「70歳を過ぎたら、急に“順位”が上がったんです」。そう笑うのは、プロダクトデザイナーの秋田道夫さん。
誰もが収入や立場を失いがちな年代で、むしろ「今が一番楽しい」と話すその姿は、新しい時代のロールモデルだ――。
■引退年齢に差し掛かってから仕事が増えた
70歳を過ぎても、肩肘張らず、笑顔を絶やさず、自ら生み出す造形と言葉で人を魅了し続ける人がいる。プロダクトデザイナー、秋田道夫さん。いわゆる“引退年齢”に差し掛かってから、むしろ仕事が増えているという。
もともとデザイン業界では知られた存在だったが、4年前にSNSで発信を始めると、その言葉の魅力に一気に若い層にもファンが広がった。以後、出版のオファーも相次ぎ、著作の数は最新著の『センスのはなし』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)で7冊目となった。本人曰く、「70歳を超えてからが一番楽しい」。
「69歳と70歳では、まるで世界が変わりました。この1年で、急に社会の中の順位が上がったというか。60代後半までずっと平坦だったのに、70からはぐっと抜けた感じがあるんですよ」
■忘れられない「シルバーパス事件」
そのことを実感したのは、こんな出来事だった。
「70代以上の東京都民が利用できる『シルバーパス』というサービスの申請に行ったんです。これは都営のバスや地下鉄を自由に使える一年間のフリーパスなのですが、バスや都営地下鉄が一年間乗り放題になるのは魅力です。
発行費用は2パターンあって安い方は1000円で、しかし一定以上の収入があると約2万円になるんです。まあ頻繁にバスや地下鉄を利用する人には2万円でも魅力ですし、クルマに乗らずにバスに乗ろうというきっかけになれば「エコ」ですし。
その制度を知って手続きが始まる初日の朝、バスターミナルの事務所に手続きに行ったら1000円コースの列にはすでに50人ぐらいの人が並んでいて、2万円コースは2、3人しかいなくて、しかもマイナンバーで年齢を証明するだけなので、手続きもすぐ終わるんです。この鮮やかなコントラストを目の当たりにしたことは価値があると思いました。すごくリアルです。まあ、その日わたしがどちらの列から見ていたかは内緒です」
多くの人が「定年後」に備えて節制し始めるなかで、秋田さんはむしろ自由度を上げている。収入が減る、評価の場が少なくなる、人との接点が減る……そんな70代の“定型”を、あざやかに裏切ってみせる。
■機嫌よく働くおじさんが少なく貴重な存在
秋田さんは、自身の70代を「今が一番機嫌がいい」と言い切る。だが、そこに至るまでには、意識的な“設計”があった。
「40歳を過ぎた頃に『60歳になった時に、若い人から『仕事を手伝ってほしい』と思ってもらえる人になろう』と決心したんです。信号機やセキュリティーゲートなど公共機器の仕事を積極的に受けるようになった背景には、そういう気持ちがありました。公共機器は製品生命が長いですから。
おかげさまで目標にしていた60歳もクリアして65歳も超えて70歳を過ぎた今でも、こうやって仕事を続けていると、すでに達成感は“正直、ハンパない”です。なんだか雲の上を突き抜けた気分で、いつも晴れやかで機嫌が良くなるのは道理です」
機嫌の良い人と仕事ができるのは、相手にとっても楽しい時間になる。結果として、また仕事のオファーが来るという好循環が生まれている。
もう一つ秋田さんが大事にしているのは「フラットなコミュニケーション力」だ。
「僕、誰に対しても同じ態度なんですよ。コンビニのお姉さんにも、企業の社長にも。昔から“さん付け”で話すし、年下に対してもタメ口は使わず、丁寧語で話すと決めています。それだけで距離感が心地よくなるんですよね」
服装も、ハイブランドで身を固めるようなことはしない。清潔感を第一に、アメリカンカジュアルのヴィンテージなど「分かる人には分かる」品を好んで、「これ、実は」と会話の彩りにする。年を重ねるほどにカジュアルを上手に着こなすのが、秋田流の「おしゃれ過ぎないおしゃれ」だ。
■人生の後半戦こそ“幅”を楽しむ
70代になってなお衰えない“現役感”を放つ秋田さん。その理由の一つが、「今の世の中」に対するアンテナの感度の高さだろう。
話を聞けば聞くほど、秋田さんの日常は、「リサーチ」と「実験」の連続だ。買い物一つとっても、「知りたい」「分かりたい」という明確な意図がある。
「最近、買ってよかったのはGITZOというフランス製の三脚です。プロのカメラマンが使う一級品の道具で、三脚だけで10万円くらいする。なかなか手が伸びなかったのですが、メルカリで格安で見つけて。昔は買えなかった憧れの品が手に入った喜びもあるし、“一流”の使い心地を試したかった。やっぱり脚部分の接続が秀逸で、安定感が違いましたね」
「“10万円の意味”が分かった」とご満悦の秋田さんが買った三脚の用途は、最近始めた動画撮影。たとえば、仕事の合間にサッと絵を描くときに、手元の作業をiPhoneで撮ってみる。SNSに投稿してみる。これもまた実験だ。「iPhoneで撮影するのにGITZOなんてオーバースペックも良いところですが、なんでも経験と“遊び”だと思っています」。
■自己投資じゃなく、“勉強投資”
かつて長男と二人でパリを旅したとき、宿泊先をあえて1泊5000円の学生街にある安宿と1泊7万円の凱旋門に近いルイ・ヴィトン本店奥にあるフォーシーズンズホテルの両方にしたのも、遊びを兼ねた勉強だった。

「間を取って3万5000円の三つ星ホテルに連泊するより、一つ星と五つ星に泊まった方が「学習効果」は高いですよね。高級ホテルに泊まってみたら、受付の男性の時計が安価なスウォッチだったのも貴重な発見でした。部屋の豪華な調度品の中に置かれたテレビの中で、日本のアニメ『うる星やつら』を観たのも印象的でした。一方で、一つ星のホテルには簡単な朝食もあり、無料でWi-Fiが使えるなどと非常にリーズナブル。パリを拠点にしていろいろな場所に行くなら、そのホテルは大いに価値ありでした。モノに対する価値を見る目は、自分の実体験で養われると思います」
「百円ショップを見て回るのも好き」という秋田さんにとって、日々の買い物や選択は、“学び”の機会だ。お金を使うことも「遊びながら学ぶ実験」である。しかし、「自己投資」という表現には少々違和感があるようだ。
「自己投資って、なんか自己満足感があるでしょう。『自分を高めるために、お金を使っています』と言わんばかりで。僕はもっとシンプルに“勉強投資”のつもりで買い物をしています。安いものも高いものも試して、『10倍の値段が付く価値ってなんだろう?』と考える。
それだけで、話のネタになるんです。そこにコミュニケーションの意味があるのではないでしょうか」
モノの価値を知ろうとする視点は、もちろん仕事にも生きている。「どんな選択にも理由がある」と信じる秋田さんだからこそ、そのデザインには機能美が詰まっており、結果として長く活躍できる「豊かな70代」につながっている。
■AIさえ「機嫌をデザインする道具」に
日々の「機嫌」そのものについても、秋田さんは意識的に整えている。
自分という存在が、周りの人々にとっての“風景”であると捉え、心地よい風景であろうと、身だしなみやSNSでの投稿に気を配る。秋田さんにかかれば、AIでさえ「機嫌をデザインする道具」になる。
「最近はXに搭載されているGrokというAIに、『秋田道夫さんの魅力は何ですか?』とあえて“さん”をつけて聞いてみたんです(笑)。自著のタイトルどおり『自分に語りかける時も敬語』の人ですので。するとなかなか気持ちのよい回答が返ってきて喜びました。きっとAIも聞いたのが本人だと知っているんでしょうね。忖度できるのはすばらしい技術ですね。これからは「縁側で日向ぼっこをしながら話を聞いてくれるのはAI」が良いかもしれないですね。
でも「軽い聞き方」をするとAIも「タメ口」で返してくるので『タメ口は好きではないので丁寧な対応をお願いします』と返事をしたりしています」
■老害と受け取られない技術はあるか?
一方で、年長者が陥りがちなのが、不必要に若年者の足を引っ張る「老害」の問題だ。この点に関しても、秋田さんは独自の工夫をしている。
「わたしは、自分の“文章年齢”をずっと30歳に設定しているんです。30歳が24歳の後輩に『こうするといいよ』って職場で語るくらいの温度感。実年齢の目線で語ろうとすると、どうしても説教臭くなるでしょう? 同じ内容でも現代風にアレンジしてから伝える工夫はしています」
ずっと30歳の目線で語る。だから、「老害」と言われることもない。むしろ、自分を“昔の自分の厳しい目”で見ているという。
「20歳の頃のまっすぐ前を見据えた青年に、今の自分は敵わないなあと思うのです。当時の自分の方が聡明だった。そんな昔の自分が納得するような内容か。それが考え方と話し方の基準になっています」
このスタンスが、無理な若作りをしない、自然な若々しさを保つ秘訣になっている。
「こうやってニコニコしているのも、若い人に選択の幅を示しているつもりなんです。デザイナーというと気難しい印象が先に立つかもしれませんが、こんな人もいるんだということを。変な言い方ですが、愛嬌があっても誰も困らないと思いますので」
まるで自らを公共物のように客観的にとらえ、誰かにとって心地よいものになるようにとデザインしている。そんな秋田さんの考え方は、人生の後半戦を明るく機嫌よく生きる希望になりそうだ。

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秋田 道夫(あきた・みちお)

プロダクトデザイナー

1953年、大阪府生まれ。ケンウッド、ソニーを経て、88年に独立。代表作にデバイスタイル「サーモマグコーヒーメーカー」、トライストラムス「IDカードホルダー」。生活家電・雑貨のほか、六本木ヒルズのセキュリティーゲートなど、公共機器も多数手がける。

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宮本 恵理子(みやもと・えりこ)

ライター・エディター

1978年福岡県生まれ。筑波大学国際総合学類卒業。2001年、日経ホーム出版社(現・日経BP社)入社。「日経WOMAN」、新雑誌開発、「日経ヘルス」編集部を経て、2009年末に編集者兼ライターとして独立。書籍、雑誌、ウェブメディアなどで、さまざまな分野で活躍する人の仕事論やライフストーリー、個人や家族を主体としたノンフィクション・インタビューを中心に活動する。ライターのネットワーク「プロシェア」、取材体験型ギフト「家族製本」主宰。

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(プロダクトデザイナー 秋田 道夫、ライター・エディター 宮本 恵理子)
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