NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、豊臣秀吉と弟の秀長をモデルにしている。なぜ豊臣政権は、長く続かなかったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献を基に史実に迫る――。
■天下統一の1年後に“崩壊”が始まった
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、NHKの公式紹介を借りると、「熱い兄弟が夢と希望を胸に突っ走る奇跡の下剋上サクセスストーリー」だ。小一郎(仲野太賀)と藤吉郎(池松壮亮)の兄弟がどんな苦難を乗り越えて天下取りを果たすのか、毎週日曜日が楽しみだ。
しかし、我々は既に物語の結末を知っている。
1590年、小田原征伐を終えたことで秀吉の天下取りは、ほぼ完了する。ここまでは大成功だ。ところが、その翌年には秀長が死去。成功から崩壊開始まで、わずか1年である。
その後は秀吉の老害が炸裂する時代に突入する。
1592年には誰も止められないまま朝鮮出兵を開始。その渦中の1595年には後継者だったはずの甥・秀次を「やっぱりお前じゃなくて実子の秀頼ね」と粛清した挙げ句に1598年に死去。
その後も秀頼を後継者とする政権は安定せず、秀吉の死からわずか2年後の1600年には関ヶ原の戦いで実質的に終了。
1603年には徳川家康が江戸幕府を開き、1615年には大坂夏の陣で大坂城は落城……。
どんなに長く見積もっても天下統一から滅亡まで25年。秀長死後で数えれば、わずか24年。だいたい、天下統一のサクセスを1年も味わってない秀長が悲惨すぎる。
■短命の理由は「兄弟経営」だったから
この感覚を筆者は既に味わっている。原泰久の漫画『キングダム』だ。始皇帝と、それを支えた武将・李信を主人公とする物語。2006年の連載開始以来、ようやく韓が滅亡したところだが、この後、秦は紀元前221年、斉を滅ぼして中国統一を達成。ところが滅亡は紀元前206年。統一からわずか15年。始皇帝の死後は、たったの3年で瓦解している。
とにかく歴史とは残酷なもの。
努力や友情でようやく掴んだ勝利も瞬く間に瓦解してしまう。なんともやりきれない。
さて、豊臣政権が続かなかった理由として、よく「秀長の死」が挙げられる。確かにカリスマ秀吉を支えてコントロールできる唯一の存在を失ったことは大きい。だが、それだけでは説明として不十分だ。
実のところ、豊臣政権はそもそも経営体制が存在していなかったのである。いや、正確にいえば「秀吉と秀長の二人が全部やる」というのが経営体制だった。制度も、システムも、何もない。ただの兄弟経営である。
そうなってしまったのには、兄弟に一つ致命的な弱点があったためだ。彼らは家臣団を、ゼロから集めなければならなかった。実のところ、これは組織論として極めて深刻な問題である。

例えば織田信長の場合、父・信秀以来の家臣団が存在する。信秀死後には、ほかの兄弟を支持して軋轢を起こしたり、裏切る者もいたが、「織田家に数代仕えてきた」という絶対的忠誠の核がベースにあった。
■秀長の家臣団には「直臣」と「秀吉の直臣」がいた
歴史学者・黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』(KADOKAWA、2025年)では、秀長家臣団の構成過程を検討している。そもそも秀長は、秀吉と共に信長に仕え馬廻に組み込まれている。その後1575年頃から秀吉の与力に組み込まれ、秀吉の領地である近江長浜で所領を与えられるようになったと考えられている。
つまり秀長は、秀吉の部下として独立した軍事指揮権を与えられたわけだが、問題はここからだ。秀長が率いる軍勢を構成する家臣たちは、どこから来たのか。
まず、秀長はここから必死に採用を始めている。代表格は織田信澄のところから引き抜いた、藤堂高虎である。ほかにも、所領を得た秀長は近江近辺で、様々な家臣を得ている。
大きな変化は、本能寺の変後である。但馬一国と丹波福知山を領国とした秀長は家臣団も増えたが、秀吉の直臣から転じた者も多く見られるようになる。

黒田によれば、秀長の家臣団には秀長の直臣と、秀吉の直臣の両方が存在していたとされる。黒田は、事例を次のように記している。
典型的なのは、大和宇多郡を所領とした伊藤祐時、次いで加藤光泰である。大和は秀長の領国ではあったが、それらの所領は、秀吉から直接に与えられたものであった。それ以後、伊藤と加藤は秀長の重臣として存在したものの、所領は、秀長から与えられたのではなく、その上位者にして政権主宰者であった秀吉から与えられたものであった。
■“二重の指揮系統”は混乱を招く
これは普通にやりにくい。つまり、並んだ家臣の中の雇い主がはっきりわかれている。
・秀長の直臣:秀長が直接採用し、秀長から所領をもらった家臣

・秀吉の直臣:形式上は秀長配下だが、所領は秀吉から直接与えられた家臣
伊藤祐時も加藤光泰も、大和という「秀長の領国」で所領を持っているのに、その所領を与えたのは秀長ではなく秀吉なのである。
現代企業で例えるなら、こうだ。支社長は秀長。だが、その支社内に「本社の秀吉社長から直接辞令をもらい、本社人事部付きの社員」が混在している。
支社からみれば、これはやりづらい。
秀長が彼らに命令を出しても、「いや、それは本社の秀吉社長の方針と違うんですけど」といわれたら、どうしようもない。なぜなら……
・形式上は秀長の部下

・だが給料(所領)は秀吉が払っている

・人事権も秀吉が握っている

・おそらく忠誠は秀吉に向いている
だが、秀吉も秀長も、これで回ると本気で思っていたはずだ。だって「兄弟でサクセスしようぜ!」で、ここまで来たんだから。
秀吉:「小一郎、お前に大和任せるわ。あと伊藤と加藤も置いとくから」

秀長:「おう、任せとけ」
■秀吉は“カリスマ経営者”
信長の配下として限られた領地で回しているうちはこれで成功していた。なぜなら秀吉は、典型的なカリスマタイプの経営者だからだ。
ビジョンはある。決断は早い。行動力もある。そうなると、心酔して付いてくるヤツも増える。噂が伝説となって馳せ参じる者も増えてくる……。
しかし、カリスマタイプは例外なくめちゃくちゃ気分で動く。
例えば『武功夜話』に登場する尾藤知宣である。『武功夜話』そのものが史料価値が怪しいのだが、知宣は信長が美濃を攻略した際に、秀吉が築いた墨俣一夜城時代から仕えていた古参の家臣とされる。ところが、
九州征伐における失態が原因で追放。後、小田原征伐後に坊主にして詫びに現れたが、手討ちにされたとも伝わる。
これに限らず、秀吉は賞罰のバランスが悪い。例えば蜂須賀家政である。父・小六の代からの腹心で、朝鮮出兵では加藤清正らを救援する武功を挙げた。ところが、軍目付の報告を鵜呑みにした秀吉は「戦わなかった」と激怒。領地没収の処分を下した。実際には戦っていたのに、である。
かと思えば、宮下英樹の漫画『センゴク』で知名度が増した仙石秀久は、同じ九州征伐の戸次川の戦い(1587年)で島津勢に敗れる大失態を犯して改易。しかし、小田原征伐に馳せ参じたことで、小諸5万石の大名として復帰を許している。
■“秀吉の気分次第”で処分が真逆に…
その小田原征伐で、伊達政宗は2カ月も遅参した。本来なら改易もありうる。ところが、千利休に茶を習いたいと申し出て秀吉を感嘆させると、会津は没収されたものの、本領72万石は安堵された(白装束で現れたという通説は史料的裏付けなし)。
明確な基準などない。同じ失態でも、謝り方やパフォーマンス次第で処分が真逆になる。すべては秀吉の気分次第というわけだ。こうした気分屋なカリスマタイプの経営者は、中小企業でナンバー2がいる場合には、とてつもなくうまく回る。
秀長は、まさにそのナンバー2だった。しかも、兄弟だからより話は早い。なので、家臣団がごっちゃになっていてもどうにかなると思ったのだ。
秀吉が気分で暴走しそうになったら、秀長が「兄貴、それはちょっと待て」と止める。秀長の判断に迷いがあれば、秀吉に「どうする?」と聞けばいい。家臣たちも、「秀吉様の意向」と「秀長様の指示」が食い違うことなんて想定していない。だから、「指揮系統が二重? 人事権が曖昧? そんなの関係ないよ」という感覚だったのだろう。
■「経験の蓄積」「ノウハウの伝授」がない構造
だが、二人は決定的な勘違いをしていた。自分たちの「会社」が、もはや中小企業ではなくなっていることに、気づいていなかったのだ。
近江長浜時代の規模なら、「社長と専務が全部決める」で回る。朝、秀吉と秀長が顔を合わせて、立ち話で打ち合わせすれば十分。現場もそれで動ける。
だが天下統一後、豊臣政権の規模はどうなったか。もう別次元の組織である。町工場と、トヨタ自動車くらい違う。しかも、豊臣政権の場合、もっとヤバい問題があった。「この人、ウチの社員なの?」というレベルの人間まで、組織に組み込んでいたのである。
典型例が徳川家康だ。家康は、小牧・長久手の戦いで秀吉と互角に戦った独立勢力である。その後、秀吉に臣従したとされるが、実態は極めて曖昧だ。形式的に忠誠を誓っているだけで、軍事もなにもかも保持したままである。
もちろん、天下統一と共に規模に応じて組織改編も考えただろうが、秀吉と秀長のマネジメント手法は、長浜時代と根本的に何も変わっていなかったといってよい。
なぜなら、一代で成り上がったために、経験の蓄積もノウハウの伝授もないからだ。これは、秀吉個人の能力の問題ではない。構造的な問題である。
■豊臣政権になかった「組織知」
信長の織田家には、父・信秀以来の家臣団がいた。彼らは「織田家の経営ノウハウ」を持っていた。尾張一国を治める方法、家臣をまとめる方法、領地経営の作法……それらは代々引き継がれてきた組織知だ。家康の徳川家はもっと強固だ。三河以来の譜代には、「松平家(徳川家)のやり方」が骨の髄まで染み込んでいる。
だが、秀吉にはそれがない。全部、自分たちで試行錯誤しながら作るしかなかった。
長浜12万石を治めるノウハウは、試行錯誤で身につけた。播磨も但馬も、何とかやった。だが、それは「中小企業の経営ノウハウ」である。それを、いきなり「全国2000万石の巨大企業グループ」に適用しようとしても、うまくいくわけがない。
しかも、そのことに気づくための「参照モデル」すらない。朝廷から官位をもらったのも、一種の迷走とみることもできる。ほら、ベンチャー企業の経営者が大学で非常勤講師をやったり、大学研究室で「共同研究をやってます」とうたって箔を付けようとするのと同じだ。
織田家や徳川家なら、先代の失敗例や成功例から学べる。だが秀吉には比較対象がないのだ。「こんなもんだろう」という感覚で、ずっと来てしまった。
■夢と希望で突っ走っても、制度がなければ続かない
典型的なのが、秀吉死後の五大老・五奉行である。これで秀頼を盛り立ててうまく回ると、当時の人だって誰も思わなかっただろう。
まず、五大老のメンバーをみれば失敗は一目瞭然である。
徳川家康は250万石の独立大名で、秀吉と互角に戦った相手。前田利家は83万石で元は織田家臣、秀吉の同僚だ。毛利輝元は120万石の中国地方の大大名で元は敵対勢力。上杉景勝は120万石の越後の大名で元は独立勢力。宇喜多秀家は57万石で秀吉の養女を娶ったが、やはり元は独立勢力。
この5人で「6歳の秀頼様を支えましょう」って、無理だろう。
しかも五奉行も酷い。浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以。確かに秀吉の側近ではあるが、彼らに大大名たちを統制する力は……ない。
現代企業で例えるなら、こうだ。
「創業社長が急死しました。後継者は小学1年生の息子です。取締役会のメンバーは、ライバル企業の社長や提携先企業の会長です。あと、うちの部長クラスを何人か入れて、彼らに取締役会を仕切らせます」
そんなわけあるか‼
案の定、五大老のバランサー役だった前田利家が死んだ翌年の1600年、徳川家康が動き出し、関ヶ原の戦いが勃発。秀吉死後わずか2年で、この茶番は終わった。
熱い兄弟が夢と希望を胸に突っ走っても、制度がなければ続かない。情熱だけではどうにもならないのが歴史の真実だ。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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