NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で家臣の妻を銃撃の的にしてみせた北海道南部の領主・松前道広(えなりかずき)。系図研究者の菊地浩之さんは「当時、北海道では米がとれなかったが、松前家は豊かで大名格となり、道広は吉原の遊女を落籍した」という――。
■「べらぼう」で蝦夷地をめぐる幕閣のかけひきが展開
湊源左衛門「蝦夷地(えぞち)を松前より召し上げてくださるなら、どのような労も厭いませぬ。松前道廣(まつまえみちひろ)は…あの男は北辺に巣くう鬼にございます」
田沼意知「鬼?」
(「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第20回「蝦夷桜上野屁音」より)
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」に蝦夷地の松前藩主・松前道広(廣)(1754~1831年)、その異母弟・松前広年(ひろとし)(1764~1826年)が登場する。道廣役が「渡る世間は鬼ばかり」で子役を演じていたえなりかずきで、広年を演じるのは、芸人のひょうろく。松前家は北海道で唯一の大名だ。本州の大名と違ったところがあるのだろうか。
俗に松前藩(北海道松前郡松前町)と言っているが、正式名称は福山藩というらしい。現在ではゴールデンウィークの桜の名所で有名な松前城も、正式には福山城というのだそうだ。
松前家は武田氏の末裔を自称している。武田氏といえば、甲斐(山梨県)の武田信玄が有名だが、鎌倉時代に源頼朝、南北朝時代に足利尊氏に属して武功を挙げ、甲斐の他にも安芸(広島県西部)、若狭(福井県南西部)の守護職に任じられた。松前家はこの若狭武田氏の末裔を名乗っているが、実際のところはかなり怪しい。
■道南を制した松前家は若狭武田氏の末裔だと名乗ったが…
陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡蠣崎(かきざき)村(青森県むつ市川内町)の土豪・蠣崎信広が蝦夷に渡って津軽安東(あんどう)氏(秋田氏)の支配下となり、長禄元(1457)年のコシャマインの戦いでアイヌ人を鎮圧したことによって安東氏から自立。蝦夷の南端(函館市の南西辺り)で勢力を誇るようになった。
信広の高孫(孫の孫)・松前慶広(よしひろ)は、豊臣秀吉に拝謁して松前地方の領有を認めてもらった。秀吉の死後、徳川家康に拝謁して松前と改姓した。
蝦夷地は米作ができないため、石高は決められなかった。藩(家)の財政はアイヌとの交易や金山による収入によっていた。だから、正確には大名とはいえない。
「最初に松前藩の石高が表示されたのは、延宝三年(一六七五)に出版された『武鑑』(一般向けの大名名鑑のようなもの)であり、『七〇〇〇石』と記載され、『交替寄合』の格式であった(中略)享保元年(一七一六)には一万石格の待遇を受けるとされ、ここでやっと大名待遇になった」(『北海道戦国史と松前氏』)。
■老中・田沼意次は松前家から蝦夷地を没収しようと考えたか
旗本は通常江戸在府であるが、上級旗本の中には領地に居館を構え、参勤交代を義務づけられている家があった。それを交代寄合(よりあい)という。1万石未満の準大名ともいうべき家柄である。
大名になれたのは、「べらぼう」でも描かれたように、蝦夷地を上地(あげち)(幕府に召し上げる)にした代替地の拝領によるものである。
■道広は社交上手で女好き、吉原の遊女を二度も落籍した
松前道広は明和2(1765)年に父の死去に伴い、わずか12歳で松前家8代目の家督を継いだ。前半生の藩政は重臣によって担われ、成人後も重臣に任せきりで、自らは趣味に没頭した。
後に述べる異母弟・蠣崎波響が多方面で才能を発揮したように、道広もまた「才智に優れ、撃剣・槍法・馬術などの武芸はもとより、書画・茶・香・音局などの雑芸に至るまで精を究めずしてその妙に至り、(中略)記憶力に優れていたため、一度これを聞くと、終身忘れなかったという。また性格が社交的で、島津氏、伊達氏、水戸(徳川氏)はじめ時の有力大名と積極的に交際した。しかし、幼少にして両親を失い、婦女子の手で成長し、良き師にもいなかったため、その性格はすこぶる放縦(ほうじゅう)で、愛憎が多く、傲慢(ごうまん)で(争い)事を好み、自尊心が強く、諸芸に手をつけたのも人の下にたつことを嫌ったからであったといわれる。また、色を好み、特に夫人が没したあとは、領内の美女を相次いで城中に挙げ、しかも、参勤の際、吉原の遊女を落籍し、これを松前に伴うこと二回に及んだという」(『三百藩藩主人名事典 第一巻』)。
■本当に素行不良で厄介者だった松前道広
田沼意次「オロシャ(ロシア)がわが国と交易したがっておるのか? 蝦夷はたしか……松前家の領地であったな」
三浦庄司「蝦夷地を天領となさるお考えはないかと……。そこにはあまたの金銀銅山が眠っておるそうで……。ここはひとつ、松前より蝦夷地を召し上げ、天領として、長崎のごとく港を開き、交易で大もうけ。さらに金銀銅山でも大もうけというのは!」
(「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第20回「蝦夷桜上野屁音」より)
松前道広は並外れた能力の持ち主であるが藩政に興味がなく、ハデ好み・社交的で雄藩大名と交遊が盛ん。
■田沼失脚後、松前家と蝦夷地はどうなったのか
しかし、天明7(1787)年に田沼が失脚。松平定信(寺田心)が老中首座に就任すると、蝦夷地開拓は中断。2年後の寛政元(1789)年に虐げられたアイヌ人が蜂起して国後・目梨(クナシリ・メナシ)の戦いが起こったが、松前藩によって鎮圧された。幕府は引き続き松前藩に蝦夷地統治を委任した。
寛政4(1792)年9月にロシア使節のアダム・ラクスマン陸軍中尉がネモロ(北海道根室市)に来航し、松前藩に交渉を求めた。10月19日に松前藩は幕府に報告。幕府は蝦夷地を統治するため、松前家への指導を強める方針を確認。その一環としてか、10月28日に道広は病気という建前で、39歳の若さで隠居させられた。
翌寛政5年に幕府は目付の石川忠房、村上義礼(よしあや)(佐野政言の義兄)を松前に派遣、ラクスマンと会見。当時、日本で唯一貿易を行っていた長崎に行くように命じた。
幕府は道広の素行不良に業を煮やしており、寛政11(1799)年に道広は江戸逗留(「勝手に出かけるなよ」ということ)を命ぜられ、文化4(1807)年にはロシアと内通して幕府転覆を狙っているとの嫌疑をかけられ、「永蟄居(えいちっきょ)」(「ずっと藩邸に籠もっていろよ」ということ)を命じられてしまう。
■異母弟・蠣崎波響はアイヌ絵を描いた画人・詩人として有名
「べらぼう」では松前広年という名で登場するが、実際は蠣崎(主馬(しゅめ))家500石の養子となり蠣崎広年。画号の波響の方が有名で、一般的には蠣崎波響と呼ばれる。広年は幼い頃から画に長じ、江戸に出て本格的に画を学んだ。
寛政元(1879)年の国後・目梨の戦いで、松前藩は反乱に与しなかったアイヌ首長12名を褒賞して、広年に肖像を描かせた。これがアイヌ絵で有名な「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」だ。松前藩は広年を上洛させ、夷酋列像を光格天皇に叡覧させ、藩の威信を回復させた。広年はのちに家老に列して上洛。当時、京都で最高の画家といわれた円山応挙(まるやまおうきょ)に弟子入りして評価を高めた。
■道広の孫・崇広は老中にまで出世した
幕末に、道広の孫・松前崇広(たかひろ)は3万石格の大名として遇せられ、寺社奉行から老中格兼海陸軍奉行を経て老中に登用された。外様大名でも老中になれるのか⁉ 驚く方もいらっしゃると思われるが、数人存在する(いずれも小藩の大名だが)。
外国船が往来する蝦夷地を本拠とするだけあって「崇広は、かねて洋式砲術を奨励していたため、外様大名であるにも関わらず抜擢を受けたものであろう。崇広の西洋かぶれは徹底していて、江戸城に登城する時も大刀(たち)はもたず、短刀とピストルを身につけていたという。(中略)英・米・仏・蘭公使の要求により、勅許(ちょっきょ)を得ずに兵庫開港を決めたため、朝廷から官位召し上げと領分への謹慎が命じられ、老中も罷免された」(『お殿様たちの出世』)。
道広の孫だけに、ハデな性格が買われたのだろうが、そのハデな性格で失脚してしまったのは因果応報と言うほかない。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)
■「べらぼう」で蝦夷地をめぐる幕閣のかけひきが展開
湊源左衛門「蝦夷地(えぞち)を松前より召し上げてくださるなら、どのような労も厭いませぬ。松前道廣(まつまえみちひろ)は…あの男は北辺に巣くう鬼にございます」
田沼意知「鬼?」
(「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第20回「蝦夷桜上野屁音」より)
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」に蝦夷地の松前藩主・松前道広(廣)(1754~1831年)、その異母弟・松前広年(ひろとし)(1764~1826年)が登場する。道廣役が「渡る世間は鬼ばかり」で子役を演じていたえなりかずきで、広年を演じるのは、芸人のひょうろく。松前家は北海道で唯一の大名だ。本州の大名と違ったところがあるのだろうか。
俗に松前藩(北海道松前郡松前町)と言っているが、正式名称は福山藩というらしい。現在ではゴールデンウィークの桜の名所で有名な松前城も、正式には福山城というのだそうだ。
松前家は武田氏の末裔を自称している。武田氏といえば、甲斐(山梨県)の武田信玄が有名だが、鎌倉時代に源頼朝、南北朝時代に足利尊氏に属して武功を挙げ、甲斐の他にも安芸(広島県西部)、若狭(福井県南西部)の守護職に任じられた。松前家はこの若狭武田氏の末裔を名乗っているが、実際のところはかなり怪しい。
■道南を制した松前家は若狭武田氏の末裔だと名乗ったが…
陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡蠣崎(かきざき)村(青森県むつ市川内町)の土豪・蠣崎信広が蝦夷に渡って津軽安東(あんどう)氏(秋田氏)の支配下となり、長禄元(1457)年のコシャマインの戦いでアイヌ人を鎮圧したことによって安東氏から自立。蝦夷の南端(函館市の南西辺り)で勢力を誇るようになった。
蠣崎村は陸奥南部地方(岩手県)の南部家の支配下にあった。南部家は武田氏と同祖の小笠原氏の末裔なので、ワンランク上の武田氏の末裔を名乗ったのかもしれない。
信広の高孫(孫の孫)・松前慶広(よしひろ)は、豊臣秀吉に拝謁して松前地方の領有を認めてもらった。秀吉の死後、徳川家康に拝謁して松前と改姓した。
蝦夷地は米作ができないため、石高は決められなかった。藩(家)の財政はアイヌとの交易や金山による収入によっていた。だから、正確には大名とはいえない。
「最初に松前藩の石高が表示されたのは、延宝三年(一六七五)に出版された『武鑑』(一般向けの大名名鑑のようなもの)であり、『七〇〇〇石』と記載され、『交替寄合』の格式であった(中略)享保元年(一七一六)には一万石格の待遇を受けるとされ、ここでやっと大名待遇になった」(『北海道戦国史と松前氏』)。
■老中・田沼意次は松前家から蝦夷地を没収しようと考えたか
旗本は通常江戸在府であるが、上級旗本の中には領地に居館を構え、参勤交代を義務づけられている家があった。それを交代寄合(よりあい)という。1万石未満の準大名ともいうべき家柄である。
大名になれたのは、「べらぼう」でも描かれたように、蝦夷地を上地(あげち)(幕府に召し上げる)にした代替地の拝領によるものである。
寛政11(1799)年に東蝦夷が幕府直轄領とされ、さらに文化4(1807)年には松前を含む蝦夷地全域が幕府直轄領とされた。松前家には代わりに武蔵国で5000石を与えられ、のちに3500両の支給、さらに陸奥梁川9000石(公称・1万8600石)となった。
■道広は社交上手で女好き、吉原の遊女を二度も落籍した
松前道広は明和2(1765)年に父の死去に伴い、わずか12歳で松前家8代目の家督を継いだ。前半生の藩政は重臣によって担われ、成人後も重臣に任せきりで、自らは趣味に没頭した。
後に述べる異母弟・蠣崎波響が多方面で才能を発揮したように、道広もまた「才智に優れ、撃剣・槍法・馬術などの武芸はもとより、書画・茶・香・音局などの雑芸に至るまで精を究めずしてその妙に至り、(中略)記憶力に優れていたため、一度これを聞くと、終身忘れなかったという。また性格が社交的で、島津氏、伊達氏、水戸(徳川氏)はじめ時の有力大名と積極的に交際した。しかし、幼少にして両親を失い、婦女子の手で成長し、良き師にもいなかったため、その性格はすこぶる放縦(ほうじゅう)で、愛憎が多く、傲慢(ごうまん)で(争い)事を好み、自尊心が強く、諸芸に手をつけたのも人の下にたつことを嫌ったからであったといわれる。また、色を好み、特に夫人が没したあとは、領内の美女を相次いで城中に挙げ、しかも、参勤の際、吉原の遊女を落籍し、これを松前に伴うこと二回に及んだという」(『三百藩藩主人名事典 第一巻』)。
■本当に素行不良で厄介者だった松前道広
田沼意次「オロシャ(ロシア)がわが国と交易したがっておるのか? 蝦夷はたしか……松前家の領地であったな」
三浦庄司「蝦夷地を天領となさるお考えはないかと……。そこにはあまたの金銀銅山が眠っておるそうで……。ここはひとつ、松前より蝦夷地を召し上げ、天領として、長崎のごとく港を開き、交易で大もうけ。さらに金銀銅山でも大もうけというのは!」
(「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第20回「蝦夷桜上野屁音」より)
松前道広は並外れた能力の持ち主であるが藩政に興味がなく、ハデ好み・社交的で雄藩大名と交遊が盛ん。
こんな厄介者が当主を務めていた頃、ドラマでの会話のように、田沼意次(「べらぼう」では渡辺謙が演じる)ら幕閣が蝦夷に並々ならぬ関心を寄せてきた。天明5(1785)年、田沼は腹心の勘定奉行・松本秀持(吉沢悠)に蝦夷地を調べさせ、蝦夷地開拓を企図した。
■田沼失脚後、松前家と蝦夷地はどうなったのか
しかし、天明7(1787)年に田沼が失脚。松平定信(寺田心)が老中首座に就任すると、蝦夷地開拓は中断。2年後の寛政元(1789)年に虐げられたアイヌ人が蜂起して国後・目梨(クナシリ・メナシ)の戦いが起こったが、松前藩によって鎮圧された。幕府は引き続き松前藩に蝦夷地統治を委任した。
寛政4(1792)年9月にロシア使節のアダム・ラクスマン陸軍中尉がネモロ(北海道根室市)に来航し、松前藩に交渉を求めた。10月19日に松前藩は幕府に報告。幕府は蝦夷地を統治するため、松前家への指導を強める方針を確認。その一環としてか、10月28日に道広は病気という建前で、39歳の若さで隠居させられた。
翌寛政5年に幕府は目付の石川忠房、村上義礼(よしあや)(佐野政言の義兄)を松前に派遣、ラクスマンと会見。当時、日本で唯一貿易を行っていた長崎に行くように命じた。
しかし、寛政8(1796)年にロシア船はアブタ(北海道虻田郡洞爺湖町)沖に出没し、沿岸で測量を行った。松前道広は既に隠居の身であったが、自ら甲冑を着てアブタに出陣。幸か不幸か、ロシア船が立ち去ったため、何もせずに帰陣した。
幕府は道広の素行不良に業を煮やしており、寛政11(1799)年に道広は江戸逗留(「勝手に出かけるなよ」ということ)を命ぜられ、文化4(1807)年にはロシアと内通して幕府転覆を狙っているとの嫌疑をかけられ、「永蟄居(えいちっきょ)」(「ずっと藩邸に籠もっていろよ」ということ)を命じられてしまう。
■異母弟・蠣崎波響はアイヌ絵を描いた画人・詩人として有名
「べらぼう」では松前広年という名で登場するが、実際は蠣崎(主馬(しゅめ))家500石の養子となり蠣崎広年。画号の波響の方が有名で、一般的には蠣崎波響と呼ばれる。広年は幼い頃から画に長じ、江戸に出て本格的に画を学んだ。
寛政元(1879)年の国後・目梨の戦いで、松前藩は反乱に与しなかったアイヌ首長12名を褒賞して、広年に肖像を描かせた。これがアイヌ絵で有名な「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」だ。松前藩は広年を上洛させ、夷酋列像を光格天皇に叡覧させ、藩の威信を回復させた。広年はのちに家老に列して上洛。当時、京都で最高の画家といわれた円山応挙(まるやまおうきょ)に弟子入りして評価を高めた。
また、詩人としても有名だった。
■道広の孫・崇広は老中にまで出世した
幕末に、道広の孫・松前崇広(たかひろ)は3万石格の大名として遇せられ、寺社奉行から老中格兼海陸軍奉行を経て老中に登用された。外様大名でも老中になれるのか⁉ 驚く方もいらっしゃると思われるが、数人存在する(いずれも小藩の大名だが)。
外国船が往来する蝦夷地を本拠とするだけあって「崇広は、かねて洋式砲術を奨励していたため、外様大名であるにも関わらず抜擢を受けたものであろう。崇広の西洋かぶれは徹底していて、江戸城に登城する時も大刀(たち)はもたず、短刀とピストルを身につけていたという。(中略)英・米・仏・蘭公使の要求により、勅許(ちょっきょ)を得ずに兵庫開港を決めたため、朝廷から官位召し上げと領分への謹慎が命じられ、老中も罷免された」(『お殿様たちの出世』)。
道広の孫だけに、ハデな性格が買われたのだろうが、そのハデな性格で失脚してしまったのは因果応報と言うほかない。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。
06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)
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