なぜ日本で政治の混迷が続くのか。立教大学の堀内進之介さんは「第46代内閣総理大臣の片山哲の足跡を知ることは、現代日本の政治状況を考える上で示唆に富む。
彼は戦後の日本で、国民の生活安定と向上のために本気で尽力した」という――。
■なぜ今「忘れられた総理」を語るのか
政治の世界では、時代を超えて同じ課題が繰り返し現れる。
2023年末から表面化した自民党派閥の政治資金パーティー収入を巡る裏金問題、立憲民主党と国民民主党など主要野党間の連携や共闘の模索、日本維新の会による「第三極」としての位置取りなど、現在の日本政治は明確な方向性を見出し難い状況にある。
経済面でも、OECD諸国の中でも高い水準にある相対的貧困率、約40年ぶりとされる歴史的な物価高騰下での実質賃金の継続的な低迷、正規・非正規雇用間の処遇格差といった構造的課題が深刻化している。
こうした政治的混迷、経済格差、社会の分断や党派対立が同時進行する状況は、実は戦後日本が何度か経験してきたものだ。危機の時代にこそ、過去の政治指導者たちがどのような選択をし、どのような結果を生んだのかを振り返る意味がある。
その一つが、1947年、敗戦後の混乱と極度の物資不足、激しいインフレーションの中で誕生した片山哲内閣の経験だ。経済再建、労働問題、連合国軍総司令部(GHQ)との関係調整といった複雑な課題に直面した日本社会党首班のこの連立政権の歩みは、現代日本の政治状況を考える上で示唆に富む。
しかし、この総理大臣は、たとえば鳩山一郎や吉田茂に比べて、知る人は多くないだろう。そこで、この「忘れられた総理」片山哲(1887-1978)の物語を振り返ってみたい。
■「クズ哲」が残した確かな実績
片山哲とはどんな人物だったのか?
彼は戦後の混乱期に、わずか9カ月で終わった短命内閣の首相だった。決断が遅く、リーダーシップに欠けるとして「グズ哲」とあだ名された政治家。
この評価は、異なる政治勢力間の合意形成を重視し、拙速な判断を避ける彼の政治スタイルに由来していた。
しかし、その「遅さ」の背後には、戦後日本の社会保障制度を築いた確かな実績があった。
労働基準法の制定(1947年)、児童福祉法の成立(1947年)、社会保険制度調査会の設置(1948年)など、現代日本の社会保障制度の基礎となる法整備を進めたのだ。こうした片山内閣下での構想や準備作業が、後の制度設計に重要な影響を与えたことは見過ごせない。
そこで、本稿では昭和恐慌期から戦後首相就任までの片山の歩みをたどる。戦前の政党政治、軍国主義の台頭、そして戦後民主主義という激動を生き抜いた「忘れられた総理」の足跡は、近年『愚図の英断』(鷹匠裕著、笠間書院)でも再評価されているように、政治的安定と経済的公正のバランスを模索する現代日本に示唆を与えている。
■政治のきっかけは昭和恐慌
片山哲は戦後突然現れた政治家ではなかった。彼の政治キャリアは1930年代の昭和恐慌期にまでさかのぼる。
彼は経済政策の目的を一般市民の生活向上に置き、上からの経済回復ではなく、下からの購買力拡大による景気浮揚を目指した。この視点は、今日の分配政策や格差是正の議論に直結するものだ。
1929年10月、ニューヨーク株式市場の暴落から始まった世界恐慌は、巨大な津波となって日本経済を襲った。1930年から31年にかけての「昭和恐慌」は、日本社会の基盤を揺るがす壊滅的打撃をもたらした。

生糸や米の価格は半値以下に暴落。農村は悲鳴をあげた。「娘を売る村」「欠食児童」といった言葉が新聞を賑わせ、農家の自殺者が急増。都市部でも失業率が跳ね上がり、「窮民」と呼ばれる貧困層が社会問題になっていた。
このままでは日本の底辺層が崩壊する――。この危機感が、それまで分かれていた複数の無産政党(労働者や農民の政党)を統合へと動かした。
実際、1931年7月に労農党・全国大衆党・社会民衆党合同賛成派が合同し、さらに1932年7月24日に社会民衆党が合同して、「社会大衆党」が結成された。安部磯雄が委員長に、麻生久が書記長に就任し、片山哲は中央執行委員として党の幹部に名を連ねた。
社会大衆党の特徴は「現実主義」だった。マルクス主義政党が階級闘争や革命を主張する中、社会大衆党は現実的な政策提言による改革を重視した。「理論で飯は食えない」という当時の庶民感覚に寄り添い、具体的な生活向上策を打ち出したのだ。
■「民衆本位」という経済政策
弁護士経験を持つ片山哲は、この現実主義路線に共鳴した。
抽象的な理論より具体的な制度改革や政策実現を通じた社会変革を志向する彼の政治姿勢には、法律家としての実践的思考が影響していたようだ。
当時の政府は「高橋財政」と呼ばれる経済政策を展開。1931年12月に蔵相となった高橋是清は、金本位制からの離脱、積極財政、低金利政策の三本柱で日本経済の立て直しを図った。この政策は一定の効果を上げ、日本経済は1932年後半から回復基調に転じた。
しかし、その恩恵は大企業や軍需産業に比較的大きく及んだ一方、農村や中小企業、一般労働者の生活改善は限定的だった。
国家全体の経済回復と普通の人々の生活向上は必ずしも一致しないという認識から、社会大衆党は独自の経済政策を打ち出していく。その基本理念が「民衆本位」だった。
これは、経済政策の目的はまず一般市民の生活向上にあるべきだという考え方で、次のような具体策が提唱された。
・ 農産物価格を引き上げ、疲弊した農村の購買力を回復させる

・ 労働者の賃金を引き上げ、都市労働者の生活水準を向上させる

・ 中小企業向けの無担保低利融資を拡充し、地域経済を活性化する

・ 失業者を救済するための大規模公共事業を実施する
これらの政策の根底にあったのは「下からの経済回復」という発想だ。当時の政府政策が「上から」のてこ入れに重点を置いていたのに対し、社会大衆党は一般庶民の購買力を高めることで「下から」経済全体を活性化させようとした。
■党内対立をしてでも守ろうとしたこと
1930年代半ばの日本政治は、陸軍を中心とする軍部の影響力が急速に拡大し、政党政治の枠組みが根底から揺らぎ始めていた。国会の廊下では軍服姿の将校たちが目立つようになり、政策決定における軍部の発言力は日に日に強まっていった。

転機となったのは1934年10月、陸軍省による『国防の本義と其強化の提唱』というパンフレットの発行だ。このパンフレットは、国防を単なる軍事問題でなく、政治・経済・文化など社会全体に関わる概念として再定義する「総力戦体制」の思想を提示していた。
注目すべきは、現行の資本主義経済体制に対する批判的視点であり、これが社会大衆党内に波紋を広げることになった。
軍部の経済改革構想と社会大衆党の「民衆本位の経済」政策には一定の共通点があるとの認識から、書記長の麻生久や亀井貫一郎ら党幹部は軍部との協力関係構築に前向きな姿勢を示していった。
これに対し、片山哲を含む党内穏健派は、軍部の政治的影響力拡大に慎重な立場を取り、議会制民主主義の原則を守る必要性を党内会議で何度も指摘するなど、党内対立が深まっていった。
片山哲のこの時期の姿勢は、極端な対立を避け政策的実質を追求するという彼特有の現実主義に特徴づけられていた。背景には法律家としての経験から培われた「妥協による前進」という信念があったのだろう。
■片山だけが抱いていた危機感
1937年7月、北京郊外の盧溝橋での小さな衝突が全面的な日中戦争へと拡大する中、日本の国内政治は急速に戦時体制へと移行していった。街頭では「挙国一致」「尽忠報国」のスローガンが踊り、批判的言論への統制も強まっていた。
社会大衆党も1937年11月の党大会で綱領を大幅に改正。創立時の「労働者、農民、一般勤労大衆の生活擁護」という表現は影を潜め、代わって「国体の本義に基づく国民の進歩発達」という国家主義的表現が前面に出された。
この転換は「聖戦協力」の表明であり、実質的に階級政党から国民政党への路線変更を意味していた。

この変化をどう評価すべきか。一面では、戦時統制強化の中で政党として存続するための現実的適応という側面があった。同時に、党内で力を増していた親軍派幹部の影響力拡大という内部要因も見逃せない。
麻生久を中心とする親軍派は、「陸軍パンフレット事件」以降、軍部との協力関係を積極的に模索し、国家社会主義的方向への転換を主導していた。片山哲らの穏健派は表立った反対はしなかったものの、静かな危機感を抱いていたことが後の回想からうかがえる。
片山自身は、党の方針転換の中でも、可能な限り社会政策の視点を維持しようと努めた形跡がある。公然たる抵抗は避けつつも、「国民生活の擁護」という観点からの発言を続けることで、戦争協力一辺倒ではない独自の立場を模索していた。
■除名処分のきっかけ
1940年2月2日、帝国議会において立憲民政党の斎藤隆夫が行った「支那事変処理に関する質問演説」は、日本政治史上に残る転機となった。斎藤は日中戦争の長期化と見通しのなさを批判し、「聖戦」の名のもとに継続される戦争の実態を鋭く問うた。
これに対し軍部と親軍的政党は猛反発し、「聖戦の目的を冒涜するもの」として斎藤の処分を求めた。
議会では斎藤の除名決議案が提出され、社会大衆党内でも対応が大きな問題となった。党内の対立は深刻で、麻生久らの親軍派が斎藤への厳しい処分を主張したのに対し、片山哲・安部磯雄・西尾末広ら旧社会民衆党系の穏健派は、これに反対した。

彼らの多くは斎藤除名の本会議採決に際して不登院(欠席)という形で事実上の棄権を行った。この行動は単なる個別案件への対応ではなく、戦時体制下における言論の自由と議会政治の本質に関わる原則的立場を示すものだった。
穏健派のこうした姿勢に対し、党の主流となっていた親軍派は強く反発。3月10日、麻生久らの主導により、片山哲ら旧社民系の議員8名は社会大衆党から除名処分となった。この処分は片山にとって社会大衆党への参加から8年目での別離を意味した。
除名後、片山らは「十日会」を結成したが、間もなく解散。その後、彼は衆議院倶楽部を経て鳩山一郎率いる同交会に入った。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補するも落選し、政界からいったん退くことになる。
■吉田茂に勝利し総理の座へ
話は少しさかのぼるが、1938年に社会大衆党内で提唱された「国民の党」という構想が提唱されていた。これは、単なる政党再編ではなく、日本政治の再構築を目指す野心的な試みだった。この構想は、特定階級ではなく国民全体を代表する「一国一党」を目指し、「協同社会」の理念に基づく新たな政治体制を目指すものだった。
ただ片山哲は、こうした全体主義的方向性に内心では批判的だったと思われる。彼が求めていたのは、階級闘争ではなく社会調和を基礎とした民主主義的な改革であり、それは戦後の日本社会党結成時の「民主的社会主義」の理念につながるものだった。
終戦を迎えると、片山は政界に復帰し、1945年11月の日本社会党結成に参加。そして書記長、委員長と要職を歴任した。
1947年、片山は日本の首相となるが、その就任過程は驚くべきものだ。衆議院の首班指名選挙で、426名中420票という圧倒的支持を得ているのだ。2位の吉田茂と齋藤晃はわずか1票。この419票差は、今日まで国会史上最大の記録となっている。
しかし、この圧倒的数字の裏には複雑な政治事情がある。日本社会党と民主党、国民協同党が連立を組み、保守的な吉田茂政権に対抗する思惑。そして左右両勢力のバランスを重視する占領軍(GHQ)の意向がそれだ。片山内閣は、戦後日本の複雑な政治力学が生み出した産物なのだ。
■GHQの思惑と国内の意見の調整
日本国憲法下で初めて、かつ日本初の社会党党首を首班とする内閣の誕生は、戦後日本の新たな政治体制構築への期待を担うものだった。しかし、その前途は茨の道であった。
まず、社会党、民主党、国民協同党というイデオロギーも支持基盤も異なる三党による連立政権は、常に内部分裂の危機をはらんでいた。
特に経済再建の柱とした「炭鉱国家管理法案」は、党内外の意見対立から大幅な修正を余儀なくされ、内閣の求心力低下を招く。加えて、占領下という特殊な状況下、GHQの意向と国内の現実との間で常に難しい舵取りを迫られた。さらに、片山自身が率いる社会党内部の左右両派の深刻な対立も、政権の安定を揺るがした。
このような極めて困難な状況下、わずか9カ月という短期間ではあったが、片山内閣が残した足跡は大きい。
戦後の劣悪な労働条件の改善を目指した労働基準法の制定(1947年)、弱い立場にある子どもたちの権利と福祉を保障する児童福祉法の成立(1947年)、そして国民皆保険・皆年金制度へと繋がる社会保険制度調査会の設置(1948年)は、その後の日本の社会システムの根幹をなすものだ。
これらの画期的な法制度の実現は、GHQによる民主化指令が大きな推進力となったことは論を俟たない。しかし、その理念を日本の社会・経済の実情に即した具体的な法文へと落とし込み、国内の多様な意見を集約して成立させるまでには、片山内閣による困難な調整と粘り強い努力が不可欠だった。
■理想とされる政治文化を地で行く
決断が遅いと「グズ哲」と揶揄されながらも、彼が貫いたのは、特定のイデオロギーや党派の利益を超え、国民生活の安定と向上という共通の目標を見据える姿勢だった。
それは、対立ではなく対話を通じて合意形成を図り、一歩ずつでも社会を前に進めようとする戦後民主主義の理念を、手探りながらも実践しようとする試みに他ならない。
この困難な状況下での合意形成の努力と、生活者の視点に立った政策立案の経験こそが、その後の日本の福祉国家としてのあり方や、多様な意見を調整しながら国政を進めるという(理想としての)政治文化の「礎」の一つを築いたと評価できる。
彼の政権運営は、失敗も含め、戦後日本の民主主義が直面した最初の試練であり、そこから学ぶべき教訓に満ちた貴重な経験として捉え直す必要がある。
片山哲が、戦後の混乱期にあって貫こうとした「民衆本位」の精神と、合意形成を重んじた「漸進主義」。これらは、政治不信が深刻化し、社会の分断が顕在化する現代の日本社会にこそ、重要な示唆を与える。
■民主主義の根源的な問いへの格闘
短期的な成果を追い求め、対立を煽ることで支持を得ようとする風潮の中で、片山が示した異なる意見に耳を傾け、粘り強く対話し、共通の着地点を探るリーダーシップは、現代の政治家が改めて向き合うべき姿ではないか。
地球規模の気候変動対策から、国内の少子高齢化、持続可能な社会保障制度の構築に至るまで、国民的コンセンサスなしには解決し得ない課題が山積する。こうした時代に、彼の「調整」の努力は、民主主義を機能させるための、時間と手間を惜しまない誠実なプロセスであったことを教えてくれる。
また、広がる経済格差や構造的な課題に対し、彼の「民衆本位」の理念――政策の出発点を常に一般の人々の生活向上に置き、最も弱い立場の人々への配慮を忘れない姿勢――は、経済効率や市場原理だけでは測れない、政治が果たすべき役割を改めて問い直す。
片山内閣が築こうとした「戦後民主主義の礎」。その経験は、成功も失敗も含め、多元的な価値観が共存する複雑な社会で、いかにして公正なルールを形成し、社会全体の幸福を追求していくかという、民主主義の根源的な問いへの格闘の記録なのだ。

参考文献

高橋彦博「片山内閣の成立過程:救国民主連盟と吉田内閣打倒国民大会」『社会労働研究』第19巻第3・4号, 1973年, 99-152頁.

渡部亮「昭和新党運動の重層的展開」『社会雑誌』第132編第2号, 2023年, 1-37頁.

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堀内 進之介(ほりうち・しんのすけ)

政治社会学者

Screenless Media Lab.所長、東京都立大学客員研究員ほか。博士(社会学)。単著に『データ管理は私たちを幸福にするか? 自己追跡の倫理学』(光文社新書)『善意という暴力』(幻冬舎新書)『人工知能時代を〈善く生きる〉技術』(集英社新書)ほか多数、共著に『人生を危険にさらせ!』(幻冬舎文庫)ほか多数。翻訳書に『アメコミヒーローの倫理学』(パルコ出版)がある。

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(政治社会学者 堀内 進之介)

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