■自殺未遂者がでた10代将軍家治の後継者問題
田沼意次(渡辺謙)の前で、ついあくびが出てしまった10代将軍徳川家治(眞島秀和)は、「すまんな、お鶴と夜更かしをしてしもうた」と語り、意次は「お励みのこと、なによりにございます」と答えた。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢~」の第19回「鱗の置き土産」(5月18日放送)
お鶴とは、大奥総取締の高岳(冨永愛)が連れてきた、家治の亡き正室にそっくりな女性、鶴子(川添野愛)のこと。嫡男の家基(奥智哉)を失い、自分の血を引く後継がいなくなった家治だが、鶴子とのあいだに実子をもうけようと思い立ったのだった。
そこに急使が「上様、主殿頭様(意次のこと)、ご無礼仕ります」といって駆け込み、「先ほど西ノ丸にて、知保の方様が毒をあおられた由、上様に宛ててこちらが」と告げ、手紙を差し出した。家治の側室である知保の方(高梨臨)は、手紙におおむね次のようなことを書いていた。
このたび京都から、亡き御台所によく似た中臈(ちゅうろう)を迎えたと聞いたが、結果、実の子ができれば、自分は徳川には無用の人間となるので、上様と自分の子で、いまは亡き家基のもとに行きたい――。
■吉宗が残した因縁
同じタイミングで、家治の養女になっている種姫(小田愛結)の母、すなわち田安徳川家の創始者である宗武の未亡人と、その息子で種姫の兄の松平定信からも、家治にいまから実子が生まれても種姫を娶るには年齢差が大きいので、種姫の年齢に見合う養子をもらってくれ、という願いが届けられた。
また、地保の方は一命をとりとめ、毒をあおったのは狂言だった可能性が浮上する。
この状況を受けて、家治は意次に「もう実の子は、あきらめたいということじゃ」と告げた。意次は「同じ徳川とはいえ、上様の血をまったく受けぬ者が将軍を継ぐのでございますぞ」と強く諭すが、家治は「じつのところ余の血をつなぐのが、怖いところもある」といって、身体不自由だった父、9代将軍家重の血を継承していくことへの不安を述べた。
家治は「ふたを開けてみれば、後を継げるような男(おのこ)はあの家にしかおらぬ」という。
そして「次回予告」では、一橋治済が「次の将軍には当家の豊千代を」と語るのが流された。
■すべては一橋治済の思惑通りに
では、この後、史実はどう展開するのか。天明元年(1781)、家治は世継ぎ選びを田沼意次に命じている。その結果、選ばれたのは一橋治済の嫡男、豊千代だった。
実際、一橋家の最大のライバルである田安家は、賢丸すなわち定信が白河松平家の養子に追いやられたのちに、その兄で病弱だった治察が死去したため、しばらく当主が不在の状態にあった。家治が第19回で語ったように、後継ぎは「あの家(一橋家)にしかおらぬ」状況だったのである。
「べらぼう」では、家治の次の将軍に内定していた嫡男家基の早すぎた急死は、治済が手を回した毒殺であるかのように描かれた。その設定は脚本家の創作だが、そこから多くのことが、治済に有利な方向に進んでいったことはたしかだ。
天明6年(1786)8月、家治はにわかに病に倒れ、そのまま死去する。こうなると、家治の信用が厚かった意次は、治済にはもはや邪魔な存在である。
■乗っ取りの計略はまだ続く
こうして翌天明7年(1787)、まだ数え15歳の豊千代が11代将軍家斉になった。そのもとで老中首座および将軍補佐になったのが、治済のいとこにあたる松平定信だが、将軍の背後には、実父として隠然たる力を握る治済がいた。
そして定信も、5年余りのちの寛政5年(1793)、老中および将軍補佐を罷免されてしまう。主要な原因のひとつは、治済に「大御所」の称号をあたえたいという家斉の求めを受け入れなかったことだとされる。その後は、まさに治済と家斉の天下だったといっていい。
治済はいわば徳川将軍家を乗っ取ったわけだが、対象になったのは将軍家だけではなかった。田沼意次の失脚も一橋家による幕府のお家騒動だった、ととらえた後藤一朗氏は、治済が行ったことを次のように評している(『田沼意次 その虚実』清水書院)。
「自らは、陰の大御所の座にすわり、国政の実権をにぎって、権力をほしいままにした。彼はこのようにして徳川宗家を乗っ取ったほか、三男斉匡を田安家へ養子にやって同家をその手に収め、自家は四男斉敦に継がせた」
だが、治済による乗っ取りの計略は、まだまだ収まらなかった。それに絶大なる力を貸すことになったのは、息子である将軍家斉の「好色」だった。
■17人の女性との間に53人の子をもうける
家斉は大奥に目を引く女性がいれば、手当たり次第に手をつけたという。側室が知保の方ともう1人しか知られていない前将軍の家治とは、実際、大変な違いで、たしかなところだけでも妻妾が16人いて、正室をふくむ17人の女性とのあいだに男26人、女27人、計53の子女をもうけたのである(死産や流産の数え方によって、55人とも57人ともされる)。
もっとも、乳幼児の死亡率がきわめて高かった当時のことだから、みな生育したわけではないが、それでも約半数は成人している。そして、その子女たちを縁組させることで、徳川家も、各地の有力大名家も、治済および家斉の血に塗り替えられていったのである。
まず、次男を次期将軍にすると決めたうえで(12代将軍家慶)、五男を御三卿の一角、清水徳川家の養子にし、その五男が早世すると七男を清水家に送った。御三家の紀州徳川家の養子にした九男が早世すると、七男を横滑りさせ、清水家には二十一男、続いて十一男を入れた。二十一男は紀州に横滑りになったのだ。
御三卿の田安家には十二男を入れたが、御三家筆頭の尾張徳川家に横滑りさせている。尾張徳川家には長女の淑姫も嫁がせていた。十九男も尾張徳川家に養子に入った。御三家で残る水戸徳川家には、七女の峰姫を嫁がせた。
もはやこんがらがって、なにがなんだかわからないと思うが、ともかく徳川宗家(将軍家)のみならず、宗家が途絶えたときに世継ぎを出す御三家と御三卿を、ことごとく治済と家斉の直系の血に入れ替えたのである。
■徳川も主要大名も一橋治済の血族に
徳川一族だけではない。男子は、鳥取藩池田家、津山藩松平家、浜田藩松平家、徳島藩蜂須賀家、福井藩松平家、川越藩松平家、明石藩松平家と、重要な親藩、譜代大名、それに外様の大藩を継いだ。
女子も、仙台藩伊達家、長州藩毛利家、会津藩松平家、高松藩松平家、佐賀藩松平家、姫路藩酒井家、加賀藩前田家、広島藩浅野家、鳥取藩池田家と、じつに錚々たる大名家に嫁いでいる。ちなみに、東京大学の赤門として残る加賀藩前田家上屋敷の門は、家斉の二十一女の溶姫が輿入れした際に建てられた御守殿門だ。
結果として見えてくるのは、一橋治済が息子の家斉を「種馬」として猛烈に働かせ、徳川のみならず日本中の主要な大名家に、自身につながる血を注ぎ込んだという事実である。むろん、家斉もそれを意識し、それにモチベーションを感じつつ、手当たり次第に女性を漁ったのではないだろうか。
それでよかったのかどうかはともかく、なかなか子供が生まれず、育たないという家治の「因縁」が断ち切られたことだけはまちがいない。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)