■91歳のインフルエンサー
「ちょっと、2、3個、つまんで食べてみて。これね、昨日の“晩酌の友”! 牛肉に野菜をガバッと入れたらだしの素を入れて、簡単なのよ。ゴボウが美味しさの秘密。ゴボウをささがきにして入れるだけで、二味くらい変わっちゃうのね」
インタビューの終盤、大崎博子さんは冷蔵庫からラップに包まれた皿を取り出し、お菜を目の前に差し出してくれた。レンコンとゴボウ、ニンジン、ピーマンなどの色とりどりの野菜と牛肉を炒めた、ボリュームタップリのまさに“完全食”だ。
「晩酌の友達」とは毎日、「X」にアップする大崎さんの夕食のこと。毎晩、晩酌を欠かさないから必然、その「友」となる。
大崎博子さん、当時91歳。練馬区にある都営住宅で一人暮らしを謳歌しながら、自らを「高貴香麗者」と称し、生活の端々を投稿。連日つぶやく「X」のフォロワー数はなんと、21万8000人。太極拳、麻雀、韓流アイドル、韓国ドラマなどへの手放すことのない好奇心と、凛と一人立つ、唯一無二の暮らしが多くの人を惹きつけていた。
私自身、会った瞬間、立ち姿に一瞬で魅了された。小柄で痩身、ピッタリとしたスキニージーンズに包まれた足は驚くほど細く真っ直ぐで、風になびく藤紫色の髪が美しく、スッと立つ確かな体幹に太極拳の鍛錬を思わずにはいられない。
きちんとした化粧、センスあるさりげないアクセサリーが、大崎さんが醸すキリリとした雰囲気によく似合っていた。サバサバとした口調にキッパリした動作、その全てに、依りかからず生きてきた「これまで」があった。
■乾杯の約束をして…
我々取材班が訪ねたのは、24年7月9日のことだった。大崎さんの手料理をいただいた感激に、「今度、絶対三世代(60代の私が娘、30代の編集者が孫)女子会に行きましょう! 乾杯しましょうね」と盛り上がり、活気に満ちた取材となった。
そのまさか約2週間後である7月23日に、大崎さんが永眠されるなんてことは、微塵も脳裏によぎっていなかった。近いうちに三世代女子会は行われるし、なんなら帰りに編集者と「大崎さんは絶対100歳以上、いや、もっとずっと長生きされるに違いない!」と確信に満ちた会話をして帰路に就いたくらいだ。得難いパワーを、たくさんいただき……。もちろん、そのパワーは今も胸にある。
いまだに突然の別れを信じられずにいるが、今は亡き大崎博子さんにお話いただいた、彼女の人生を追悼の気持ちとともに振り返りたい。
■夫とは「生き別れ」
博子さんは1932(昭和7)年、茨城県下妻市に「下駄屋」を営む両親の下、6人きょうだいの第3子として生まれた。
戦後復興期の東京。18歳の少女は故郷を離れて、東京という新天地で生きることを選んだわけだが、当時、若い女性が単身、上京すること自体、珍しいことではなかったか。
「東京へ出てきて、姉のところへ居候をして……。何かに打ち込むわけでもなく、くだらないことをやっていたね」
大崎さんは東京での“青春時代”を、「くだらないこと」とサラリと流す。結婚について聞いたときも、そうだ。
「機会があって結婚しました、それでいいじゃない? 30歳くらいのときかな。28とか、29とか、親に反対された結婚でした。昭和43年、36歳のときに娘が生まれて、44年、45年ころには別れたね」
1960年代の女性の平均初婚年齢は24歳、当時としては晩婚の部類にあたる。さらに36歳での初産は今では珍しいことではないが、当時としては高齢出産に当たるはずだ。なんと進歩的なことか。
「今は『バツ1』とかってみんな普通に言うけど、当時は離婚なんてないころなので。『ご主人は?』って聞かれて、『今は一人です』って言うと、『亡くなったんですか?』って聞かれるのね。だから、『生き別れです』って答えていました」
■娘が後ろ指をさされないように
離婚した女性が養育費をもらわずにわが子を育てていくのは、今ですら並大抵のことではない。当時、博子さんが立たされた逆境は想像以上に厳しいものだったはずだ。そんな博子さんを支えたのが、姉だった。
「姉夫婦が営む喫茶店のすぐそばにマンションを借りて、喫茶店を手伝わせてもらっていました。幼稚園の送り迎えへ私が行けない時は姉が行くとか、代わりに姉家族のごはんは全部私が用意して、そこで私と娘も一緒にごはんを食べさせてもらって。おかげで、食費があまりかからなかった。姉の子どもたちとも遊べたし、大家族で育つことになって、娘にとっては私と二人きりじゃなかったのは良かったように思います」
生活はギリギリだったが父親がいないからと娘が後ろ指を指されないよう、娘の礼儀作法に気を配り、習い事もさせた。「生き別れ」が肩身の狭い時代にあって、それは子育てで気の抜けないことでもあったという。
■50歳、未経験で衣装アドバイザーに
シングルマザーとして、子育てと生活に追われていたら、40代はあっという間のように過ぎた。ようやく経済的安定を得たのは50歳のころだ。
大崎さんは50歳で、「衣装アドバイザー募集」という新聞広告を見て、履歴書を手に募集先の「八芳園」へと向かった。
「結婚式などの衣裳担当の募集でした。私は洋服も着物も好きだったから、これだと思ったの。ちょうどバブルの時期で、結婚式に何百万もかける時代でした。そのおかげだと思うけど、正社員で採用されて、ここから厚生年金もついてね」
八芳園での日々は、大変ながらも、すごく充実したものだったという。
「お嫁さんに打ち掛けを着せたり、衣装を畳んだりするのだけれど……全部がとても重くて驚いた。でも、それ以上にすごく楽しかった。華やかな喜びの場に接することができたのもよかったし、好きなことでお役に立つことができたから」
60歳で「八芳園」を定年退職した後は、別のホテルで「衣装アドバイザー」として週に3回、アルバイト勤務を続け、70歳まで現役で働いたという。
ようやくゆっくり老後生活を送れる……現役を退いた70代前半のある日、大崎さんは「胃」に違和感をもった。
■胃がんが発覚。3分の2を切除
「いつものようにお酒を飲んでいたら、なんとなく胃が変だったの。それで医者へ行って、胃カメラをやったら、がんだった。
がんの宣告を受け、病床で大崎さんが願っていたこととは――。それはおそらく、十中八九、誰もが予想しないことだった。
「固く決意したのは、もう一回、私は、私を、お酒を飲める身体に戻すぞ! ということ。お酒を飲んでいてがんになった場合、お酒を断つという人がほとんどらしいけれど、私はお酒を飲むことこそが回復のモチベーションだったの」
■大崎さん流「お酒を飲むためにリハビリ」の日々
予想外の回答に戸惑っている筆者を気にせず、大﨑さんはつづける。
「だってね、私があれだけ好きだったお酒を、病気のために飲めなくなっちゃうのって悔しいなって思ったの。私、お酒を飲むためのリハビリも頑張りましたからね」
お酒のリハビリとは一体……?
「胃を切っているから、最初は飲めないわけよ。だから、つまみと一緒に食べる“型”から練習よね。お寿司屋さんに行って、握りを6等分くらいに切ってもらって、お酒はお猪口に入れてそろそろと舐めるところから。少しずつ量を増やすうちに、ちょこちょこ飲めるようになって。ずっと練習してきて、今に至ります。
「私の場合、お酒が身体に合っているから。お酒は薬って思っているから、休肝日がないんですよ。薬はやめる必要ないですよね。だから、休肝日を作らない。私、お酒が悪いと思ってないから。好きなものを、悔いなく。それで、いいよねって」
若いときはハイボールとタバコがもっぱらで、お酒はずっと、大崎さんの日々と共にあったもの。まさに、苦楽の友として。
■おおらかな孤高の食卓
現場を退き、娘も結婚して異国へ旅立ち、91歳きままな一人暮らし。夕方になるのが、毎日の楽しみだと語られていた。
17時になれば、台所で何かを作り始める。晩酌はじまりのビールはキンキンに冷やしたグラスで飲むのが、こだわりだ。こたつテーブルが定位置で、ネットフリックスでドラマを見ながらの晩酌が定番。
「日本酒の時は、お猪口で飲むんですよ。ビールも、缶で飲むことはしない。売っているパックでそのまま食べることも、絶対にしません。既製品であっても、お皿を使うようにしています。きっと、そういうのが大事ね」
「ほら、良かったらこれもつまんで。糠漬けの古漬けを塩出ししたら、油で炒めて、だしの素をちょっと入れて、胡麻と鰹節をかけて。酒のつまみに最高なの。足りなかったら、お醤油をかけても美味しいのよ。ご飯にも合うから、私はよく〆にご飯にかけちゃって食べるの」
すぐに会える、また話せると思っていたから、実はまだ試していない。
今宵は冷蔵庫にある浸かり過ぎの古漬けを、大崎さん指南のもとにつまみにしよう。そして、大崎さんに出会えた僥倖に感謝し、心からの献盃としたい。
(後半につづく)
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黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)、『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)などがある。
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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)