呼ぶようになりました。徴税は大事な仕事ですから、やがて受領に、裁判などの権限も集中させるようになります。
「何をしてもええから、しっかり税を納めるんやで」と。
受領たちは、富豪層が台頭する地方の実態を見て、「班田収授は、もう無理や」と、考えます。そこで、公有の田んぼを名田として、その経営を、富豪層たちに請け負わせます。そして、負名という名の納税責任者にしました。はじめは「公有の土地」の「経営」を請け負わせただけでしたが、そのうち、実質的に所有する負名が現れ、名主と呼ばれるようになっていきます。
■賄賂と武力を活用した地方の富豪層
こうして受領と地方の富豪層は、名田を介して、つながりました。
しかし、国家権力側の受領と、地方の富豪層は、必ずしも友好関係にあったわけではありません。
受領は、徴税責任を負いましたが、ノルマを超えて集められれば、ポケットに入れることができました。だから、相当がめつく取り立てました。
そんな受領に対抗するため、地方の富豪層は、京都に賄賂を贈り、家人になりました。送った相手は、上皇に皇后、皇太子といった皇族のほか、藤原氏などの有力な貴族です。「わしは、関白藤原忠平の家人やで」などと言われれば、がめつい受領も、うかつには手を出せません。

当時、皇族や貴族に土地を寄進すると、その土地は免税される仕組みがありました。この仕組みを使って広がったのが、荘園でした。荘園を任された富豪層は、私兵を養い、近くの富豪とも協力して、武力でも受領と対抗する存在になっていきます。
■将門・純友の乱で律令国家が終焉を迎える
話を戻せば、「関白を置かなかった、醍醐天皇と村上天皇の治世は、そんなにいいものだったのか?」という問いでした。
このころには、当時の技術で開墾できるところは、開墾しつくされ、開発バブルは終焉します。地方経済は苦しくなりました。
そんななかで、治安が悪化していきます。
10世紀前半、関東と西日本で、時をほぼ同じくして、武家による2つの反乱が起こります。関東で兵を挙げたのは、平将門。西日本では藤原純友です。
平将門は、現在の茨城県坂東市のあたりを本拠とする、地方の富豪層でした。祖父の高望王は、桓武天皇のひ孫でしたが、関東に赴任し、土着化しました。
一方、藤原純友は、藤原四家につながる貴族で、当初は海賊を取り締まる側でしたが、瀬戸内海で海賊化します。そして、政府に反旗を翻したのです。
この将門・純友の乱(天慶の乱)で、律令体制は大きく変質しました。地方の統治は受領に任され、何か問題が起きれば、受領と結んだ有力武家が実力でかたをつけるという体制へ、完全に移行したのです。「律令国家から王朝国家へ」とも表現できます。
将門・純友の乱が起こったのは、朱雀天皇のときですが、その前の醍醐天皇の時代も、次の村上天皇の時代も、地方の治安が悪化傾向にあったことには変わりありません。武装した集団がのさばり、海賊が横行していたのです。「延喜・天暦の治」という言葉は、今ではあまり聞かなくなりましたが、そのような治世を美化するのは、やはりおかしいということです。
ところで、将門・純友の乱は、律令体制下にいた貴族たちが初めて経験した、本格的な戦争でした。都の貴族たちは震えあがり、この乱を鎮圧した人たちの家系は、特別視され、そこから武士のリーダーたちが出てきます。例えば、将門を倒した平貞盛と、その子孫の平清盛です。
■「藤原家バトルロワイヤル」勝利の3条件
それにしても、藤原氏というのは、よほどファイティングスピリッツにあふれた一族だったのでしょう。
謀反だ、陰謀だと、あらゆる手を使って、ほかの氏族を蹴落としきると、身内のなかで、容赦なく叩きあうようになりました。藤原家バトルロワイヤルです。
このゲームのルールは、娘を天皇に嫁がせ、その子どもを天皇にすることで、政治の実権を握るというものです。しかし、子どもが生まれるかどうかは、運があり、生まれても成長するまでには、時間がかかります。つまり、勝利するには、なかなかコントロールしにくい、次の3条件をクリアすることが、求められます。
・娘が(多く)生まれること

・娘が(天皇の)子を産むこと

・自分が長生きすること
藤原家バトルロワイヤルを制し、我が世の春を謳歌した藤原道長は、五男でした。長男かどうかの問題ではなかったのですね。
道長自身は、長男の藤原頼通に後を継がせました。頼通は26歳で摂政になり、のちに関白にもなります。そんな頼通を、道長は死ぬまで後見しました。しかし、頼通の娘が天皇との間に息子を産むことのないまま、1068年に後三条天皇が即位します。宇多天皇以来、およそ180年ぶりに、藤原氏を外戚としない天皇が生まれました。
藤原氏の栄華は、衰えていきます
■藤原氏から野生のエネルギーが失われた
藤原道長が、長男の頼通を後継者にして支えたのは、親族同士の争いに疲れてしまったからではないかと思います。道長の娘2人が、天皇との間に3人の息子を産んでいましたから、この子たちを順番に天皇にしていけば、あと50年くらいは安泰だ、という算段だったのでしょう。
ここまで盤石に体制を固められては、藤原氏のほかのメンバーには、手の出しようがありません。そのためではないでしょうか。道長・頼通のころから、親族とあっても他人を蹴落とし、バトルロワイヤルを繰り広げる野性のエネルギーが、藤原氏から失われてしまったように感じます。
■日本の文学史上屈指のレベルの作品が誕生
摂関政治が完成したころ、文化は爛熟しました。
日本文学はここで一度ピークを迎えたのだと思います。天皇の後宮に入って、子を産むことを求められた藤原家の娘たちには、多くの女官が仕えていました。その一人だった清少納言が『枕草子』を書き、紫式部が『源氏物語』を残しました。2人とも、めちゃ賢い人でした。清少納言の「香爐峰の雪」の逸話からも明らかなように、漢文学を見事に読みこなして、機知に富んでいる。その作品は、間違いなく日本の文学史上屈指のレベルです。
遣唐使は菅原道真によって894年に停止されましたが、海をまたいで活躍する海商(商人)たちから、海外の情報は入っていて、日中の交流は、むしろ拡大していたようです。勉強したい人は、私費留学生として、商船で海を渡ったのです。
海商が中国から輸入する、陶磁器などの舶来品は「唐物」と呼ばれ、貴族たちに珍重され、後宮を彩りました。唐物とバーターで取引されたのは、火薬に使う硫黄、そして砂金でした。
■大衆の間では「世も末や」の思想が広がる
藤原道長が我が世の春を謳歌し、後宮で文化が爛熟したころ、大衆の間では「世も末や」という思想が広がっていました。末法思想です。それと一緒に、中国から伝来した浄土信仰が大流行します。
中国の仏教は、最初、国家仏教でした。皇帝は仏であり、仏の力で国を守ってもらう、という考え方です。仏教界には、皇帝からたくさんのお金が入ってきました。
しかし、国家仏教も意外と大変で、仏教界にやがて、「皇帝1人から1000億円もらうのでなく、大衆10億人から100円ずつもらおう」という考え方が出てきます。とはいえ、大衆には字が読めない人が多く、難しい話は受けません。お坊さんたちが、いろいろと工夫したなかで、非常に受けたのが、浄土教でした。例えば、阿弥陀さんの絵札を渡して、「これを拝んで南無阿弥陀仏と唱えれば、極楽浄土に行けるで」と説く、といった具合です。この考え方が、宋に渡ったお坊さんなどを通じて、日本に伝わり、大流行したのでした。

----------

出口 治明(でぐち・はるあき)

立命館アジア太平洋大学(APU)前学長

1948年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、日本生命保険に入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画(現・ライフネット生命)を設立し、社長に就任。2012年に上場。2018年よりAPU学長。読んだ本は1万冊超。主な著書に『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『全世界史』(上・下、新潮文庫)、『一気読み世界史』(日経BP)、『自分の頭で考える日本の論点』(幻冬舎新書)、『教養は児童書で学べ』(光文社新書)、『人類5000年史』(I~IV、ちくま新書)、『0から学ぶ「日本史」講義』シリーズ(文春文庫)、『日本の伸びしろ』(文春新書)、『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)、『復活への底力』(講談社現代新書)、『「捨てる」思考法』(毎日新聞出版)など多数。

----------

(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長 出口 治明)
編集部おすすめ