日本が内戦に明け暮れていた戦国時代、信長だけが天下統一への道を切り開けたのはなぜか。立命館アジア太平洋大学前学長の出口治明さんは「信長は長篠の戦いで武田勝頼に勝利したが、大量の鉄砲などを運ぶため、事前に兵站ルートを整えていた」という――。

※本稿は、出口治明『日本史の極意』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■戦争は「終わらせ方」が難しい
歴史を振り返るとき、しばしば戦争の「始まり」に目を奪われがちです。しかし、戦争は始めることよりも終わらせることのほうが、はるかにむずかしいのです。
2022年にロシアがウクライナに侵攻した際、プーチン大統領はあっという間にウクライナは白旗をあげるだろうと予想して戦争を始めました。それが終わる気配を見せず、2025年にアメリカのトランプは大統領として2期目を迎える際に「俺が大統領になったら24時間でウクライナ戦争を終わらせる」と豪語していましたが、2026年初現在、停戦に至っていません。
日本でも、1937年の盧溝橋事件のあとで中国側の抵抗が激化し、上海事変で中国軍が徹底抗戦のかまえを見せた際に「対支一撃論」なるものが出てきました。「俺らが首都・南京を攻略して一発ぶちかませば、蔣介石の国民政府は崩壊して日中戦争はすぐ終わるはずや」という陸軍強硬派の主張です。しかし周知のように戦争は長期化していきました。
ほかにも戦端を開いた側、参戦した勢力が「すぐ終わるだろう」と思っていたのに泥沼になった戦争はいくつもあります。有名なところでは第一次世界大戦がそうですし、日本であれば応仁の乱などがそうでしょう。
たとえ勝っていったとしても「落としどころ」、逆に負けが込んできた場合や戦いが長期化した場合の撤退基準を見据えずに戦い始めるべきではありません。戦後処理まで含めて戦争です。
これは企業の新規事業やライバルとの競争においても同様です。
■信長・秀吉が戦で重視した要素
応仁の乱のあと、1493年に細川政元が仕組んで将軍・義材(よしき)を追放して義澄(よしずみ)の擁立を行った「明応の政変」以降、将軍家の権威が地に落ち、公家や寺社など伝統的な中央との関係を断ち切った大名自身の、自力による支配の時代、約100年間にわたる「戦国時代」へと突入します。
別の時代区分を用いるならば、1068年に後三条天皇が即位して「摂関政治の時代」(古代)を終わらせ、「院政と武士の時代」(中世)が始まったその500年後(1568年)、織田信長が入京して日本の「近世」が始まります。中世には公家・武家・寺社などの権門が並立していましたが、戦国大名が登場すると土地は権門とのつながりを断ち切られ、領国化されます。司法・行政・立法が大名に一元化された、いわば独立国家化が進みます。
そして国々が立ち並ぶ領邦国家がかたちづくられていきます。さらにそれらの領邦国家を支配して統一政権をつくろうとしたのが、織田信長の画期的なところです。
さて、最終的に天下統一への道を切り開いた織田信長と、その後継者である豊臣秀吉がほかの大名たちを圧倒し、勝利を収めることができた要因は何だったのでしょうか。
■食糧や武器をどう確保し運ぶか
実際に戦争を動かす大きな力のひとつは「ロジスティクス」、兵站(へいたん)です。兵站とは、兵士に必要な食糧や武器、物資をどう確保し、どう運ぶかというしくみのことです。これがなければ、どんなに優れた戦術を立てても戦争は続けられません。
信長は、戦争と商業・流通を連動して考えました。
当時の日本では、領主ごとに関所を設けて通行税を取るのが普通でした。これは自国の収入源にはなりますが、物資の流れを滞らせるデメリットもあります。信長は美濃(現在の岐阜県)を本拠とした時期から一部の関所をなくし、いわゆる楽市楽座を進めました。商人たちに自由な商売を保証します。すると市場が活性化する。結果、兵糧や武器の調達もスムーズになります。
■信長が楽市楽座を広めたワケ
また、城下町を兵站拠点として整備してもいます。岐阜城下をはじめ、安土城下などでも市場の発展を促す施策を打っています。都市づくりであると同時に、兵力を維持する物資を安定確保する「物流拠点」づくりでもあったと言えるかもしれません。
1575年、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が激突した「長篠の戦い」は、信長軍の鉄砲大量使用で有名ですよね。この背後にも兵站の準備があります。約100から3000挺(ちょう)とも言われる鉄砲を運用して撃ち続けるためには、火薬や鉛玉の供給が欠かせません。
信長は南蛮貿易を通じて硝石を確保し、国内の鉱山や鍛冶集団を動員して弾薬を供給していたから、これができたわけです。
信長の死後、秀吉は信長のやり方を引き継ぎつつ、さらに兵站を大規模化しています。
本能寺の変で織田信長が討たれた1582年6月2日、秀吉は備中高松(現在の岡山市)から約3万の大軍を率いて山城国の山崎(現在の京都府乙訓郡)まで、約200キロを8日から10日程度で移動しています。いわゆる「中国大返し」です。このとき備中高松城から当時の秀吉の根拠地だった姫路城までの約92キロを2日ほどで踏破したわけです。1日40キロから50キロも行軍したと見られています。さすがに全軍が1日50キロ行軍するのは非現実的ですから精鋭部隊が先行するかたちだと思いますが、それにしても速い。
また、人間が3万人も動くとなればとんでもない量の食事が必要になります。ということは、その大軍勢が行く前に先回りして休む場所を確保したり、食事を手配したりするような部隊がいたはずです。猛スピードでの移動には、こうしたロジスティクス担当者の存在、前もっての場所や食糧の確保が不可欠です。
■食糧の運搬ルートが勝敗を分けた
また、1590年の小田原攻めは北条氏を滅ぼす大規模な戦いでしたが、秀吉は全国の大名を動員し、20万に及ぶ兵を集めました。これほどの兵を動かすにはやはり莫大な食糧が必要です。
秀吉は各地に「蔵入地」と呼ばれる直轄領を整備し、そこから年貢を集めて兵糧を確保していました。さらには東海道・中山道(なかせんどう)など主要な街道を兵站路として整備し、物資が途切れないようにしています。街道沿いには宿場町が置かれ、輸送の中継点となっています。兵站路の管理は、戦争の勝敗を分ける重要な要素だったのです。
それから秀吉といえば、明(中国)を攻めるために海を渡って朝鮮に出兵したことでも有名です。「誇大妄想に取り憑つかれた」とか「老いて耄碌(もうろく)した」とかさまざまに言われていますが、秀吉にはそれなりに勝算があって朝鮮半島に出兵したのではないかと僕は思っています。
十数万の兵を朝鮮半島に送り込むためには、海を越えて大量の食糧や武器を運ぶ必要があります。秀吉は瀬戸内海の海運ネットワークを利用し、西日本の港を兵站基地にしています。また、秀吉が九州に築かせた名護屋城は兵站基地としては超巨大な規模でした。朝鮮半島から上陸し、北京に入るくらいまでの兵站は計算していたのではないでしょうか。
もちろん海を渡って遠征するのは、陸続きで移動するよりはるかに大変で見積もりを誤った部分があったでしょうし、そもそも明に関する情報も不十分だったと思います。
■秀吉も朝鮮出兵の兵站で失敗した
それよりも問題は、秀吉さえも対外戦争となると開戦前に落としどころを定め、先々の見通しをシミュレートしていたふしがあまり見当たらないことです。
「勝ったらこう」「負けたらこう」というような次の手の準備がなければ、戦争は続けられません。朝鮮半島での戦争が長期化して補給が追いつかなくなると、現地での調達・略奪に依存せざるをえず、これがのちのちまで続く、朝鮮半島の人々からの反発、怨恨につながっています。
第二次世界大戦中の日本軍が兵站を軽視したために、南方戦線では戦死者よりも餓死者のほうが多かったことについてはしばしば語られています。しかし、日本人がずっとロジスティクスを軽んじていたわけではありません。
ただ、今でも日本ではしばしば、どうやってモノや人をデリバリーするのかを無視して「気合と根性でなんとかする」という精神論が横行しています。人手不足で物流や人材の確保・提供への視点なくしては社会が回らなくなりつつある今こそ、兵站の重要性を認識し直す必要があるのではないでしょうか。

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出口 治明(でぐち・はるあき)

立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授

1948年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、日本生命保険に入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画(現・ライフネット生命)を設立し、社長に就任。2012年に上場。2018年よりAPU学長。
読んだ本は1万冊超。主な著書に『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『全世界史』(上・下、新潮文庫)、『一気読み世界史』、『一気読み日本史』(日経BP)、『自分の頭で考える日本の論点』(幻冬舎新書)、『教養は児童書で学べ』(光文社新書)、『人類5000年史』(I~VI、ちくま新書)、『0から学ぶ「日本史」講義』シリーズ(文春文庫)、『日本の伸びしろ』(文春新書)、『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)、『復活への底力』(講談社現代新書)、『「捨てる」思考法』(毎日新聞出版)など多数。

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(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授 出口 治明)
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