ソニーグループは1月20日、かつての主力だったテレビ事業を分離すると発表した。日本メーカーはどのような方向に進むのか。
日本工業大学大学院技術経営研究科の田中道昭教授は「日本の製造業は大きな危機に直面している。背景にあるのが、『試作』を担ってきたものづくり中小企業の衰退だ」という――。
■ものづくりの「静かな危機」
第1章:静かに進む「試作の消失」という構造的危機
日本の製造業はいま、外からは見えにくいが、内側から確実に進行している危機に直面している。その正体は、試作を担ってきたものづくり中小企業の衰退である。
この問題は、新聞の見出しになりにくい。倒産件数が急増しているわけでもなければ、象徴的な巨大工場が閉鎖されるわけでもない。むしろ、熟練者が一人現場を離れ、受けられる仕事が少しずつ減り、次の世代が入らないまま、工場や作業場が「音もなく縮小していく」ことで進行する。そのため、社会全体として危機が共有されにくく、問題が可視化されたときには、すでに後戻りが難しい段階に入っていることが少なくない。
しかし、試作という工程が日本の製造業において果たしてきた役割を冷静に振り返ると、この問題が単なる中小企業の経営課題ではないことは明らかになる。試作とは、設計図という抽象的な情報を、現実のモノへと変換する工程であり、単に「形にする」作業ではない。実際には、失敗を繰り返しながら、品質、量産性、コスト、さらには安全性までを同時に磨き込んでいく、日本の製造業にとっての中核的な学習プロセスであった。
■「メイド・イン・ジャパン」を支えてきたもの
日本製品が長年にわたって「高品質」「高信頼」と評価されてきた背景には、この試作段階での徹底した作り込みがあった。
設計段階では見えなかった問題点を現場で洗い出し、量産に入る前に潰し込む。その地道な積み重ねこそが、日本の製造業の競争力を支えてきたのである。
そして、その試作を現場で実際に担ってきたのが、旋盤、フライス、プレス、鋳造、熱処理といった汎用的基盤加工技術を持つ中小企業群である。製品に社名が刻まれることはほとんどなく、経営者や技術者が脚光を浴びることも少ない。しかし、大手メーカーの開発力や量産力は、こうした企業の存在なくしては成立しなかったと言ってよい。
ところが今、その基盤が確実に痩せ細っている。後継者不在、技能継承の断絶、収益性の低下といった要因が重なり、試作という「産業の下層インフラ」が静かに崩れ始めている。この流れを放置すれば、日本の製造業は「作ることはできるが、進化できない」産業へと変質していくことになる。
問題はすでに将来の話ではない。試作の消失は、開発スピードの低下や品質問題として、徐々に表面化し始めている。いま問われているのは、この変化を「避けられない構造変化」として受け入れるのか、それとも日本の製造業の根幹に関わる問題として正面から向き合うのか、という選択である。
■努力不足ではなく「構造的な帰結」
第2章:なぜ試作を担うものづくり中小企業は衰退してきたのか
試作を担うものづくり中小企業の衰退は、しばしば「後継者がいないから」「中小企業の経営努力が足りないから」といった言葉で説明されがちである。
しかし、こうした説明は問題の核心を捉えていない。現実には、衰退は個々の経営判断の失敗ではなく、むしろ合理的に見える選択が長年積み重なった結果として生じた、構造的な帰結である。
第一に指摘すべきは、試作という仕事の本質そのものが、極めて不確実性の高い営みであるという点だ。試作の現場では、仕様は頻繁に変わり、設計変更ややり直しは前提となる。完成形が事前に明確に定まっている量産工程とは異なり、「作ってみなければわからない」という不確実性を内包している。この不確実性こそが、本来は試作の価値であり、技術的な学習や改善を生む源泉であった。
ところが現実の取引では、この不確実性が十分に評価されてこなかった。試作はしばしば量産品と同じ延長線上で扱われ、同様の契約慣行や価格感覚が適用されてきた。その結果、仕様変更に伴う追加工数や、失敗から得られる学習のためのコストは、暗黙のうちに中小企業側が引き受ける形となり、現場には疲弊だけが蓄積していった。試作が「価値創造の工程」ではなく、「割に合わない作業」として認識されるようになった背景には、この構造がある。
■大企業の「合理化」が招いた副作用
第二の要因は、大手企業側の合理化と外部化の進展である。高度成長期以降、大手製造業は固定費削減や効率化を進める中で、試作機能を徐々に社外へと委ねていった。
これは経営判断としては合理的であり、短期的には収益性の改善にも寄与した。その一方で、試作という基盤機能を支える人材育成や技能継承への関与は、次第に薄れていった。
結果として、大手企業は試作中小企業に強く依存しながらも、その持続性や将来像については十分な責任を引き受けないという関係が固定化した。発注はあっても、人材育成や設備投資、技能継承に対する長期的なコミットメントは弱い。こうした非対称な関係が続いたことで、試作を担う中小企業は「使われてはいるが、育てられてはいない」存在となっていったのである。
第三に、技術そのものの性質が大きく変わった点を見逃すことはできない。製品はもはや単なる機械ではなく、エレクトロニクス、ソフトウェア、データと一体化した複合的なシステムへと進化した。それに伴い、試作現場にも従来以上に広い視野と高度な理解が求められるようになった。加工技術だけでなく、製品全体の構造や機能を俯瞰する力が不可欠になっている。
しかし中小企業にとって、この変化に対応するための教育投資やIT投資は容易ではない。日々の納期対応に追われる中で、新たな知識を学び、組織としてアップデートする余裕を確保することは難しい。結果として、変化に対応できた一部の企業と、そうでない多くの企業との間に差が生まれ、その差が時間とともに拡大していった。

■「見て覚える」技能継承の限界
さらに深刻なのは、技能継承の問題である。試作現場の技能は、マニュアル化しにくい暗黙知に支えられてきた。長年にわたり「背中を見て覚える」形で受け継がれてきたが、若手人材が減少し、熟練者が高齢化する中で、この継承モデルそのものが機能しなくなりつつある。これは努力の問題ではなく、社会構造の変化によって時間切れを迎えた結果だと言える。
こうして見ていくと、試作を担うものづくり中小企業の衰退は、誰か一人の判断ミスによって引き起こされたものではない。合理性を追求した結果として生まれた取引慣行、外部化の進展、技術の複合化、そして人材構造の変化が重なり合い、構造的に避けがたい形で進行してきた現象である。
だからこそ、この問題は自然に解消されることはない。市場原理に任せていれば回復する、という性質のものではないのである。この構造を正しく認識しない限り、次章で述べるような影響は、より深刻な形で表面化していくことになる。
■試作の衰退がもたらす「本当の影響」
第3章:衰退が進んだ先で、日本の製造業が直面する現実
試作の衰退がもたらす影響は、中小企業の存続問題にとどまらない。むしろ本当の影響は、大手企業の開発力、ひいては日本の製造業全体の競争力に表れる。しかもその影響は、短期的な業績悪化として一気に表面化するのではなく、時間をかけて企業の体質を変え、気づいたときには取り返しのつかない差となって表れる。

まず顕在化するのは、開発スピードの低下である。試作の受け皿が減れば、設計が完了してもモノが上がらない状態が常態化する。試作待ちが発生し、設計変更の反映に時間がかかり、結果として市場投入が遅れる。だが、より深刻なのは単なる遅延ではない。試作のやり直しが難しいという前提が組織内で共有されることで、「一度で決めなければならない」という空気が強まり、設計段階での挑戦そのものが抑制されていく点にある。
この変化は静かだが、確実に効いてくる。設計部門は次第に、技術的に尖った案や構造的に新しい発想を避け、無難で過去実績のある解に寄っていく。表面上はリスク管理が徹底されたように見えるが、実際には試行錯誤を通じた学習の機会が減り、技術的な飛躍が起こりにくくなる。試作が弱るということは、挑戦の余白が失われるということでもある。
■「理論上は正しい」が現場で作れない
設計の質にも、同様の影響が及ぶ。設計とは本来、現場で試され、失敗を通じて鍛えられる営みである。図面やシミュレーションの段階では問題が見えなくても、実際に加工し、組み立て、動かす過程で初めて明らかになる課題は少なくない。
ところが試作現場が弱体化すると、設計は図面とデジタルデータの中で完結しがちになる。その結果、「理論的には正しいが、現場では作れない」「量産工程で再現できない」設計が増えていく。
こうした歪みは、量産段階で一気に表面化する。試作段階で潰せなかった問題は、量産で爆発する。歩留まりが上がらない、不良原因が特定できない、工程条件が属人化する――これらはすべて、試作での学習不足が引き金となって起こる現象である。量産段階のトラブルは、試作段階の失敗とは比較にならないコストと時間を奪い、場合によってはブランド価値や顧客信頼そのものを損なう。
■成熟産業として「静かに衰退」するのか
さらに、試作の衰退は新規事業の創出にも深刻な影響を及ぼす。近年、多くの企業が「小さく作って、早く学ぶ」ことの重要性を認識している。しかし、試作の受け皿がなければ、このプロセスは成立しない。大手工場は小ロットや頻繁な仕様変更に向かず、試作中小が減れば、アイデアを実際の製品へと落とし込む場そのものが失われる。結果として、企画やPoC(Proof of Concept、概念実証)は進むが、製品化に至らない案件が増え、組織内に徒労感が蓄積していく。
コスト面でも逆説が生じる。試作機能を外部化し、合理化を進めてきたはずの企業ほど、量産段階でのトラブルや内製回帰による固定費増、残存外注先への集中による単価上昇といった形で、結果的にコスト構造が悪化する。短期的な効率化が、中長期的な非効率を生む構図である。
最も深刻なのは、こうした変化が日本の製造業から「学習する力」を奪っていく点だ。試作とは、産業全体が失敗を許容し、そこから次の成功を生み出すための学習装置である。その装置が弱体化すれば、改良のスピードは落ち、差別化は難しくなり、最終的には価格競争に巻き込まれる。これは、製造業が成熟産業として静かに衰退していく典型的なパターンでもある。
試作の衰退が意味するのは、単なる工程の縮小ではない。日本の製造業が、未来に向かって学び続けられるかどうか、その根幹が問われているのである。
■勘と経験を「再現可能な知」へ
第4章:フィジカルAIという現実的な突破口
ここまで見てきたように、試作を担うものづくり中小企業の衰退は、日本の製造業から学習能力そのものを奪いかねない深刻な問題である。では、この構造的な危機に対して、現実的な解決策は存在するのだろうか。結論から言えば、ある。その中核に位置づけられるのが、フィジカルAIである。
フィジカルAIとは、チャットボットや事務作業の自動化といった「デジタル空間だけで完結するAI」ではない。切削中の振動や音、プレス加工時の応力、鋳造時の湯流れ、熱処理時の温度分布といった、物理世界で起きている現象をデータとして捉え、その挙動を学習し、人間の判断と行為を高度化するAIである。言い換えれば、これまで熟練者の勘や経験に依存してきた領域を、データと学習によって「再現可能な知」へと変換する技術だ。
■職人の「否定」ではなく「拡張」
試作や基盤加工の現場は、フィジカルAIにとって理想的な適用領域である。なぜなら、条件が多変量で、材料や形状、加工条件のわずかな違いが結果に大きく影響し、しかも失敗が日常的に発生するからだ。人間の頭では同時に最適化しきれない要素が絡み合う一方で、AIにとっては学習すべきデータが豊富に存在する環境でもある。これまで「経験を積まなければわからない」とされてきた領域こそ、フィジカルAIが力を発揮できる。
ここで重要なのは、フィジカルAIが職人を置き換える技術ではないという点だ。むしろ、その逆である。熟練者が長年の経験の中で身につけてきた判断基準や条件出しの勘所をデータとして可視化し、若手や別の現場でも再現できる形にする。フィジカルAIは、職人の価値を否定するのではなく、時間と世代を超えて拡張する技術なのである。
また、フィジカルAIの導入は、省力化やコスト削減にとどまらない意味を持つ。試作回数の削減や条件出しの高速化は、確かに直接的な生産性向上につながる。しかしそれ以上に重要なのは、試作というプロセスそのものが知的に高度化される点だ。どの条件が結果に影響したのか、なぜその不良が起きたのかが可視化されれば、試作は単なる「手探りの作業」から、再現性のある学習プロセスへと変わる。
■現場で学び、進化する力を「再起動」
さらに、フィジカルAIは試作と量産の間に横たわる断絶を埋める役割も果たす。試作段階で蓄積されたデータや知見が、そのまま量産工程の条件設計や品質管理に活かされるようになれば、「試作でできたが量産で再現できない」という典型的な問題は大きく減る。これは、大手企業にとっても極めて大きな価値を持つ。
なぜ今、この変革が可能なのか。その理由は、技術的な前提条件がすでに整っているからである。センサーは低価格化し、加工機や設備に容易に組み込めるようになった。エッジAIによって現場でリアルタイムに判断を下すことも可能になり、クラウドやデジタルツインとの連携も現実的な選択肢となっている。足りないのは技術ではなく、「どこに使うか」という視点である。
そして、その使いどころこそが、試作・基盤加工という領域なのだ。ここをフィジカルAIによってアップデートすることは、単なる現場改善ではない。日本の製造業が本来持っていた「現場で学び、進化し続ける力」を、21世紀の技術によって再起動する試みなのである。
【コラム】なぜ「汎用的基盤加工技術」が試作の成否を決めるのか
組立製品(試作品)の競争力は、設計思想やソフトウェアによって決まると思われがちだ。しかし実際には、その成否の大半は、設計と現実の間にある「汎用的基盤加工技術」によって決まっている。試作段階で起きる成否の分かれ目は、図面の優劣ではなく、加工技術をどう選び、どう組み合わせ、どう判断したかにある。
提示した図は、組立製品(試作品)がどのような要素技術の階層によって成立しているかを示している(図表1)。最上層にはソフト系があり、プログラムやデータが製品の知能化やユーザー体験を担う。その下にエレクトロニクス系があり、電子部品や制御回路、アクチュエータによって機能と応答が実現される。そして最下層に位置するのがメカニクス系である。剛体やフレーム、金型といった骨格、機構・仕組み、締結や動力伝達、流体・密封といった機械要素が、製品の物理的成立条件を決定づける。
重要なのは、これら三層の要素技術が、右側に示された加工技術(汎用的基盤技術)によって初めて現実のモノとして成立するという点である。旋盤やフライスによる除去加工、板金・プレス・剪断といった塑性加工、放電加工やワイヤーカット、レーザー加工、鋳造・鍛造・ダイキャスト、さらには熱処理や表面処理。いずれも「汎用的」と呼ばれるが、試作段階では材料も形状も条件も確定しておらず、条件出しそのものが高度な技術判断となる。

■フィジカルAI時代に「最も大切なこと」
試作とは、単一の加工技術を適用する作業ではない。どの加工法を選び、どの順序で組み合わせ、どこで精度を追い込み、どこで妥協するのか。その一つひとつの判断が、組立製品としての成立性や、量産への移行可能性を左右する。つまり、汎用的基盤加工技術は「下請け的な作業」ではなく、製品価値を実質的に形づくる中核的な要素技術なのである。
本文で述べてきた通り、試作とは日本の製造業にとっての「学習装置」である。その学習が実際に起きている場所こそ、この汎用的基盤加工の現場だ。設計では見えなかった問題をあぶり出し、加工条件を変え、再試作を重ねることで、製品は現実に耐えうる形へと鍛え上げられてきた。試作を担うものづくり中小企業は、まさにこの領域で知を蓄積してきた存在である。
だからこそ、フィジカルAIが最初に向き合うべき対象も、この汎用的基盤加工技術の領域になる。加工条件や結果をデータとして捉え、次の判断へと還流させることで、試作は「手探りの作業」から、再現性のある知的な学習プロセスへと進化する。ここを押さえずにフィジカルAIを語ることは、現場を持たない空論に等しい。
そしてもう一つ重要なのは、これらの加工技術を理解し、組み合わせ、最終判断を下すのは人であるという点だ。汎用的基盤加工技術を軸に試作を成立させてきた知こそが、フィジカルAI時代において最も価値を持つ。この領域を読み解ける人材こそが、次章で述べる「ハイブリッド型ものづくり人材」の中核となるのである。

■最終的な成否を決めるのは「人」
第5章:人材をアップデートしなければ、変革は実現しない
フィジカルAIが試作・基盤加工という領域において現実的な突破口となり得ることは明らかになった。しかし、ここで一つ、はっきりと確認しておかなければならない。技術だけで現場は変わらない。この変革の成否を最終的に左右するのは、AIそのものではなく、それを使いこなす人材である。
これまでの試作現場では、加工技能や材料知識、経験に裏打ちされた勘、突発的なトラブルへの対応力といった能力が重視されてきた。それらは、日本の製造業が長年にわたって世界で評価されてきた理由そのものであり、決して否定されるべきものではない。むしろ、これからの変革は、こうした技能を土台として進めなければ成立しない。
しかし同時に、21世紀後半に向かう現在、試作・基盤加工の現場に求められる人材像は、確実に変化している。加工条件や結果を感覚だけで判断するのではなく、データとして捉え、そこから意味を読み取る力が必要になっている。AIやITを「よくわからないもの」として距離を置くのではなく、道具として使いこなし、自らの判断を補強する存在として位置づける力が求められるようになっている。
■単なる「職人」でも、「IT人材」でもない
さらに重要なのは、現場の人材が設計者やIT人材、さらには経営層とも共通言語で対話できることである。試作という工程は、設計と量産をつなぐ中間に位置している。ここで情報が断絶すれば、フィジカルAIも十分に機能しない。現場の判断がデータとして設計にフィードバックされ、量産工程へとつながっていく。その循環を成立させるためには、工程全体を俯瞰し、どこに課題があり、どこを改善すべきかを考えられる人材が不可欠になる。
言い換えれば、これから求められるのは、単なる「職人」でも「IT人材」でもない。技能、データ、システム思考を併せ持つハイブリッド型のものづくり人材である。この人材像は理想論ではない。フィジカルAIを実装する現場では、すでに必要不可欠な存在となりつつある。
ただし、こうした人材は自然には育たない。日々の納期対応に追われ、試行錯誤の余裕がない現場に任せきりにしていては、育成は進まない。意図的に学ぶ時間を確保し、失敗を許容し、現場と理論を往復できる仕組みを設計する必要がある。ここで決定的な役割を果たすのが、大学をはじめとする教育機関である。
■大学に求められる「新たな役割」とは
大学は、研究成果を発表する場である以前に、産業の未来を担う人材を育てる社会装置である。特に工学系やMOT(Management of Technology、技術経営)系の大学院は、技術と経営、現場と理論をつなぐ役割を本来担っている。フィジカルAI時代のものづくりにおいては、現場で起きている課題を抽象化し、再び現場に戻すことができる人材を育てることが求められる。
試作・基盤加工という領域は、これまで教育の中心から外れがちだった。しかし、この領域こそが日本の製造業の競争力を支えてきた中核であり、次世代に引き継ぐべき知の宝庫である。人材をアップデートするとは、現場を軽視することではない。むしろ、現場を再び「学びの中心」に据え直すことに他ならない。
フィジカルAI時代の変革は、設備投資やシステム導入だけでは完結しない。人材のアップデートなくして、試作・基盤加工の再生はあり得ない。そして、この人材こそが、次章で述べる社会全体の取り組みを支える基盤となるのである。
■「知のインフラ」として再定義する
最終章:この変革を進めるために
ここまで論じてきた試作を担うものづくり中小企業の衰退は、単なる一分野の問題ではない。日本の製造業が、これからも自ら学び、進化し続けられるかどうかという、産業の根幹に関わる問題である。だからこそ、この課題は市場原理に委ねて自然に解決することを期待してよい性質のものではない。明確な意志と役割分担をもって、社会全体で取り組む必要がある。
まず国に求められるのは、試作・基盤加工という領域を、補助金の対象としてではなく、日本の産業競争力を支える「知のインフラ」として位置づけ直すことである。設備更新や単発の支援策だけでは、構造的な問題は解消しない。人材育成、データの蓄積と共有、フィジカルAIの実装を前提とした中長期的な基盤設計が不可欠である。試作は研究開発の末端ではなく、日本の技術主権を支える中核的機能であるという認識が、政策の出発点にならなければならない。
■守るだけでは失われる「暗黙知」を残す
大企業にも、より踏み込んだ姿勢が求められる。これまで合理性の名の下に外部化してきた試作・基盤加工を、単なる発注先としてではなく、共に学び、共に進化するパートナーとして捉え直す必要がある。それは慈善や社会貢献ではなく、自社の開発力と競争力を守るための戦略的投資である。試作の現場で生まれる知見を、自社の設計や量産にどう接続するのか。その責任を、これからはより自覚的に引き受けるべき段階に来ている。
ものづくり中小企業自身にも、重要な役割がある。現場に蓄積されてきた暗黙知は、守るだけでは失われていく。フィジカルAIを活用し、加工条件や判断の背景をデータとして残し、次世代へ引き継ぐ努力が不可欠になる。試作・基盤加工を「代替可能な作業」から「知を生み出す工程」へと引き上げることができるかどうかが、中小企業の将来を左右する。
■試作を再び日本の「最強の武器」に
そして、これらをつなぐハブとして、大学の役割は決定的に重要である。大学は研究成果を生み出す場である以前に、産業の未来を担う人材を育てる社会装置である。理論と現場、技術と経営を往復できる人材を育てることなしに、フィジカルAI時代のものづくりは成立しない。特に、工学とMOTを架橋する教育機関には、現場の課題を抽象化し、再び現場に戻すという、本来の使命がある。
筆者自身、日本工業大学大学院でMOT教育に携わる立場として、この分野に強い使命感を抱いている。試作を担うものづくり中小企業が衰退すれば、日本の製造業は取り返しのつかない地点に入る。その現実を前に、大学としても、また一人の当事者としても、傍観者でいることはできない。フィジカルAIと製造DXを、現場の実装と人材育成に結びつける取り組みに、今後も継続的に関与していきたいと考えている。
フィジカルAIは、日本の強みを壊す技術ではない。むしろ、現場で試し、失敗し、そこから学び続けてきた日本のものづくりの力を、21世紀の技術によって再起動するための手段である。試作を再び日本の武器にし、ものづくり中小企業を次の時代の主役へと押し上げる。そのために、いまAIの力を使わなければならない理由は、これ以上なく明確だ。
この変革は、一朝一夕で完結するものではない。しかし、始めなければ何も変わらない。試作という現場から、日本の製造業を次の段階へと引き上げる。その覚悟と行動が、いま私たち一人ひとりに問われている。

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田中 道昭(たなか・みちあき)

日本工業大学大学院技術経営研究科教授、戦略コンサルタント

専門は企業・産業・技術・金融・経済・国際関係等の戦略分析。日米欧の金融機関にも長年勤務。主な著作に『GAFA×BATH』『2025年のデジタル資本主義』など。シカゴ大学MBA。テレビ東京WBSコメンテーター。テレビ朝日ワイドスクランブル月曜レギュラーコメンテーター。公正取引委員会独禁法懇話会メンバーなども兼務している。

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(日本工業大学大学院技術経営研究科教授、戦略コンサルタント 田中 道昭)
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