2024年7月13日、共和党のドナルド・トランプ氏が選挙集会中に狙撃された。毎日新聞記者の國枝すみれさんは「弾丸が耳をかすめて九死に一生を得たトランプだが、その危機すらも選挙戦に利用した」という――。
(第1回)
※本稿は、國枝すみれ『アメリカ 崩壊の地をゆく』(毎日新聞出版)の一部を再編集したものです。
■大統領選の行方を決定づけた「暗殺未遂」
2024年7月13日、北東部ペンシルベニア州バトラーで起きたトランプ暗殺未遂事件は、地獄の門を開いた。ショッキングな事件は偽情報や陰謀論の格好の温床となる。この後、怒りと恐怖の感情に吞み込まれたMAGAはトランプ陣営のプロパガンダを自ら拡散した。
トランプ狙撃の瞬間、現場から車で3時間ほどの距離にある、中西部オハイオ州アシュランドでメモを片手にテレビで見ていた。血を流すトランプが拳を空に突き上げ、「ファイト、ファイト、ファイト」と叫んだ。口の動きではっきりと分かった。総毛立った。血の気が引いた。暴力の連鎖が起きるかもしれない。
ペンシルベニア州では暗くなってから車を飛ばすと、鹿とぶつかることになる。朝まで待つことにした。
緊張でほぼ一睡もせず、翌早朝、現地に車を飛ばした。
事件直後からソーシャルメディアは沸騰した。まず民主党支持者による「トランプ側が仕組んだやらせだ」という投稿がXで拡散した。それから、共和党支持者が「シークレット・サービスが意図的に暗殺計画を止めなかった」と言い始めた。もちろんどちらも根拠はない。
トランプが拳を空に突き上げた瞬間を捉えた写真がすぐに拡散し始めた。バトラーの現場で出会ったMAGAは激怒していた。「よくも俺たちのトランプを殺そうとしたな」。暗殺未遂事件はトランプ支持者の気持ちを結束させた。
■トランプ陣営がにおわせた「民主党黒幕説」
狙撃犯の青年は射殺され、犯行の動機は分からない。根拠がないことは報道しないレガシーメディアは動機には踏み込まない。
しかし、トランプ陣営は違った。
事件直後こそ言葉を慎んでいたトランプだが、8月3日に南部ジョージア州で、原因は民主党にあると演説した。「7年間私を民主主義の脅威だと言い続けたから、銃撃を受けたのだと思う」
J・D・バンス(当時副大統領候補)は、さらに踏み込んだ。「彼らはトランプに政治的に勝てないから、破産させようとした。それが失敗すると弾劾しようとし、それも失敗すると、刑務所に入れようとした。殺そうとすらした」
「彼ら」というぼんやりした主語を使ってはいるが、民主党が暗殺未遂の背後にいる、と言っているのだ。この後、トランプ陣営の偽情報拡散はとめどなく拡大し、歯止めがなくなっていった。戦略として偽情報を拡散すると決めたのだ、と感じた。
■全米放送で流れた「犬猫デマ」
トランプは2024年9月10日の大統領候補同士のテレビ討論会で、オハイオ州スプリングフィールドのハイチ移民が「近隣住民のペットの犬や猫を誘拐して食べている」と発言した。「オー・マイ・ゴッド」。聞いた瞬間、私は叫び声を上げた。ちょうどオハイオ州の州都コロンバスで、親友の親戚と一緒に討論会を見ていた。
耳を疑った。
移民への差別や憎悪犯罪を煽りかねない危険な発言だ。討論会を主催したABCテレビの司会者は間髪入れずに否定した。「スプリングフィールド市は、ペットが傷つけられたり、虐待されたり、といった信頼できる通報はない、と言ってます」
それができた理由は、前日にファクトチェックしていたからだろう。討論会前日にバンスが「この国にいるべきではない人々がペットを誘拐して食べているという報告がある」とXに投稿した。メディアはすぐに現地当局に取材し、そんな事実はない、と指摘していた。
実は、バンスの事務所スタッフもファクトチェックしていた。市役所に「噂は本当か?」と問い合わせ、「根拠なし」の回答を得ていた。にもかかわらず、トランプは全米に生中継されているテレビ討論会でこの偽情報を蒸し返したのだ。
■デマを妄信するトランプ支持者たち
テレビ討論会の翌日、スプリングフィールドに車を飛ばした。ハイチ人支援センターとハイチ料理店に飛び込んだ。
ハイチ人はひどいショックを受けていた。「ハイチに犬や猫を食べる習慣はない」「アメリカ人はなぜそんなひどい嘘を拡散するのか?」。
当然だ。しかし、驚いたことに、多くの白人住民が「トランプは正しい」と主張した。
クリスタル・シューメーカー(36)もその一人。「トランプの発言は100%正しい」と言い切った。友人から猫が皮を剝がされて食べられている、と聞いたからだ。
「うちには7匹の猫がいる。2日前に1匹がいなくなり、心配した夫が探しに行った。ハイチ人にはうちの猫には手を出すな、と言っている」
その猫は数日後に見つかった。
中心街の市役所に行くと、閉鎖されている。爆破予告があったのだ。集まった報道記者の注意を引こうと、クラクションを鳴らす車がいた。近づくと、若い白人女性が「私は証拠を持っている」と言う。

彼女が車の窓から突き出したスマートフォンの画面を覗き込む。鳥の死骸を手にぶら下げて歩く黒人男性が映っている。「ハイチ人が公園にいるガチョウやアヒルを無料の食事だと思っている」との書き込みとともに拡散された偽情報の一つで、州都コロンバスで自動車にはねられた鳥を片づける様子を撮影したもの、と判明している。
自信満々に「従兄弟が撮影した」という女性の顔を、私はまじまじと見つめた。人種差別的な偽情報の拡散に加担している、とはつゆほども思っていない、正しいことをしていると信じ切っている顔を……。
■SNSが生んだ大量の悪徳自称「ジャーナリスト」
地元警察の記者会見に集まった他社の記者と雑談をした。「信憑性がない話をする人が多い」。私がため息をつくと、別の記者も眉をひそめた。「ハイチ人が切った豚の頭を道ばたに捨てている、という発言もあった」
人間は必ずしも本当のことを言うとは限らない。悪意を持って嘘をつく人もいる。サービス精神から事実を誇張して話す人もいる。完全な妄想を語る人もいる。
それを記者は経験上、知っている。だから、複数の人を取材して裏取りをする。物証を取る。嘘だと思ったら書かない。根拠がないことは書かない。記者は疑わしい情報をはじいて事実を抽出する濾過器の役割をしてきたのだ。だが、このシステムは崩壊した。
目の前で偽情報が生まれていた。隣州ケンタッキーから来たという若い男性が「男がカナダガンの死骸を手に持って歩いているのを見た」という白人女性(30)の話に食いついていた。「YouTubeを始めたばかりなんだけど、事実を確かめようと思ってここに来た。家に一緒に行ってもいい?」
横で聞いていた私は目を剝いた。白人女性はハイチ人や中南米系移民への醜い差別発言を続ける。物証がない限り、この女性の発言内容はとても使えない、と感じた。でも、このユーチューバーは真実などこれっぽっちも気にしないかもしれない。
アクセスが増えるほど金が入るXやYouTubeの仕組みは、偽情報を生み出すインセンティブになっている。
■インフルエンサーが拡散した“便所の落書き”
スプリングフィールドの犬猫騒動の発端は、住民のフェイスブックへの投稿だ。「ペット好き注意! 近所の人に言われたのだけど、彼女の友人の娘の友人の飼い猫がいなくなった。(中略)ある日、近所に住むハイチ人がその猫を木から吊り下げ肉を削いで食べていた。やつらは犬も食べるんだって。アヒルやカナダガンも」
この“便所の落書き”のような投稿を拡散する役割を担ったのは、Xを所有する起業家イーロン・マスクや、MAGAに人気の新興右派メディア「リアル・アメリカズ・ボイス」で番組を持つチャーリー・カーク(25年9月に暗殺される)ら右派インフルエンサーだ。
マスクは「ハイチ人がオハイオの町を破壊し、ペットを殺して食べていると伝えられている」というXの投稿に、「あんたの近所にもこれと同じことが起きてほしいなら、(民主党候補の)カマラに投票しろ」と書き込みをして、リポストした。カークも自身の番組で「ハイチ人が彼らのペットを食べている、と住民が報告している」と伝えた。スタッフを現地に送って住民が「証言」する動画までつくった。
右派インフルエンサーたちは、オハイオ北部カントンで猫を食べたとして逮捕された黒人女性の動画も拡散した。「おまえ、その猫を食べたのか」。動画の中で警官が女性に尋ねている。女性は放心した表情で地面にひざまずいている。しかし、この黒人女性はアメリカ人で、スプリングフィールドのハイチ移民とはなんの関係もない。
■ハイチ人の名誉は失われたまま
さらに、スプリングフィールド市の公聴会の動画もXで拡散した。公聴会の動画の中で、自称インフルエンサーのアンソニー・ハリスがまくしたてる。「なんとかしろよ。ハイチ人はゴミを散らかし、車をひっくり返してる。公園でアヒルの首を捕まえ、頭を切り落として食べている」現地警察は、ハイチ人が家の不法占拠やゴミを積み上げるなどの不法行為や意図的な交通規則の無視をしている事例はない、と否定している。
また、野鳥の捕獲については、警察に通報があったが、確認できなかったという。
後に、この自称インフルエンサーは泣きそうな顔で「俺は犬猫については一言も言っていない。(アヒルについては)噂があるから調べてほしかっただけだ」と釈明した。彼には市長選に出馬しようとしている、という噂があった。公聴会で演説をして、目立ちたかったのかもしれない。
正直、ここまで汚い選挙戦になるとは思わなかった。
バンスはCNNテレビに「アメリカ人の苦しみにメディアの注目を集めるために話をつくりあげる必要があるなら、そうする」と話した。「話をつくりあげた、と言いましたか?」鋭く反応した記者がすかさず確認すると、「メディアの耳目を集める状況をつくりあげた、という意味だ」と言い訳した。
トランプの犬猫発言の直後から、スプリングフィールドには爆破予告が相次ぎ、市役所や病院、学校が閉鎖された。ハイチ人は町を去り始めた。
トランプもバンスも、いまだに発言を撤回していない。ハイチ人に謝罪もしていない。

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國枝 すみれ(くにえだ・すみれ)

毎日新聞記者

1967年、東京生まれ。湘南で育つ。慶應義塾大学、ミシガン大学大学院で学ぶ。1991年、毎日新聞社に入社。英字新聞毎日デイリーニューズ編集部、ロサンゼルス、メキシコ、ニューヨークで特派員。2005年、長崎への原爆投下後に現地入りした米国人記者が書いたルポを60年ぶりに発見して報道し、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。

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(毎日新聞記者 國枝 すみれ)
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