箱根駅伝に70回出場している名門大学の陸上部に入部を断られた男は、諦めが悪かった。「見返してやる」。
8年後、100kmを競うウルトラマラソンの世界選手権で見事優勝した。昨年末、2連覇を目指し向かった先はインド。想像を絶する過酷な“旅”を終えた男のランニングにかける“尋常ではない境地”とは――。
■インドでの死闘
2024年12月、岡山春紀(30歳・コモディイイダ)はインド南部にある州都バンガロールにいた。第32回IAU100km世界選手権に出場するためだ。フルマラソンおよそ2回半。岡山は連覇を目指すための準備を万全にしてきたが、想像を絶する過酷な旅路となった。
レースは、ウォームアップラップとして約2.7kmを走った後、大学構内にある一周5km弱のコースを20周する。
バンガロールは標高900mほどだが、「朝6時ぐらいのスタートでも湿気があって暑く感じました」と岡山。しかも、路面はアスファルトにもかかわらず、「結構デコボコがあったりして、走りにくかった」という。また日本では考えられないことだが、コース上に野生の犬が寝そべり、猿まで出てくる環境だったという。
レースは“日本人対決”になった。
序盤から2年半前の前回覇者の岡山と別の大会で100kmマラソン6時間06分08秒の日本記録を持つ山口純平(ELDORESO)が並走した。しかし、8周目から岡山が苦しくなり、徐々に引き離されていく。
「気温は20度くらいでも日差しが出ると暑くて、自分は50kmぐらいで脱水になっちゃったんです。ペースが落ちただけでなく、手がしびれてきて、耳が聞こえなくなりました。ゴールできるか分かんないぐらいきつくて、ラスト1周はちょっと歩いたりして、本当にギリギリでしたね。なんとか死ぬ気で走った感じです」
過酷なレースは山口が6時間12分17秒で制して、岡山が6時間37分54秒で3位。4位に曽宮道(そみや・とおる)(見次クラブ)が入り、各国上位3人の合計タイムで争う団体の部で日本は3連覇を達成した。
「めっちゃ長かったです。過去の100kmレースで脱水症状になったことは何度かあるんですけど、一番きつかったです。後半は4番手を走っていたんですけど、1人、途中棄権したんです。銅メダルを獲得できて、運が良かったです(笑)」
粘りの走りがメダルを引き寄せたわけだが、脱水症状の原因は直前の食事にあった。宿泊したホテルの食事が合わなかったのだ。
「インドらしく大量のスパイスを使った料理ばかりで、あまり食べられるものがなかった」という。
「以前、インドで開催された大会でお腹を壊したこともあったので、ホテルの食事はなるべく控えました。レース当日は持参したカステラ、餅、エネルギーゼリー。レース中はエナジージェルやバナナを摂取したんですけど、前日の食事をあまり食べられなかったのが脱水症状の原因かもしれません」
個人で銅、団体で金と2つのメダルを獲得した岡山だが、「3位という結果は悔しい気持ちが強いです」と振り返った。
■長距離ランナーの挫折と大逆転劇
岡山の競技人生はかなり異質だ。箱根駅伝の出場を夢見て、熊本県の鎮西高校から古豪・東京農業大に進学したが、故障中だったこともあり、まずはランニングサークルで競技を継続。ランニングサークルで競技を続け、1年後に陸上部に仮入部できたが、入部条件(7月までに5000mで15分00秒を切ること)をクリアできず、市民ランナーになったのだ。
「本当に悔しかったです。でも、悔やんでも仕方ない。気持ちを切り替えて、東農大の陸上部には負けない、見返してやる、という気持ちになったんです。そのとき思ったのは、自分はチームにいると故障をしてしまう。ひとりで自分のペースでやってみようと決断したんです」
陸上部を去った岡山は自ら考えてトレーニングを組むようになる。
参考にしたのが当時、「公務員ランナー」として多くのマラソン大会で大活躍していた川内優輝(38歳)のトレーニングメソッドだった。練習量を思い切って減らすと、不思議なことが起こった。高校・大学時代に壁だった5000m15分をすんなりと切ったのだ。
その後はマラソンで結果を積み上げていき、大学4年時には市民ランナーとしてサイパンマラソン、新潟シティマラソンを制して、地元の熊本城マラソンを2時間22分45秒の自己ベスト(当時)で優勝した。
ところが、実業団チームからの勧誘は一切なく、駅伝部があったコモディイイダに一般社員として入社。強化選手は一般業務が大幅に免除されるが、岡山は通常業務(8時間勤務)をこなしながら、競技を続けた。
2020年2月の愛媛マラソンで2時間14分53秒のチーム新記録(当時)を樹立すると、強化選手となり、勤務時間が2時間少なくなった。軽トラックによる移動スーパーの営業を6時間こなしているが、練習時間を確保できるようになったという。
そして超長距離レースのウルトラマラソンで才能が開花。2022年9月のIAU100km世界選手権(ベルリン)で優勝して「世界一」に上りつめた。
「本当にうれしかったです。ゴールした後は涙が止まらなかった。
大学時代もいろいろありましたけど、悔しい経験があったからこそ、世界一になれたのかなと思います。競技を続けてきて良かった。夢を追ってきて、本当に良かったと思います」
漫画やドラマではこれでハッピーエンドとなるわけだが、リアルな人生はまだまだ続いていく。20代後半で世界一になった岡山に変化はあったのだろうか。
■100kmランナーのリアル
「一部メディアに注目していただいきましたし、母校・東農大の学長や、出身地の熊本県山鹿市長を表敬訪問することができました。それに大会のゲストランナーやランニングイベントに呼んでもらえるようになったんです」
プライベートでは、「世界チャンピオンになったらプロポーズすると決めていた」という岡山。彼の挑戦をサポートしてきた彼女(侑子さん)と結婚したのも人生のなかでは大きな変化になるだろう。
しかし、オリンピックの注目種目でメダルを獲得したアスリートのような“劇的変化”が起きることはなかった。所属会社の待遇も変わらなかったという。岡山は超ロング走にはめっぽう強いが、10~20kmほどの距離は得意ではない。そのためニューイヤー駅伝では出場できず、チーム内の評価も上がらなかったのだ。
「100kmで世界一になっても給料は上がらなかったですし、仕事も変わりません」
一般業務が完全に免除されている選手がいるなかで岡山は移動スーパーの営業をこなす日々が続いている。
またイベントの出演料もお車代程度のものが多いようだが、本人は「それでも大きな不満はないんです」と言い切る。
「実業団選手の主戦場は駅伝なので、会社の駅伝部に入れさせてもらっているだけでありがたいと思っています。監督からも100kmの強さ、適性を評価していただきました。自分のなかでも自信がつきましたし、長い距離は一番の強みなので、今後も100kmレースにチャレンジしていきたいんです」
目下の目標は、100km世界選手権の認知度を高めることだ。
「残念ながら(マラソンなどと異なり)世界一になっても国内でさほど注目されません。実際、世界大会といっても趣味の延長みたいな雰囲気もあって。賞金はないですし、世界大会の価値としては正直低いのが現状です」
100kmはウルトラマラソンのなかで世界陸連が唯一公認する種目だが、五輪や世界陸上の種目には入っていない。そして100km世界選手権の主催は国際ウルトラランナーズ協会になる(世界陸連は協賛)。
世界陸連が主催する世界陸上は規模も賞金も桁違いだ2023年ブダペスト大会では1位7万ドル(当時のレートで約994万円)、2位3.5万ドル(同約497万円)、3位2.2万ドル(同約312万円)。世界新記録なら10万ドル(同約1420万円)のボーナスがあった。これとは別に日本陸連からメダル獲得者への報奨金があり、金が300万円、銀が200万円、銅が100万円。世界一に輝けば、ざっと1300万円ほどの収入になるのだ。

一方、100km世界選手権は賞金が出ないだけでなく、渡航費や現地滞在費は基本、自費になる。岡山の場合は所属会社が負担したが、サポートのまったくない選手はどんなに活躍しても赤字になる。残念ながら“ビジネス”として成り立っているわけではない。
また実業団選手としては、100kmが、マラソンや駅伝にはうまく結びついていないのが悩ましいところだ。
「100kmは別物ですね。ダメージはフルマラソンの倍以上。マラソンは2週連続で出場したこともありますが、1回100km走ると1カ月はずっとカラダがきついんですよ。なかなか疲労が取れないだけでなく、スピードも落ちてしまいます。フルマラソンは100kmにつながるんですけど、100kmをやっても感覚的にはフルマラソンにはつながらないんです」
ハイリスクローリータン。それが、100kmレースといえるかもしれない。損してばかりで得することはあまりない。嫌ならやめればいいが、やめない。大学陸上部の門前払いという底辺から這い上がった岡山は本当に諦めが悪いのだ。
「100kmは自分の持ち味が生かせる種目なのでやり続けたいです。100kmを走った自信というか、達成感はフルマラソンとは違います。これはなかなか味わえない感覚なんです。できれば今後も100kmを中心にやっていきたい。目標は世界記録(6時間05分35秒)の更新です。できれば人類で最初に6時間を切りたいですね。ただ、それだけではなく、スピードをつけて駅伝でも活躍したいですし、フルマラソンでも自己ベストを更新したい」
100km世界選手権に賞金はないが、海外のウルトラマラソンは賞金が出る大会もある。なかでもメジャーなのは南アフリカで開催されるコムラッズマラソンだ。距離は約90km。2万人近いランナーが参加して、優勝者には400万円近い賞金が出る。
「100年以上の歴史がある大会ですし、日本人チャンピオンはまだ誕生していないんです。前回優勝した選手は自分が優勝した100kmの世界選手権で2位だった選手なので、頑張ればいけそうな気はします」
そう話すと笑顔を見せた岡山。世界記録を更新した後、またはコムラッズマラソンで優勝した後、岡山が30代の人生をどのように疾走するのか注目していきたい。

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酒井 政人(さかい・まさと)

スポーツライター

1977年、愛知県生まれ。箱根駅伝に出場した経験を生かして、陸上競技・ランニングを中心に取材。現在は、『月刊陸上競技』をはじめ様々なメディアに執筆中。著書に『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。最新刊に『箱根駅伝ノート』(ベストセラーズ)

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(スポーツライター 酒井 政人)
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