■ソ連が犯した許されざる国家犯罪
いわゆる「シベリア抑留」とは、スターリン指導下のソ連が犯した明確な国際法違反である。終戦後の昭和20(1945)年8月23日、スターリンは「第9898号決定」に基づき、「日本人将兵50万人を捕虜とせよ」との旨を発令した。占守島(しむしゅとう)の戦いでの躓きから北海道の占領を諦めたスターリンは、日本人の強制連行へと舵を切った。
長きにわたった独ソ戦によって国力を大きく疲弊させていたソ連は、大量の労働力を欲していた。また、スターリンには日露戦争に端を発する「対日報復」の思いも強かったとされる。そんな中で国家的な「拉致」計画は実行に移された。スターリンは「捕虜」という言葉を使ったが、実際には「終戦後の拘束」であることから国際法上の捕虜でさえない。
ソ連は武装解除に応じた満洲各地の日本軍将兵たちを、1000人単位の大隊に振り分けた上で強制連行。連行された日本人の中には、軍人だけでなく民間人も含まれていた。また、樺太や占守島で戦った将兵たちも抑留の対象とされた。このようなソ連の行為は「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証したポツダム宣言第九項に違反する。また、民間人を連行した点は、当時の国際慣習法にも反する。
■あるシベリア抑留者の証言
宮崎清さんは大正13(1924)年の生まれ。東京の雪ヶ谷の出身である。京王商業(現・専修大学附属高等学校)在学中は野球部に所属し、エースとして夏の甲子園大会にも出場した。サイドスローからの「シュート」が得意の決め球だった。
昭和18(1943)年12月、宮崎さんは同校を卒業。しかし、宮崎さんは野球への思いを諦められなかった。宮崎さんは仕事と野球を両立できる職場を探した。すると京王商業の二つ上の先輩が、満洲電信電話株式会社(満洲電電)の野球部に在籍していることを知った。満洲電電は満洲国及び関東州の電気通信事業を統一して運営していた国策会社である。
宮崎さんはその先輩を頼るかたちで渡満を決意。父親は反対したが、宮崎さんは野球への情熱を貫くことにした。昭和19(1944)年1月、満洲へと出発。
宮崎さんは満洲電電の系列会社の野球部に入り、そこでも投手になった。満鉄の野球部や、朝鮮の「オール京城」といったチームと試合をしたという。寂しい時には、父親からもらったハーモニカを吹いた。「故郷」「誰か故郷を想わざる」といった曲を自然と選んでいた。
■「敗戦は当然」と思ったワケ
昭和20(1945)年5月、宮崎さんは現地で応召し入隊。満洲国の綏芬河(すいふんが)という場所で初年兵生活に入った。綏芬河はソ満国境の地である。宮崎さんは陣地構築などの軍務に追われた。山砲(さんぽう)を分解して山上まで運んだり、ソ連軍の動向を観測する任務などにもあたった。
上官からの指導は常に厳しいものだった。宮崎さんの右肘は幼少時の怪我の影響で少し曲がっていたが、そのことが災いしたという。
「銃剣での訓練などの時、『肘が伸びていない』というので軍曹から怒られるんです。よく殴られましたよ。いじめられましたね」
8月9日、ソ連軍が満洲国に侵攻。ソ連と国境を接する綏芬河にも緊張が走ったが、宮崎さんの所属部隊が駐屯していた山中は、主戦場から1キロほど離れていた。宮崎さんは戦闘に参加することはなかったという。程なくして8月15日を迎えたが、宮崎さんが終戦を知ったのはそれから1週間ほど経った頃であった。
「私たちの部隊は、8月下旬になって『どうやら戦争が終わったらしい』ということで、ようやく山を下りたんです」
敗戦について宮崎さんはこう語る。
「当たり前だなと思いましたよ。というのも、関東軍は次々と南方へと転出して行き、満洲に残っているのは私のような初年兵か、もしくは年取った補充の兵ばかりといった状況でしたから」
■ソ連兵がついた嘘
中川州男大佐率いる精鋭の歩兵第二連隊などが太平洋戦線に抽出され、満洲における守備力は大きく減じていた。その後、宮崎さんの部隊は牡丹江(ぼたんこう)へと後退し、そこで武装解除に応じた。
(ようやく帰れる)そう思った宮崎さんだが、現実は残酷だった。宮崎さんの部隊は徒歩で鉄道の駅まで向かった後、そこから貨車に乗せられた。
「ウラジオストクの奥地だとは思うのですが、正直、地名さえもよくわかりません。自分たちがどこにいるのかもわからないというのは、やっぱり不安なものでした」
こうして宮崎さんの抑留生活が始まったのである。シベリアでの日々について、宮崎さんの追想が始まる。
「森林を伐採する作業が、私たちに課せられた仕事でした」
■この世の地獄
作業は二人一組で行われた。「ピラー」と呼ばれる半月型の大きなノコギリの両端を二人で持ち、それを引いて松や杉の大木を切る。初めはやり方もわからず、作業ははかどらなかった。しかし、1日に何十平米というノルマがあった。ノルマを達成できないと、ただでさえ少ない食事の量をさらに減らされた。友人の一人は、倒れた木の下敷きになって命を落とした。
「逃げようとしても、身体が衰弱していて動けなかったのかもしれません。むごいものだと思いましたね」
冬になると、気温はマイナス40℃まで下がった。
抑留者を悩ませたのが、ノミやシラミだった。身体中に赤い斑点ができ、寝ている間も耐え難い痒みに襲われた。
「いわゆる南京虫がひどかったですね。あれに血を吸われるんです。とにかく痒くて痒くて」
■抑留中、最もつらかったこと
しかし、最もつらかったのは、やはり食糧の不足であった。ソ連側は抑留者たちへの「給食基準」を設けていたが、実際にそれらが守られることはなかった。抑留者たちは空腹を満たすため、蛇やトカゲなど、見つけた生き物は何でも食べた。やがて皆、骨と皮だけのような身体となった。中には、逆に身体のあちこちがむくむ者もいたという。
稀に塩が支給されたが、抑留者たちは、「塩を大事にしないと生きていけない」と話し合って大切にした。自分たちでつくった小さな袋に塩を入れ、それを少しずつ舐めた。野生の松の実も口にしたが、食べ過ぎると下痢を起こした。下痢になることは死を意味した。
結局、約1000人いた仲間が翌年の春には100人ほどにまで減っていたという。近くの谷間が一応の埋葬地となったが、土が凍ってコンクリートのように固まっており、穴を掘ることもできなかった。仕方なく雪をどけて遺体をそこに置くと、やがて豪雪に埋もれて見えなくなった。
しかし、春先になって雪が溶けると、遺体が姿を現した。腐敗した臭いにカラスなどが集まってくる。そんな群がってきた生き物たちを捕まえて食糧にした。宮崎さんを支えたのは「何が何でも帰る」という気持ちであった。
■抑留者の総数は約57万5000人
抑留生活は実に3年以上にも及んだ。宮崎さんが帰国の途に就いたのは、昭和24(1949)年のことであった。ソ連極東のナホトカ港から引揚船で舞鶴港に向かった。日本の大地が見えてくると、青い松並木が目に映えた。
「シベリアで毎日、松の木を伐採していましたが、シベリアと日本の松は違いますからね。真っ青な枝をした松が、無性に懐かしかったですね」
多くの抑留者たちの「祖国での第一歩」の地となった舞鶴港は、昭和20(1945)年10月7日に引揚船の第一号となる「雲仙丸」を迎え入れて以降、引揚港として重要な役割を担った。同港は終戦から最後の引揚船が入港した昭和33(1958)年までの13年間で、66万人以上もの引揚者と、約1万6000柱のご遺骨を迎えたとされる。
船から降りると、宮崎さんは出迎えの婦人会の人たちから、「長い間おつかれさま」と次々に声をかけられた。宮崎さんは、(日本語は美しいなあ)と感じたという。
結局、ソ連によって強制連行された抑留者の総数は約57万5000人に及ぶとされる。1993(平成5)年、ロシアのボリス・エリツィン大統領はシベリア抑留について、「非人間的な行為」と述べて謝罪の意を表した。しかし、ロシア側は今も充分な史料の公開には及んでいない。
■これだけは書かないでください…
以下は一つの告白録である。実は私は宮崎さんへの取材時、一つの秘話を聞いていた。しかし、その話は宮崎さんからの、「これだけは書かないでください。私が亡くなったら好きにしてくれていいですから」という懇願があったため、以前に書いた原稿ではこの部分を曖昧な表現に留めておいた。宮崎さんはその後に逝去された。よって、ここにその逸話を記録したい。
その日、私は宮崎さんのご自宅近くの喫茶店でお話をうかがっていた。そして、取材が終盤に差し迫った頃、宮崎さんが俯きながら次のような話を語ってくれたのである。
「実はですね、本当にひどい話なのですが、皆、極限まで腹が減っていますからね。それで、亡くなったばかりの戦友の遺体をですね、まあ、その、ね」
私の脳裏に哀しき場面の想像が浮かんだ。察しは充分についた。しかし私は職業上、さらなる言葉を引き出さなければならなかった。
「どういうことでしょうか?」
私の残酷な問いかけに、宮崎さんが言葉を継いだ。
■秘密の告白
「そう、ですからね、こういうことですよ。つまり、食べるわけなんですよ。そう、食べるんです。友の肉を。わかりますか?」
しばし、沈黙の時間が流れた。私はゆっくりと頷いた。私は宮崎さんの口から発せられた言葉の重みに押しつぶされそうになりながらも、さらに必要となる非情な確認を加えた。
「それは宮崎さんも口にされたという理解でよろしいでしょうか」
宮崎さんは力なくこう答えた。
「そうです。その通りです」
宮崎さんは寂しげに続けた。
「ひどいもんですね。しかし、生き残るためには他に方法がなかったんです。信じられますか? 食感は今でも記憶にありますよ。味なんかないですよ。もう何もわかりませんよ」
飢餓状態にある抑留者たちは、こうして自らの命脈を繫いだのである。
「それが抑留の真実です。私たちは間違っていたのでしょうか」
老翁の問いかけに、私は小さく首を横に振ることしかできなかった。
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早坂 隆(はやさか・たかし)
ルポライター
1973年、愛知県生まれ。『昭和十七年の夏 幻の甲子園』で第21回ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。日本の近代史をライフワークに活躍中。世界各国での体験を基に上梓した「世界のジョーク」の新書シリーズも好評。
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(ルポライター 早坂 隆)