世界大戦の最中でも自分の生き方を貫いた女性たちがいる。作家の平山亜佐子さんは「オーストリアの“コーヒー王”マインルと結婚した女優・歌手の田中路子は、1938年同国がドイツに併合される直前、映画『ヨシワラ』で早川雪洲と共演し彼に籠絡された」という――。

※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。
■欧州で歌手・女優として成功した
禍福はあざなえる縄のごとし、強運の田中路子にも不運が襲う。
この頃、フランスの映画会社リュッスからモーリス・デコブラ原作の映画『ヨシワラ』への出演オファーが来た。ピエール・リシャール・ウィルム、早川雪洲との共演だった。ウィーンに帰って夫のマインルに相談すると賛成してくれたため、路子は話を受けたが、この映画で後に思いもよらぬダメージを受けることになる。
パリで行われた撮影に全力で取り組む一方、いつものマキシムやシェヘラザードなど一流の遊び場で楽しんでいたが、ロンドンに住む恋人のツックマイアーと遠距離になり、寂しさが募った。そんなある夜、夜中にツックマイアーのホテルに電話をかけてみると妻が出た。ショックを受けた路子は別れを決意する。
1938(昭和13)年3月12日の午後、路子はラジオでオーストリアにドイツ軍が侵入したことを知った。夫に電話をしたが繋がらないためウィーンに旅立った。マインルは憔悴しており、すぐにパリに戻れと言う。路子はユダヤ人の友人たちが心配になり、家々を車で回りみんなが国外に持ち出したいものを預かった。
マインルの宝石も受け取り、路子は一路パリに戻った。
■映画「ヨシワラ」で早川雪洲と…
『ヨシワラ』の撮影が終わると、希代のプレイボーイである早川雪洲からのアプローチが始まった。路子は手もなく籠絡され、例によって速やかにツックマイアーに電話をかけて別れを告げた。そして早速パリ16区パッシーにアパルトマンを借りて雪洲と同棲し、プロダクション設立に協力し始めた。ところが雪洲には日本に置いてきた妻子の他に元芸者の女性、アメリカ人女性の間にも子供がいることがわかった。また、アメリカ人女性がアパルトマンにやってきたとき、雪洲は彼女の髪を掴んで階段から突き落とした。路子は彼の本性を知って急速に冷めてしまった。
悪いことは重なるもので、『ヨシワラ』が日本で国辱映画として槍玉に挙げられて上映できなくなった。実は当時ベルギーにいた武林文子が娘を出演させようとしてできなかった腹いせに路子にフラれた「日本の名士」とともに運動した結果だと後で聞いた。結局、この映画が日本で封切られるのは戦後となった。
■雪洲と別れ、泥沼の裁判ざたに
さて、雪洲との将来はなくなったものの、嘘の嫌いな路子には珍しく周囲を欺き関係を続けた。
すでにメディアで喧伝されていたし、『ヨシワラ』の悪評の上にさらなるゴシップを重ねたくなかったためだ。
そのうち、雪洲のプロダクション設立の話がなくなり、契約していた監督や俳優が裁判を起こす騒動に発展。路子は愛してもいない雪洲のために巨額の費用を負担することになる。
宝石や毛皮など財産と呼べるものはすべて売り払い、何もなくなった。これとてもとを辿ればマインルの財産である。本来であればマインルに伝えるべきところだが、路子は日本人の悪行として彼に知られることを恐れて言えなかった。そこまで日本人にこだわる感覚は現代人にはわからないが、明治の女の気骨なのかもしれない。
ちなみに後年、路子は返金をめぐって雪洲を相手に裁判を起こす。雪洲は意趣返しに『サンデー毎日』に映画に出たい路子に誘惑されたと話し、路子は『日米ウィークリー』で反論するなど泥試合にも発展した。
■ベルリンでドイツ人俳優と再婚
パリの家をそのままにベルリンのホテルで暮らし始めた路子を、またもや次の恋が襲う。相手はヴィクトル・デ・コーヴァ、二枚目俳優だった。
彼は以前から路子に惹かれており、友人を介して接触してきた。容姿端麗のみならず日本に造詣が深く誠実なデ・コーヴァに路子もすぐにその気になった。
パリに戻って雪洲に別れを告げるとアパルトマンを引き払い、デ・コーヴァとベルリンに移り住んだ。1939(昭和14)年のことである。
1941(昭和16)年4月末、ドイツ軍はソ連国境地帯へと移動、独ソ開戦間近になって路子は結婚を決意した。マインルもデ・コーヴァなら、と賛成してくれ、7月15日に離婚成立、8月16日にマインル立ち合いのもとで結婚が成立した。路子32歳、デ・コーヴァ37歳だった。
■求愛してくる男たちに尽くした
思えば路子は常に男性の庇護のもとにいた。両親からマインルへ、マインルからデ・コーヴァへ。恋愛も必ず相手のアプローチから始まり、交際が始まると尽くす。そんな古風なところもヨーロッパ人に受けたのかもしれない。
路子はデ・コーヴァを「デコちゃん」と呼んだ。デ・コーヴァの好みに髪型と化粧も変え、デ・コーヴァに持ち込まれる脚本は目を通して読み合わせも行った。また、日本美術で客間を飾り、集まりには着物姿で現れて日本の歌を歌った。
正しい日本像を外国人に示すためと路子は言うが、これもデ・コーヴァが日本贔屓なればこそである。
また、路子はドイツに来る日本人を徹底的に世話した。ヴァイオリニスト諏訪根自子にも自宅を提供して数カ月住まわせたが、黙って公使館に移られたことを長い間怒っていた。何があったかはわからないが、おせっかいで派手好きな路子と沈黙思考型の根自子とでは水と油だったろう。
■大戦時、反ナチス運動にも関わる
戦争が激しくなると、デ・コーヴァ家には空襲で家を失った演劇関係者や大使の息子などが次々に集まってきた。最終的に30人ほどに膨れ上がった人々を養うために夫妻は闇物資に大枚をはたき、防空壕を拡張した。空襲のサイレンが響くなか、ずっと閉じ込められているとギスギスしてくる。路子は全員を平等に扱い、水汲みや夜の見回りを当番制にして、夕方6時には必ず服装を整えて食堂につくよう取り決めた。このような規則正しい生活はみんなの心に平安をもたらした。
1943(昭和18)年、路子は突然ハーリヒ・シュナイダーという20代の青年の訪問を受けた。ハーリヒは西田哲学の研究者で西田の高弟、務台理作と文通するほど日本語が上手く、音楽にも造詣が深かったので話が合った。実は彼にはある目的があった。
路子とデ・コーヴァに反ナチス運動に加わって欲しいというのだ。路子の周囲にはもともと反ナチスの人が多く思想に異論はなかったが、かなり危険な賭けだ。
しばし悩んだ結果、資金提供を許諾した。
1944(昭和19)年、マインル危篤の報を受けた路子はなんとかチケットをとってウィーンへ飛んだが死に目には会えなかった。さらに路子が困らないように用意周到に準備されていた遺言は先妻の子どもが履行しなかった。路子はお家騒動を避けるためにすべてを飲み込んだが、先妻の息子には自分のことを「お人好しの阿呆」だと勘違いしないようにと釘をさすことも忘れなかった。
■戦後は世界各地で歌手活動を再開
1945(昭和20)年5月2日ベルリンが陥落し、5月9日にはドイツ全軍無条件降伏文書が調印された。
終戦にはなったが、ソヴィエト軍に占領された間は水道も止まり、治安も悪かった。また、いち早くウィーンの劇場の仮小屋で演劇を再開したデ・コーヴァがソ連兵に拉致される事件もあったが、イギリス軍が入ってくると水道が開通し、やっと戦争が終わったことを実感したという。
戦後、路子は懐かしい人々と再会。1946(昭和21)年にはツックマイアー夫妻にも会った。
実はよりを戻しそうになった瞬間もあったが、珍しく踏みとどまった。

1952(昭和27)年、路子は南米主要都市をまわって公演、ザルツブルクの音楽祭にも招待されて歌った。ここではモーツァルテウム(モーツァルト記念研究所)の碑に日本人として初めて名を刻まれている。
翌年には岸信介(第56、57代総理大臣)と会って親交を深め、ベルリンに来た徳川夢声と対談した。
■40代になっても、彼氏が途切れず…
なお、恋愛も休んではおらず、1953(昭和28)年にはRIAS放送局(西ベルリン米軍占領地区放送局)局長のフレッド・テイラーと交際に発展。もともとフレッドはデ・コーヴァ家の友人だったが、デ・コーヴァの巡業中に急接近した。
例によって帰宅したデ・コーヴァに速やかに告白した路子は、全力で闘うと言われて恋を断念している。
■日本に一時帰国、八千草薫と共演
この年の末から1954(昭和29)年にかけて、路子は20年ぶりに日本に帰国した。『ヨシワラ』で国賊扱いを受けたのも今は昔、帝劇で「喜歌劇・蝶々さん」を3週間公演し、雑誌でいくつか対談を行うなど忙しいスケジュールをこなした。帰りにはローマに寄って日伊合作映画『蝶々夫人』の打ち合わせをした。主演は八千草薫や寿美花代など宝塚歌劇団のスターで固められ、路子は侍女役で出演した。
1955(昭和30)年、ベルリンに日本領事館が誕生。路子のおもてなしの役目も減るかと思いきや、相変わらず日本人留学生は集まってきた。大賀典雄(後のCBS・ソニーレコード株式会社社長)、大町陽一郎、園田高弘、小澤征爾、若杉弘、長野羊奈子、宇治操など、路子の世話を受けた人は枚挙にいとまがない。彼らをさまざまな人に紹介し、演奏機会を作り、神田っ子気質そのままに飛び回ったが、ときにやりすぎの感があり、不和に終わったことも多かったようだ。
■53歳のとき日本で引退公演
路子はかねがね自身の引退公演を日本で行いたいと考えていたが、念願かなって1962(昭和37)年12月10日に日比谷公会堂、22日に大阪ABCホールで開催、大入り満員となった。
路子は53歳と思えないほど若く艶やかだった。
1969(昭和44)年、夫婦は不調を訴えていたデ・コーヴァの精密検査を受けに再来日。
診断結果は咽頭がんだったが、デ・コーヴァは声帯を取りたくないと手術を拒否した。それから4年後の1973(昭和48)年、路子に看取られながらデ・コーヴァは亡くなった。振り返れば32年も続いた夫婦生活だった。
■夫の死後に語った「美の秘訣」
翌年、路子は家を売り、ベルリンにより近い場所にアパートメントを借りた。室内を自分好みに大改装したがアパートの入り口は古くくすんでいた。常々そのことに路子は不満を述べていたが、実はその頃にドイツ政界の大物と恋愛関係にあり、目立たない方がいいという理由があったらしい。老いてなお路子健在なり、である。
1979(昭和54)年に、路子は思い切って高齢者向け高級レジデンスに引っ越した。ここで何不自由ない老後を送りつつも、1980(昭和55)年、1987(昭和62)年に日本に帰国、小澤征爾とテレビ出演をしたり、サントリーホールに出演したりした。そして翌年の1988(昭和63)年、波乱の人生の幕を閉じた。78歳だった。
晩年の路子は「あたしはデ・コーヴァの未亡人として、日本の女として、今まで通り生き甲斐のある生活を続けてゆくわよ。体が衰えないように一生懸命磨いて大事にして、溌剌(はつらつ)と生きて、ある日誰にも迷惑をかけずにサッと死ぬのよ」と語っていた。そして路子らしい一言を付け加えることも忘れなかった。
「美しさを保つためには、ときどき男と寝た方がいいんだけどね」。

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平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)

文筆家

文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。

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(文筆家 平山 亜佐子)
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