※本稿は、出口治明『日本史の極意』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■7世紀の女帝、持統天皇
蘇我馬子が先進国・隋に倣って曲がりなりにも整えた中央集権的な律令国家というグランドデザインをある意味では引き継いで発展させたと言えるのが、飛鳥時代後期に即位した持統天皇(在位690~697)でした。
中大兄皇子(のちの天智天皇、在位668~671)と蘇我石川麻呂の娘である遠智(おち)の娘(いらつめ)の間に生まれた鵜野讃良(うのさらら)皇女が、のちの持統天皇です。彼女が生きた時代のもっとも重大な事件が、前述した663年の白村江の戦いです。中大兄皇子率いる日本・百済連合軍が、唐・新羅連合軍に大敗します。
蘇我馬子はお隣の先進国・隋からの侵略を警戒すると同時に、進んだ文物を輸入し、隋の皇帝からお墨付きを得ることで内政を図りました。
同様に、持統天皇とその側近である藤原不比等(ふひと)とも「日本も立派な国なんです」ということを圧倒的な国力を誇る大唐世界帝国に示す基盤づくりに奔走しました。これは国防上の問題であると同時に、天武・持統という皇族の系譜を正統なものとするための方策でもありました。
■皇女→皇后→天皇→上皇に
持統天皇の政治手法には、おそらくロールモデルがありました。それは中国史上唯一の女帝である武則天です。武則天は唐の三代皇帝高宗の皇后となり、655年の立后から705年の退位まで、半世紀にわたって権力の座にありました。気の弱い高宗を後ろから支える「垂簾(すいれん)聴政」に始まり、やがて高宗の死後は自ら皇帝となります。
持統天皇は、これをマネします。天武天皇(在位673~686)の皇后として夫が病弱になると政治の実権を握り、天武の死後も称制(正式に即位せずに政務を執ること)を続けました。そして690年、ついに自ら即位したのです。
それまで大王の即位は有力な貴族たちの承認によるものでしたが、彼女は天の神々の祝福から始まる即位を行いました。つまり「神々に委任されて天皇になった」と演出したのです。
■「天皇」という称号を確立した
そして持統天皇は「天皇」という称号を確立します。その昔は天皇号の成立は推古朝からとされていましたが、現在では天武朝、つまり持統天皇の時代に確立されたと考えられています。武則天は道教の最高神「天皇上帝」から採って「皇帝・皇后」よりもさらに上位の存在として「天皇・天后」という称号を高宗と自分にあてはめています。中国では皇帝と皇后にはとんでもなく格に差がありましたが、武則天は「天皇と天后は対等だ」と言って「二聖政治」を実現しました。持統天皇はこれを参考に、日本の王家に適用したのでしょう。ただし自身は「天后」ではなく「皇后」を採用しています。日本にはすでに女性の大王もいたからでしょう。
さらに持統天皇は、上皇制度も創設しました。藤原不比等に命じて大宝律令に「上皇は天皇と同等の権力を持つ」という条項を加えさせたのです。これによって彼女は譲位後も持統太上天皇(上皇)として、文武天皇(在位697~707)と同じ宮廷で暮らし、実質的な支配者として君臨し続けました。
■新しい都や「見せ金」も作った
持統天皇は藤原京の建設にも着手します。この都は唐の長安城をマネしながら、武則天が理想とした古代中国の周の制度を記した『周礼』にのっとって建設されました。ただ、当時の日本と中国の国力の差は歴然としていました。日本の人口は500~600万人、中国は5000~6000万人で10倍の差があり、一人当たりの経済力も中国が2倍でした。つまり日本の国力は中国の20分の1です。にもかかわらず、長安が84平方キロメートルに対して藤原京は25平方キロメートルです。国力に見合わない規模の都市建設ですから、途中で頓挫します。
さらに唐では貨幣経済が成立していたため、日本も富本銭を製造します。でも大量の銅貨を作る技術も流通させる市場も未発達だったため、実際には十分に流通せず、中国や新羅の使節用の「見せ金」でした。
まだまだあります。内政的には自分たちが権力を握る正統性を示すため、そして外交上まともな国として認められるためには国家としての歴史書が必要でした。そこで『古事記』(712年完成)と『日本(書)紀』(720年完成)の編纂(へんさん)にも手をつけます。『古事記』は国内の豪族向けの宣伝書、『日本(書)紀』は中国に示すための公的な史書です。
中国の歴史書は「本紀」「志」「世家」「列伝」「表」の5項目で構成される紀伝体という形式でしたが、日本の国力ではすべてを編纂できませんでした。結果として「本紀」の部分、つまり天皇の記録だけが完成し、これが『日本(書)紀』となったのです。こういう理由から『日本書紀』は『日本紀』と呼ぶべきだと三浦佑之が『風土記の世界』(2016年、岩波新書)で唱えているのに倣い、本書では『日本(書)紀』と表記しています。
■孫に王位を譲ったアマテラス
ちなみに『古事記』や『日本(書)紀』で描かれる天孫降臨神話では、アマテラスが我が子ではなく孫に王位を譲るという、世界の神話を見渡しても珍しい設定になっています。これは持統天皇がアマテラスのモデルだったからです。持統天皇も息子の草壁皇子が早世したため、孫の文武天皇に皇位を継承させています。
701年、大宝律令が完成した年に、持統上皇と文武天皇は、日本の天皇からのはじめての正式な使者として遣唐使を派遣しています。日本のねらいとしては、中国の属国扱いと言ってもいい冊封(さくほう)体制に組み込まれずに済むようなポジションの獲得でした。
武則天は日本の使者に対して、遠い海路をしょっちゅう来るのは大変だろうと配慮したのか、20年に一度程度の謁見でいいとしました。詳細はわかりませんが、遣唐使たちがうまく立ち回ったのでしょう。大唐世界帝国とはほどほどの距離感を保ったまま、独立を維持できるように話が付いたということです。
そしてそれまでは「倭」と呼ばれていましたが、「日本」という国号が正式に使用されるようになります。702年の遣唐使で、日本という国号をはじめて正式に名乗っています。これは中国から見て自国が東にあることを意味する言葉で、「日出処の天子」という607年の遣隋使の国書から約100年後のことでした。
■持統天皇が「日本」をつくった
こうして業績を並べてみると、持統天皇がまさに「日本」をつくった、と言えるのではないでしょうか。
なお、「天皇」という称号は仁明天皇(在位833~850)以来、亡くなったあとに贈られる諡号(しごう)としては使われなくなったと考えられています。もともと唐に対峙(たいじ)する中で武則天にあやかって使われるようになった称号ですから、その後、唐の脅威が去ると長く使われなくなります。
再び使われるようになったのは、江戸時代後期の光格天皇(在位1780~1817)以後のことです。ですからそのあいだは「天皇家」ではなく単に「王家」と呼ぶべきです(実際、少なくない中世史家がそうしています)。また、あとから考案された天皇号をそれ以前の大王に対して「継体天皇」といったかたちで使うのは歴史的に考えると正しくありません(「継体持統」は中国の言葉で「国を創り子孫が時代を越えていく」という意味。
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出口 治明(でぐち・はるあき)
立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授
1948年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、日本生命保険に入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画(現・ライフネット生命)を設立し、社長に就任。2012年に上場。2018年よりAPU学長。読んだ本は1万冊超。主な著書に『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『全世界史』(上・下、新潮文庫)、『一気読み世界史』、『一気読み日本史』(日経BP)、『自分の頭で考える日本の論点』(幻冬舎新書)、『教養は児童書で学べ』(光文社新書)、『人類5000年史』(I~VI、ちくま新書)、『0から学ぶ「日本史」講義』シリーズ(文春文庫)、『日本の伸びしろ』(文春新書)、『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)、『復活への底力』(講談社現代新書)、『「捨てる」思考法』(毎日新聞出版)など多数。
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(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授 出口 治明)

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