東京にはどら焼の名店が数多ある。浅草の〈亀十〉、東十条の〈黒松本舗草月〉、堀留町の〈清寿軒〉、〈うさぎや〉など、黒門町、日本橋、阿佐ヶ谷(現在は閉店)とあって、それぞれにご贔屓がついていた。
池波正太郎氏の『食卓の情景』(新潮文庫)には、戦前、株屋の小僧をしていた折に、仲買店の大将から「正どん、明日、〔うさぎや〕をたのむよ」と、お遣いを頼まれた思い出話が出てくる。人気のお店で、昼前には大抵売り切れてしまうから、出勤前に買いに行くのである。
私の祖母も黒門町の〈うさぎや〉が贔屓で、手土産に買って帰って、よく小遣いをもらった。
「おばあちゃん、これじゃどら焼代より多いよ」
というと、
「早起きして、わざわざ遠まわりして買ってきてくれたのだから」
と、嬉しそうに食べていた。
すっかり東京名物の感があるどら焼だが、どら焼が東京名物となったゆくたてには、やや複雑な背景がある。
■歴史を辿る「ぎんつば」→「きんつば」→「どらやき」
どら焼はなぜ、東京名物になり得たのだろうか?
「どら焼」の歴史を辿ろうとするとき、どうしても無視できないのが「きんつば」である。丸と四角、現在ではまったく形状を異にする両者であるが、その出発点はどうやら同じであるらしい。
「きんつば」ははじめ、京都もしくは大坂において「ぎんつば」として誕生した。文字通り「銀の鍔」の意である。有り体は上新粉の生地で餡を包んで焼いたもので、「鍔」というくらいだからはじめは丸い形状であったという(もちろん角鍔もあるけれど)。包んで……というほどしっかりした生地ではなかったかもしれない。
これが江戸に伝わると、江戸においては、高額貨幣は銀よりも金が通用していたので「金鍔」と言い換えられた。また、「江戸では米粉ではなく、小麦粉を用いたので金色っぽく見えた」という説もある。
その一方で江戸には「どらやき」というものが存在していた。
享和二(1802)年に書かれた『狂言雑話五大力』には「飩餅(どらやき)」という表記が見え、同じ年に発表された十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年)には「もちやのどらやきをやくごとき……」とある。
また、式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』〔文化六~十(1809~13)年刊〕には、
お川「あの面でやきもちぢやア銅羅燒だアな」
お山「お縁さんがお色白ときてゐるから、夫婦揃ったところはしら玉と金鍔燒をひとつ竹の皮に包んだといふもんだらう」
と見え、どら焼と焼き餅と金つばを混同し、同類の菓子を指していることが窺える。つまりこの頃の江戸のどら焼は、大福を焼いたような、「餡入り焼き餅」だったのではないかと思しいのだ。
それからおよそ20年後に著された江戸風俗のエンサイクロペディア『嬉遊笑覧』(文政十三・1830年)には、「今のどら焼は又金鐔やきともいふ、これ麩の焼と銀鐔を取まぜて作りたるものなり」とあり、この頃になると小麦粉生地で餡を包んで焼いたきんつば状の菓子を「どらやき」といっていたらしいことが窺える。同書によると、大きいものをどら焼、小さいものを金つばと呼び分けていたという。
■江戸が「武士の都」であったからこそ、銅鑼が使われた
「どらやき」とは、つまり銅鑼で焼いたもの、という意味だろう。
赤穂浪士が吉良邸に討ち入る際に、山鹿流の陣太鼓を鳴らした……というのは、お芝居の創作だ。事件後、赤穂浪士は何軒かの大名にお預けとなるが、そこでの持ち物検査の記録に陣太鼓は出てこない。
太鼓にせよ、銅鑼にせよ、鉦にせよ、戦場において軍団に退き引きの合図をおくる道具である。ことに鉄砲が普及してからは、鉄砲玉で革が破れては用をなさないから、銅鑼や鉦を使うようになった。したがって、泰平の江戸時代においても、佐官級の侍の家には、銅鑼や鉦があったのだ。
ここからはやや妄想になるが、江戸も中期をすぎてくると、武家は等しく貧乏になっていく。先祖伝来のお扶持はそのままなのに、物価ばかりがあがっていくからだ。そこで致し方なく、武具甲冑のたぐいを売りに出す。当然、銅鑼や鉦も売りに出る。
この投げ売りの銅鑼や鉦を用いて、大福を焼き餅にしたのが、どら焼のはじまりではなかっただろうか。「鉦」の直径は、ちょうど現在のどら焼くらいだ。その後、餅菓子から、餡に小麦の皮を着せたような菓子へと変化し、現在のどら焼へと繋がる。
どら焼は現在でも基本的に熱伝導率の高い銅板で焼くから、銅製の銅鑼や鉦は、もってこいの道具だっただろう。
あるいは「銅鑼を調理器具になど使用するだろうか?」という異見があるかもしれない。これについては、京都の笹屋伊織の五代目が、東寺からの依頼で寺の銅鑼を鉄板代わりにして小麦粉の皮を焼き、こし餡を巻いて筒型にした「どらやき」を調整した、という幕末の事実がある。今でもこのどらやきは、毎月21日東寺の縁日の前後3日間に限って販売されている。
■生地の気泡で解る、手焼きと機械焼き
明治初年に、きんつばとどら焼は、明確に枝分かれする。
粒餡を寒天でかため、小麦の生地を纏わせて焼いたものが「きんつば」になり、卵と砂糖を用いた2枚の小麦粉生地で餡を挟んだものを、「どら焼」と呼ぶようになったのである。
まして明治維新のご時世である。タダでさえインフレ貧乏だったのに、俸禄まで失った武士たちの多くが、先祖伝来の骨董品を売り払った。結局それらは二束三文で買い叩かれ、市中へと流れた。そしてそれらは、どら焼用の調理器具となった……こうして東京は、元々武士の都「武都」であったゆえんから、多くの名物どら焼を生ずる街となったのである。
ところで、大正十四(1925)年に発行された『和洋菓子製造大鑑』(東洋製菓新聞社)には、「銅羅燒」生地の原料として、
砂糖 五百匁
米利堅粉(めりけんこ=小麦粉) 五百匁
並味噌 五盃
玉子 五個
水 二升
と、あることから、生地に味噌を練り込んだバージョンもあったことが窺える。試しに再現したことがあるが、江戸風の甘味噌を用いると、江戸っ子好みの甘じょっぱい生地になっつて、なかなかオツな味だった。
熱伝導率の高い道具で焼いたか否かは、生地を割るとよく解る。フライパンで焼くパンケーキの気泡は粒状にフワフワになるが、銅板で焼いた生地は、気泡が貝柱のようにまっすぐに立ちあがるのだ。
ちなみに、気泡がすべて縦にあがっているものは、コンベアの流れ作業でできあがる機械焼き。手焼きの場合は一度ひっくり返すので、縦の気泡の真ん中にひとすじ層ができる。それが、手焼きと機械焼き見分けるポイントである。
■どら焼を手土産に平謝りすれば、大抵の失敗は許される⁉
もうこれは、ひと昔……否、かれこれふた昔以上前の常識かもしれないけれど、仕事上、かなり大きな失敗をしてしまった時、相手先が「東京の人」ならば、最悪を免れる方策があった。
「浅草の亀十のどら焼を手土産に、平謝りする」のである。
今はもう少し手に入りやすくなったけれど、その頃の〈亀十〉のどら焼ときたら、まあ、手に入りづらかった。開店を見計らって行っても、すでに売り切れている。なにせ、朝早くから行列で待ち構えて、ずらりとお客が並んでいるのだから。
ゆえに、〈亀十〉のどら焼を持参したということは、失敗を悔やんで夜も眠れず、居ても立ってもおられずに、朝早くから浅草に行って、開店前の〈亀十〉に並んで、競争率の高いどら焼を手に入れ、会社がはじまる朝一で謝りに来た――ということになる。
東京びとであれば、〈亀十〉のありさまを知っているから、その誠意が解る。解ったからには、「まあ、今回は許そう」ということになるわけである。昔の東京の「上に立つ人」には、そういう度量があった。あるいは東京生まれでなくとも、そういう背景を知っている、配慮ができる……というところが、都会人っぽくてカッコよかったのかもしれない。なにも、三代続いているばかりが江戸っ子ではないのだ。
そう、謝罪に行くときは、よくよく相手先のご贔屓を知っておく必要もあった。東京には〈亀十〉の他にも名物のどら焼があまたあるから、「あすこの部長は黒門町の〈うさぎや〉がお好みだよ。どら焼のほかにうさぎ饅頭も入れておきナ」なんて、先輩や親切な上役が教えてくれたものだ。
どら焼は、観光名物ではなく、東京に住み暮らす人々にしっかりと根付いた「生活の中の名物」だったのである。
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髙山 宗東(たかやま・むねはる)
近世史研究家、有職故実家
歴史考証家、ワインコラムニスト、イラストレーター、有職点前(中世風茶礼)家元。不肖庵 髙山式部源宗東。1973年、群馬県生まれ。
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(近世史研究家、有職故実家 髙山 宗東)

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