バブル崩壊後、日本人の実質賃金がほぼ上がらないのはなぜか。背景には、長らくベースアップが凍結されたことがあるという。
河野龍太郎、唐鎌大輔が書いた『世界経済の死角』よりその背景を読み解く――。
※本稿は、河野龍太郎、唐鎌大輔『世界経済の死角』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。
■あなたの給料が増えない本当の理由
【唐鎌大輔(みずほ銀行チーフマーケット・エコノミスト)】実質賃金低迷の背景に、企業部門の業績低迷があれば致し方なしとなりますが、現実は上場企業の好決算が継続的に報じられてきたと思います。ラフに言えば「稼ぎがないので賃上げできない」という言説は当てはまらないと、多くの日本人はなんとなく感じているのではないかと思います。
とすると、企業がいかに効率的に稼ぐかという「生産性」の議論よりも、儲かったお金を企業と労働者の間でいかに分け合うのかという「分配」の議論のほうが重要に思えます。
ドイツやフランスに生産性の上昇率で勝っても、実質賃金が上がらなかったわけですから、生産性向上の議論には自ずと限界があるように思います。真の問題は「分配」の在り方にある、ということでしょうか。
【河野龍太郎(BNPパリバ証券経済調査本部長・チーフエコノミスト)】はい。結局のところ、問題は「所得分配」にあるということですね。実は、私はこの10年あまり、日本の実質賃金が上がらないのは、生産性の問題ではなく、所得分配の問題だと主張してきました。
足元でインフレが続く中、国全体としては実質賃金は下がっていますが、それ以前は、長く横ばいが続いていました。そんな中で、長年同じ大企業で働いている人からは「賃金が増えない」とか「減った」という話はあまり聞かれませんでした。

ただ、念のために言っておくと、ここ2、3年に限って言えば、毎年の定期昇給を上回るインフレが続いたので、大企業に勤める人でも、最近は物価高で実質賃金が目減りしたと感じていたと思われます。
■日本特有の「メインバンク制」の影響
【唐鎌】正社員の数は以前より減ったとはいえ、全体の中ではまだ大きな割合を占めています。それにもかかわらず、国全体の賃金が伸び悩んでいるということは、正社員であっても、賃金の伸びが十分ではないということですね。なぜ、日本において名目賃金、ひいては実質賃金の伸びが冴えないのか。気になっている読者は多いと思います。
【河野】そうですね。なぜ日本の長期雇用制が定着し、なぜ今もそれが存続しているのかが、この話のポイントになると思います。ただ、正社員の数が以前に比べて減っているかと言われると、ここは意見が分かれると思います。
たしかに就職氷河期世代が就職する際は正社員の採用が絞り込まれ、同時に90年代以降は大学進学率が大きく上がって、皆が正社員になれたわけではないという部分もあります。
椅子取りゲームの参加者が増えたことで、椅子の数(正社員のポジション)が減ったように感じる人が多いのかもしれません。
歴史をさかのぼって整理すると、そもそも一つの企業で生涯勤め上げるという長期雇用制を可能にしていたのは、日本特有の「メインバンク制」が関係していました。
メインバンク制とは、大企業が複数の銀行の中から、主力の取引銀行を一つ、ないし二つ決めた上で、融資だけでなく、経営上の助言とか、監視も行ってもらう。
不況で経営が傾いたときには、再建支援や追加融資などを行ってもらうなど、いわばマンツーマンで面倒をみてもらう慣行のことです。
■不況が訪れれば、雇用が流動化すると予想
【河野】今もそうですが、戦後の日本では、安定的な企業経営の根幹に、長期雇用制を据えてきました。長期雇用を約束することで、イノベーションや人的資本の蓄積などを含めて、社員に継続的に努力してもらうという仕組みなのですが、そのような正社員を抱えることは、企業経営において大きな「固定費」が発生することを意味します。
アメリカでは不況が訪れると、倒産リスクを避けるため、正社員もおかまいなく一時解雇(レイオフ)しますが、日本ではメインバンクの支援があったため、不況期でも長期雇用制を継続することができたのです。
しかし、1997年末に銀行危機が訪れ、メインバンク制が崩壊しました。
経済制度研究の大家であった故・青木昌彦先生は、「メインバンク制がなくなれば、日本の長期雇用制も崩れる」と予想していました。メインバンク制の崩壊で、日本もアメリカと同じように、不況が訪れれば雇用リストラが一般化し、転職も一般的になって、雇用が流動的な社会に移行すると予想されていたのです。
■「非正規雇用への依存」と「正社員のベアの凍結」
【唐鎌】ところが現実には、予想とは真逆のことが起きたわけですね。
【河野】そう、1990年代末の金融危機によってメインバンク制が終焉を迎えた後、多くの日本の大企業は、それでも長期雇用制を維持する道を選んだのです。
他の制度との関係もあって、雇用制度は簡単に変えられるものでもないから、そうした選択も当然だったと思います。
メインバンクの後ろ盾がなくなった後も、正社員を安定して雇い続けるためには、企業は資金繰りを安定させる必要があります。要は自己資本を厚くするということですが、そのために利益を捻出すべく、大企業の経営者たちは2つの手段を取りました。

一つが人件費の一部を「変動費」に変換するために「非正規雇用への依存」を強めたことです。もう一つが「正社員のベア(ベースアップ/基本給の引き上げ)の凍結」です。
【唐鎌】なるほど。前者の「非正規雇用への依存」は社会問題になった一方、後者の「正社員のベアの凍結」は、やや諦めをもって放置されてきた印象があります。
あまりにも長くゼロベアだったので、そうなったのでしょうが……。悲しいかな、私も若い頃は、あまり関心を抱きませんでした。
■定期昇給で毎年2%弱賃金が上昇
【河野】ベアが注目されなかったのは、理由があります。多くの読者もご存じだと思いますが、念のために説明しておくと、大企業を中心に長期雇用制の中にいる社員の賃金が上がる仕組みとして「ベア(ベースアップ)」と「定期昇給(定昇/年齢や勤続年数に応じた昇給)」の2つがあります。
金融危機のあった1990年代末から2022年頃までの四半世紀、ベアは凍結されてゼロベアが続き、賃上げというと、長い間、定期昇給のみとなっていました。
それでも、日本の長期雇用制の下にいる正社員は、定期昇給により、賃金が毎年2%弱上がっていました。属人ベースで賃金は増えていたわけですが、企業全体ではどうか。
会社の年齢別の人員構成は多少の歪みがありますが、ピラミッド型に近い形になっていますよね。

定期昇給によって、社員一人ひとりの給料は毎年およそ2%ずつ上がっていきますが、実際には、給料の高い年配の社員が退職し、その代わりに一番給料の低い新卒社員が入ってくるため、企業全体としての人件費の総額はほとんど変わらないのです。
実際にマクロ統計で見ても、1998年頃から2021年頃まで、企業部門の人件費の総計はおおむね横ばいでした(図表1)。ただ、属人ベースでは、先ほどからお話ししているように、定期昇給によって毎年2%弱、賃金が上がっているので、25年も経つと、賃金は1.7倍くらいに増えることになります。
■「自分の生産性が上がった」という錯覚
【唐鎌】なるほど。定昇の存在が危機感の醸成をある程度抑制していたわけですね。たしかに、定昇で「自分はそこそこ給料増えているし」ということで、問題意識を持たなくなっている人は多いかもしれませんね。
【河野】このように、企業全体の賃金の総額が変わらなくても、社員一人ひとりの目線では新入社員のときに比べると賃金が上がっているので、「自分の生産性が上がり、それが賃金の増加に反映されている」と錯覚しやすくなります。
そのため、大企業経営者に「日本の実質賃金はまったく上がっていない」と話すと、多くは「あ、それはうちの話じゃありませんね」といった反応を見せます。
特に、日本の場合は、経営者自身、叩き上げが多く、長期雇用制の下で定期昇給を経験しているので、「実質賃金が上がらないのは、生産性の低い中小企業の問題」という思い込みを抱きやすいのだと思います。
【唐鎌】それはあるでしょうね。なんせ自分は「25年間で1.7倍」になっているわけですから、「自分は違う」と思うでしょう。
■利益剰余金は四半世紀で5倍弱
【河野】あるいは近年、企業統治改革(コーポレートガバナンス改革)の効果もあって、経営陣には株価連動型報酬が導入されているので、大企業経営者自身の報酬はかなり上がっています。
そのことも、賃金がしっかり上がっているという思い込みに影響しているかもしれませんね。
企業が蓄えている「利益剰余金(いわゆる内部留保)」は、1998年には約130兆円でしたが、アベノミクスが始まった2013年には300兆円に達して、我々エコノミストは当時大騒ぎしていました。そして2023年には、ついに600兆円まで積み上がっています(図表1)。
人件費はほとんど横ばいのままなのに、利益剰余金は四半世紀で、なんと5倍弱です。
1990年代末から2022年頃までの間、ベアがほとんど行われなかったことを考えると、企業が基本給を抑えることで利益を蓄え、自己資本の強化に回していたということです。
これにより日本企業は経営の安定性を高め、メインバンクが不在でも、長期雇用制度の維持を可能にしていたのです。ただ、それにしてもため込みすぎだとは思いますが。

----------

河野 龍太郎(こうの・りゅうたろう)

BNPパリバ証券経済調査本部長・チーフエコノミスト

東京大学先端科学技術研究センター客員教授。1987年、横浜国立大学経済学部卒業。住友銀行、大和投資顧問、第一生命経済研究所を経て2000年より現職。23年より東京大学先端科学技術研究センター上級客員研究員を兼務、25年より同大客員教授。日経ヴェリタス「債券・為替アナリストエコノミスト人気調査」で、2024年までに11回の首位に選出。
著書に『成長の臨界』、『グローバルインフレーションの深層』(ともに慶應義塾大学出版会)、『日本経済の死角』(筑摩書房)など。

----------
----------

唐鎌 大輔(からかま・だいすけ)

みずほ銀行チーフマーケット・エコノミスト

2004年、慶應義塾大学経済学部卒、JETRO(日本貿易振興機構)、日本経済研究センター、欧州委員会を経て08年よりみずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。財務省「国際収支に関する懇談会」委員(24年3月~)。著書に『弱い円の正体 仮面の黒字国・日本』(24年7月)、『「強い円」はどこへ行ったのか』(ともに日経BP)など。TV・ユーチューブ出演:テレビ東京「Newsモーニングサテライト」、TBS CROSS DIG with Bloomberg「CROSS DIG Economic Labo」など。Note「唐鎌Labo」で考察を発信中。

----------

(BNPパリバ証券経済調査本部長・チーフエコノミスト 河野 龍太郎、みずほ銀行チーフマーケット・エコノミスト 唐鎌 大輔)
編集部おすすめ