歴史上の偉人の中でも人気ナンバーワンと言われる織田信長。立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授の出口治明さんは「信長は比叡山焼き討ちなどの厳しい処断で知られるが、秀吉など家臣に対しては一貫した人事管理をした」という――。

※本稿は、出口治明『日本史の極意』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■持統天皇と織田信長の共通点
持統天皇のあと僕が高く評価するグランドデザイナーとしては、奈良時代にはおらず、平安時代には平清盛がいます。室町時代には足利義満がいます。では戦国時代は? やはり織田信長が外せません。
信長が生まれ育った尾張(現在の愛知県)は、伊勢湾に面した商業地域でした。守護代の分家のそのまた分家筋という比較的低い身分に生まれた信長は、いわば「放し飼い」で育ちます。青年時代の信長は当時流行していた「かぶき者」の格好をしていました。髪を派手な糸で巻き、着物の袖を外し、半袴(はんばかま)に火打袋をいくつもぶら下げて町中で栗や餅にかぶりつき、舎弟らとつるんで「大うつけ」と呼ばれていたほどです。現代で言えば半グレ集団のヘッドのような存在でした。
信長はこの時代に町中で庶民と遊び、商売の現場を直接見ることで、マーケットのしくみを自然と身につけたのだと思います。シェイクスピアの戯曲に描かれたイングランドの名君ヘンリー5世(在位1413~22)が、若い時分に「ハル王子」として市井の無頼漢と付き合っていた話に似ています。
■マーケットを熟知していた信長
金銀銅の3通貨制の設立、楽市楽座の実行、海外との交易促進などを並べてみると、信長がほかの戦国大名に比べてマーケットを熟知していたことがわかります。

信長の判断は経済政策でも人事施策でも、自分の身の振り方についても合理的でした。
良いものは良い、悪いものは悪い。のちに朝廷で昇進を重ね、左大臣の座も目前のところまで行きながら官職を辞してしまったのも、権威や伝統に頼るだけではなく、自分の目で見て自分の頭で考えるタイプだったからでしょう。
実は信長は、仕事のミスが原因で部下を殺すことはほとんどありませんでした。問題を起こしたり敵対したりした人間に対しても、追放はしても切腹まで命じるケースは少なかったのです。
将軍になるために信長を利用したつもりが逆に従属を求められて対立した足利義昭(将軍在任1568~73)に対しても、信長は1573年に京都から追い出して室町幕府を事実上滅ぼしてはいますが、義昭を殺してはいません。大坂の石山本願寺攻めでの怠慢を責めた佐久間信盛父子も、高野山に放逐しただけです。柴田勝家が信長を「うつけもの」と呼んで信長の弟に味方したあとも、荒木村重が最初に背いたあとも、信長は彼らを上手に活用しています。
■比叡山などを処断をしたワケ
信長は一度領国化したところが一揆や寝返りを起こすと徹底的に制圧しましたが、これは信長が残虐だったわけではないと思います。1570年から74年にかけての伊勢長島一向一揆や、71年の比叡山延暦寺焼き討ちは厳しい処分でしたが、これらには理由がありました。
信長は宗教を一律弾圧していたわけではありません。たとえば1569年にはイエズス会宣教師のルイス・フロイスに京都での居住を許可して布教を認めています。
一方で比叡山を攻撃する前には、僧侶たちに「琵琶湖の北方の浅井(あざい)、朝倉と通じるなら滅ぼす。仏門なら中立の立場に立つべきだ」とメッセージを送っていました。
つまり経済的・政治的・軍事的な合理性に基づいて判断していたわけですね。ある意味では、モンゴル帝国の手法に似ています。「従うなら身の安全を保証する。抵抗するなら徹底的に制圧する」、そして一度決めた約束は守る。信長の事績を見ると、自ら約束を破ったことはあまり見当たりません。
■茶道で秀吉たちの心をつかんだ
信長は人材活用に際して能力主義、実力主義を徹底しています。各地を流れてきて信長に仕えた明智光秀も適切に活用し、秀吉のような低い身分出身者も実力に応じて重用しました。これは革新的なことでした。部下からすれば、生まれやコネで判断されないほうがやる気が出るでしょう。
茶の湯を活用した人事管理システムもおもしろいですね。
茶器は足利将軍家が集めた東山御物がルーツでしたが、信長は市中の茶器の名品を収集し、功績のあった部下に高価な茶道具を下賜したり、茶会の主催を特別に許可したりしています。ほかの武将に茶会を禁じることで「ティーパーティの主催を許す」というだけで、すごい褒美になったのです。
豊臣秀吉ものちに、信長から茶会を許され茶道具を下賜されて感激したと回想しています。
現代の企業でも金銭的報酬だけでなく地位や名誉を組み合わせた総合的なインセンティブシステムが重要視されていますが、信長は400年以上前にこれを実践していたのです。
■本能寺の変で潰えた信長のビジョン
人間関係を円滑に進めるためには、上司の顔色を見ることも重要です。僕なら、信長は「楽勝の上司」と評価するタイプでしょう。信長は機嫌よく笑っているか、怒っているかのどちらかで、近づいたほうがいいときと距離を取ったほうがいいときがわかりやすい人間だったと思います。
信長の享年は49。1582年の本能寺の変は、おそらくは突発的な謀反でした。当時、信長は側近だけで京都の本能寺にいる一方、明智光秀は1万3000の精兵を率いて近くを行軍していました。下克上の時代において、光秀が「今なら天下人になれる」と考えたのは自然なことです。しかし信長を倒した後の計画がお粗末で、わずか11日後には羽柴秀吉軍によって敗北してしまいます。

近年の研究では「信長の行った主な政策は、ほかの戦国大名も行っていた」として、その独自性に疑問を投げかける向きもあります。しかし、どの大名も天下を取ることはできませんでした。信長が傑出していたのは、「これとあれを組み合わせていけば天下が取れる」という大きなグランドデザインを描けたことにあるのではないでしょうか。
合理的思考、明確な判断基準、一貫した人事管理、革新的な経済政策は、現代の理想的な上司像として十分に通用します。

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出口 治明(でぐち・はるあき)

立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授

1948年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、日本生命保険に入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年退職。同年、ネットライフ企画(現・ライフネット生命)を設立し、社長に就任。2012年に上場。2018年よりAPU学長。読んだ本は1万冊超。主な著書に『生命保険入門 新版』(岩波書店)、『全世界史』(上・下、新潮文庫)、『一気読み世界史』、『一気読み日本史』(日経BP)、『自分の頭で考える日本の論点』(幻冬舎新書)、『教養は児童書で学べ』(光文社新書)、『人類5000年史』(I~VI、ちくま新書)、『0から学ぶ「日本史」講義』シリーズ(文春文庫)、『日本の伸びしろ』(文春新書)、『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)、『復活への底力』(講談社現代新書)、『「捨てる」思考法』(毎日新聞出版)など多数。


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(立命館アジア太平洋大学(APU)前学長・名誉教授 出口 治明)
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