■日本の流通を根底から変えた中内㓛の原点
ダイエーがまだあったのか。そう思う読者もいるかもしれない。
かつてグループ売上高5兆円を誇り47都道府県すべてに出店した巨艦は、経営破綻を経て2015年にイオンの完全子会社となったが、現在もイオングループの一社として近畿と関東で食品スーパーを展開している。その「まだあった」ダイエーが、2026年3月1日、大きく再編される。
関東の約80店舗はイオングループのマックスバリュ関東に移管され、同社は「イオンフードスタイル」に社名を変更。関東から「ダイエー」の看板は消える。
一方、近畿ではスーパーの「KOHYO」などを展開する子会社・光洋を吸収合併し、本社を東京から大阪府茨木市に移転。近畿2府4県の計187店に経営資源を集中する「新生ダイエー」として再出発する。
約70年にわたる膨張と収縮の果てに、創業者・中内㓛が起業した原点に、ダイエーは立ち返ることになる。
没後20年を過ぎた今、追悼ではなく、一つの問いとしてこの男の生涯を読み直したい。
■千林駅前の30坪から始まった革命
1957年9月23日、大阪・京阪電鉄千林駅の真向かいに一軒の薬局が開店した。「主婦の店ダイエー薬局」。売り場面積は約30坪(約100平方メートル)、従業員13人の小さな店だったが、この店には他にない特徴があった。缶詰や化粧品、日用雑貨を店頭に山積みにし、他店で200円する風邪薬を130円で売った。
当時、近くで商店を営んでいた男が「何でそんなん安くなるねん」と尋ねると、店長はこう答えたという。「風邪薬でも、みな30個、40個しか買わへんが、わしとこは1000個単位で買うからや」。
大量仕入れによる安売り。定価販売が当たり前だった時代に、この手法で商習慣に風穴を開けた男こそ、この店の店長で、後に「流通革命」を掲げ、日本最大の小売業を築く中内㓛である。
■メーカーとの「戦争」を始めた真意
中内の功績を一言で表すなら、「価格決定権をめぐる闘いでの勝利」である。1965年に入社した小浜裕正(後にスーパー「カスミ」会長)は、中内にこう発破をかけられたのをよく覚えている。
「価格決定権をメーカーから奪い取るんや。なぜ商品の価格をメーカーが決めてくるんや。消費者を背負った小売りが決めるんや」
その言葉通り、中内は巨大メーカーに正面から挑んだ。花王に出荷を停止されたときは、社員に街の薬局で花王製品を100円で買い集めさせ、ダイエーの店で90円で売るという執念の戦いを10年にわたって繰り広げた。1964年には松下電器産業(現パナソニック)とも衝突し、ダイエーの店頭から松下製品が消えた。自社で格安のテレビを開発するなどして対抗したこの紛争は、1994年の和解まで「30年戦争」と呼ばれた。
その間にもダイエーは破竹の勢いで拡大を続けた。1972年、創業からわずか15年で三越を抜き小売業日本一に、1980年には小売業初の売上高1兆円を突破する。ダイエーはスーパーの枠を超え、ローソン、プロ野球球団、ホテル、百貨店、金融子会社まで約190社、売上高5兆円のグループを築き上げた。
■南方の戦場にあった原点
だが、この拡大路線の足元は脆かった。ダイエーの拡大路線は業績の右肩上がりが前提だった。右肩上がりを前提に土地を取得し、それを担保に銀行から借り入れ、また別の土地を買う。
ノンフィクション作家の佐野眞一は、中内ダイエーの末路をこう評した。「戦後最高の成功経営者の名をほしいままにしてきた中内氏は、戦後最大の失敗経営者のらく印を押されたのである」
中内㓛の価格への執着、拡大への衝動、メーカーとの果てしない闘いの原動力は、ビジネスの現場ではなく、はるか南方の戦場にあった。
1922年大阪に生まれた中内は、1943年に出征し、最終的にフィリピン戦線に送られた。ルソン島で敗走を続ける日本軍は、補給が途絶え、飢餓によって自壊していった。中内は飢えと猛暑のなか、ミミズやアブラムシを食べて命をつないだ。611人の部隊で生き残ったのは118人だけだった。
■ジャングルで死んでいった戦友への誓い
1945年6月、飢餓状態のまま敵陣に斬り込んだ中内は、米軍の手投げ弾の破裂で瀕死の重傷を負った。生死を彷徨う中、脳裏に浮かんだのは、裸電球の下で家族6人がすき焼きを囲む光景だった。自著『流通革命は終わらない 私の履歴書』で中内は「神戸で育った私は、死ぬ前にもう一度すき焼きを腹いっぱい食いたいと、来る日も来る日も願った」と書いている。
帰還後の中内を深く知った神戸大名誉教授の田村正紀は、中内は何か大きな決断をしようとするたび、「先生、また『野火』を読みました」と言っていたと振り返っている。大岡昇平の『野火』は、フィリピン戦線をさまよう日本兵が飢餓に苦しみ、人肉食にまで追い詰められる小説である。中内は自らの戦争体験と重ね合わせるように、その小説を何度も読み返していた。
中内自身の自著での言葉がすべてを物語っている。「私にも、食べ物への執念と、悲惨な戦争を遂行させた精神主義への反感が骨の髄まで染みこんでいる。私は日々の生活必需品が安心して買える社会をつくることを戦死した人々に誓った。それを途中で投げ出すわけにはいかない」
「よい品をどんどん安く」という社是は、マーケティングの標語ではなかった。それは、ジャングルで死んでいった戦友への誓いだったのである。
■神戸の惨状とルソン島
中内のB面ともいえる知られざる内面が最も激しく噴出したのは、1995年1月17日、阪神・淡路大震災の朝だった。
神戸に店舗を集中させていたダイエーは甚大な被害を受けた。三宮では7店中4店が全壊した。中内は3日後に現地に入り、陣頭指揮を執った。
「水がない、電気が来ていない、そんなことは理由にならん。開けられんのなら店先に弁当を並べたらええやないか。それが商人や」「被災者のために明かりを消すな。客が来る限り、店を開け続けろ。流通業はライフラインや」
船も陸路も使えないと分かると、中内は兵庫県知事の貝原俊民に電話をかけ、「自衛隊のヘリで物資を運びたい」と直訴した。貝原の仲介で、震災後2~3日は自衛隊のヘリコプターがダイエーの店舗に食料と水を運んだ。震災から1週間で、被災地のダイエー9店、ローソン245店の営業を再開させた。貝原は「被災者の生命を何とか守りたいという強い意気込みが、一企業のために自衛隊まで動かした。まれな体験だった」と振り返っている。
中内は、神戸の惨状を見て戦争を思い出したのだろう。瓦礫の中で食べ物を求める人々の姿は、50年前のルソン島と重なったのだろう。
■「戦争だけはあきまへんなあ」
2001年、中内はダイエーの全役職から退任した。退任会見では「何でもあるが、欲しいものはないと言われるスーパーを考え直す必要がある」と語っている。自らが築いた業態の限界を、最後は本人が認めざるを得なかった。
2004年、ダイエーは産業再生機構に支援を要請する。中内は東京・田園調布と兵庫県芦屋市の自宅を手放した。「裸一貫からやり直す」と周囲に語っていたという。
亡くなる直前の2005年8月25日、前兵庫県知事の貝原と食事をともにした中内は、総選挙の話題のなかでぽつりとつぶやいた。「戦争だけはあきまへんなあ」。貝原は「中内さんの原点は戦争体験と思う。流通事業を通して、人々の暮らしや生命を守るという思いが人一倍強かった」と振り返っている。
2005年9月19日、中内㓛は83歳で逝去した。京都大名誉教授の森毅は、かつて中内と対談した際の印象をこう語っている。
「戦後闇市の話になった時、目がギラギラ輝き出したのが印象的だった。ああ、この人の原点なんだと思った。戦争中、南方に行き『死んだのは勇敢なやつ』と言っていた。生きて帰ったという負い目があったんだと思う」
■「飢餓の記憶」という傷を燃料に
中内が遺したダイエーは、2015年にイオンの完全子会社となり上場を廃止した。そしてこの3月、関東の看板を下ろし、創業の地・関西に還る。
中内㓛の生涯から浮かび上がるのは、経営の原動力は理論ではなく、身体に刻まれた記憶という事実である。「飢餓の記憶」という傷を燃料にして中内は走り続けた。その走りは、最後には自らの王国を壊すことになったが、日本の流通に刻んだ爪痕は消えない。
価格決定権を消費者の側に引き寄せるという思想は、今日の小売業の基盤そのものとなっている。千林の30坪から始まった男の闘いは、我々の「買い物」という日常を根底から変えた。
誰にとっても「飢え」はある。幼少期の体験かもしれないし、学生時代の挫折の記憶かもしれないし、仕事での失敗かもしれない。あるいは、まだ言葉にできていない漠然とした傷かもしれない。その正体を見つめることが、経営にも、仕事にも、人生にも、深い軸を与えてくれるはずである。
主要参考資料
・ 日経ビジネス「編集長インタビュー 中内㓛氏[ダイエー会長兼社長]――売り上げ偏重から利益重視へ転換 総合スーパーは存在意義を失った」、1998年5月4日号
・ 毎日新聞「余録」、2002年1月21日付朝刊
・ 朝日新聞、毎日新聞、中日新聞ほか中内㓛氏死去関連記事、2005年9月20日付各紙
・ 朝日新聞「新風景を歩く 大阪・千林」、2006年3月11日付夕刊
・ 大阪読売新聞「[ダイエー 光と影](1)安売り 商習慣に風穴」、2014年11月20日付朝刊
・ 朝日新聞「(平成経済)第2部・昭和モデルの崩壊5 声上げ始めた消費者」、2018年2月25日付朝刊
・ 神戸新聞「秘録 ダイエー中内㓛 生誕100年に寄せて 第1部(2)」、2022年3月30日付朝刊
・ 大岡昇平『野火』新潮文庫
・ 佐野眞一『カリスマ 中内㓛とダイエーの「戦後」』新潮文庫
・ 中内㓛『流通革命は終わらない 私の履歴書』日本経済新聞社
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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。
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(ライター 栗下 直也)

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