※本稿は、出口治明『一気読み日本史』(日経BP)の一部を再編集したものです。
■「いい国つくろう」が「いい箱つくろう」になった理由
いい国(1192)つくろう、鎌倉幕府。そんな語呂合わせで、鎌倉幕府の成立は1192年と覚えた方も多いでしょう。けれど、今は、違います。
いい箱(1185)つくろう、鎌倉幕府。鎌倉幕府の成立は、1185年というのが、今の多数説です。1192年は、後白河院が亡くなり、源頼朝が征夷大将軍になった年ですが、そこまで大きな意味はないと考えられています。
では、なぜ、1185年なのでしょうか。
壇ノ浦で平氏が滅亡したのが、1185年3月でした。この年の5月に、源頼朝に冷たくされた源義経が、腰越状を書いたとされます。しびれを切らした義経が、後白河院から院宣をもらって、頼朝に反旗を翻したのが10月。これに乗じて、頼朝が後白河院から、とうとう全国の警察権を獲得したのが、12月です。
文治の勅許によって、頼朝は、守護と地頭の任命権を得ました。そして、この権限の獲得をもって鎌倉幕府の成立とするのが、今の考え方です。
守護は国ごとに任命され、その権限は、大犯三箇条と呼ばれます。第1に、京都と鎌倉の警護(大番役)の催促、第2に謀反人の検断、第3に、殺害人の検断です。検断とは、逮捕から裁判、刑の執行までの権限を指します。地頭は、荘園や公領に置かれ、年貢の徴収や土地の管理、治安の維持などに当たりました。
しかし、その一方で、国司や荘園領主も依然として存在しているわけです。つまり、鎌倉時代には、守護と国司、地頭と荘園領主といった、二重支配が行われていました。荘園領主は、京都にいることが多いので、やがて地頭の力が強くなっていきます。
■鎌倉幕府の実態は第2次平氏政権
源頼朝が1199年に亡くなった後、嫡男の源頼家が17歳で家督を継ぎます。しかし、専横が目立つことから、3カ月もしないうちに13人の有力な御家人による合議制ができます。
13人のなかで、同じ一族から2人が入っているのは、北条氏だけ。このころから、北条氏の権力が形成されていくのですね。
もう一つ、注目すべきことは、この13人のなかに、源氏の系譜は一人も入っていないということ。北条氏は平氏の系譜で、鎌倉幕府の実態は、第2次平氏政権と呼んでもいいものでした。
■愛人かわいさの後鳥羽院の求めに鎌倉幕府が憤る
源頼朝は、地盤固めの一環で、公文所と問注所をつくっていました。公文所は行政を司り、問注所は司法、裁判所です。公文所は政所と名前を変え、北条時政はその長官に就任。初代の執権になりました。
執権になった翌年、時政は源頼家を殺します。頼家の次に、弟の源実朝が、鎌倉幕府の3代将軍になりましたが、頼家の遺児の公暁に、暗殺されます。
北条政子は、上皇となった後鳥羽院の子を将軍に迎えようとします。後鳥羽院は、条件を出します。ある荘園の地頭をクビにしてくれ、と。その荘園は、後鳥羽院が愛人に与えたものでした。せっかくもらった土地を地頭のおじさんが仕切っているので、その愛人が腹を立てていたのです。
しかし、鎌倉幕府にしてみれば、守護と地頭の任命権こそが権力の源泉。とてものめない条件で、そんな条件を出す後鳥羽院への反感も募ります。将軍には結局、源頼朝のきょうだいの坊門姫の玄孫を京都から連れてきました。4代将軍、藤原頼経です。
■「伝説の名演説」ににじむ北条政子のあざとさ
1221年、後鳥羽院が、北条義時を追討せよと院宣を出します。後鳥羽院の側も、頑なに条件をのまない義時に憤ったのです。
御家人たちの間、動揺が広がります。
このとき、北条政子が檄を飛ばしたといいます。「頼朝様の恩義は、山より高く、海より深い」「逆臣の讒言により、このたび、道理に背いた命令が出された」「名を惜しむ者は、戦え」「ただし、後鳥羽につきたければ、すぐに申し出るがよい」などと。伝説の名演説です。
みんなの前で演説したかといえば、怪しいのですが、今に伝わるその言葉には、後鳥羽院の目的が義時の排除であることから巧みに目をそらさせ、後鳥羽院は幕府の敵であり、ひいては武家全体の敵だと御家人たちに思いこませる、あざとさがにじみます。
■明治時代に名前がついた鎌倉時代の仲恭天皇
北条政子に急かされ、北条義時の子の北条泰時が、京都に出陣します。後鳥羽院は、ひとたまりもなく破られました。承久の乱です。
後鳥羽院は隠岐へ、その子どもの順徳院は佐渡へ、流されました。やはり後鳥羽院の子の土御門院は、挙兵に反対していて、責任を問われませんでしたが、自ら望んで土佐に流されました。
後鳥羽院の孫の天皇は、在位数カ月で廃され、明治時代に仲恭天皇という名が贈られました。仲恭天皇の代わりに、鎌倉幕府が立てたのが後堀河天皇。後鳥羽院の兄の子どもでした。
朝廷に弓を引き、3人の上皇を島流しにし、天皇を廃したとは、前代未聞のことです。北条義時は、のちに皇国史観の下で逆賊として扱われます。
■御成敗式目の制定で鎌倉幕府の形が整う
承久の乱が起こったとき、鎌倉幕府の権限は、東日本にほぼ限られていました。しかし、承久の乱に勝利すると、後鳥羽院やその近臣の所領など、西日本の荘園を3000カ所くらい獲得します。鎌倉幕府は、そこに新しく地頭を置きました。東日本の御家人が西日本に移住していきます。こうして、鎌倉幕府の権限が、全国に広がります。
さらに、北条泰時が御成敗式目を制定することによって、日本全体の統治機構としての鎌倉幕府が、完成します。
1224年、北条義時が亡くなり、翌年、北条政子も亡くなりました。
世代交代して、義時の子の北条泰時が執権となったとき、叔父を連署にしました。連署とは、執権と並んで決裁書にサインする役職で、執権のサブです。第2世代の泰時は、北条氏の有力者2人で連立政権を組むことを選んだのですね。さらに泰時は、11人の評定衆をつくり、合議制で幕府を運営しました。鎌倉幕府は、もともと13人の合議制でしたが、主なメンバーを北条氏が殺してしまっていたので、メンバーを入れ替えたのです。
そして、1232年、御成敗式目をつくります。これをもって、鎌倉幕府の形はほぼ整いました。
■女性や農民の権利も認めた御成敗式目の合理性
御成敗式目は、守護と地頭の役割を中心に、土地や財産の権利、相続などについても定めた法律です。その特徴は、現実的かつ合理的な考え方が強いことでしょう。
例えば、女性の財産相続が当然のこととされ、子どものいないまま夫に先立たれた女性が、養子を迎えて財産を相続していくことも許されていました。
また、農民がどこかに逃げていったとしても、残していったものを勝手に奪うことを許しませんでした。逃散と呼ばれる行為を、ある種の権利として認めていたわけです。これは、農民の力が強くなってきたことの表れだと思います。
中世というのは、中央集権とは真逆で、流動性が高い時代でしたね。力を持ち、特権を持つ複数の権門が並び立ち、それはそれで農民たちは大変でしたが、どの権門に属するかを選ぶ自由も持てる時代でした。
御成敗式目は、あくまで武家が定めた法律です。一方で、朝廷が定めた律令もあれば、寺社が定めたルールもあって、それらが併存したのが中世の権門体制です。
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出口 治明(でぐち・はるあき)
立命館アジア太平洋大学(APU)前学長
1948年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、日本生命保険に入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画(現・ライフネット生命)を設立し、社長に就任。2012年に上場。2018年よりAPU学長。読んだ本は1万冊超。主な著書に『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『全世界史』(上・下、新潮文庫)、『一気読み世界史』(日経BP)、『自分の頭で考える日本の論点』(幻冬舎新書)、『教養は児童書で学べ』(光文社新書)、『人類5000年史』(I~IV、ちくま新書)、『0から学ぶ「日本史」講義』シリーズ(文春文庫)、『日本の伸びしろ』(文春新書)、『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)、『復活への底力』(講談社現代新書)、『「捨てる」思考法』(毎日新聞出版)など多数。
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(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長 出口 治明)

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