106万円の壁撤廃が盛り込まれた年金改正法案が衆議院を通過した。これはパートタイム労働者にとって喜ぶべきことなのか。
経済ジャーナリストの荻原博子さんは「106万円の壁が撤廃されても、週20時間の壁が出現する。パート主婦の手取りは減り、撤廃されてよかったとはならない」という――。
■「106万円の壁」が消え、より高い「週20時間労働」の壁出現
年金改正法案が、2025年5月30日に衆議院を通過し、6月22日の今国会会期末までに成立する見通しとなりました。
今回の改訂のキモと言われた基礎年金の底上げについては、今は選挙の前なので具体的な話は2029年に先送りされました。成立見通しの新たな法案の柱となっているのが、「106万円の壁」の撤廃という、パートで働いている人に大きく関わってくるものです。
「106万円の壁」とは、パートで働いている人が、雇い入れ企業の社会保険(※)への加入が義務づけられているラインです。

※本記事でいう「社会保険」とは、健康保険・厚生年金保険・介護保険・雇用保険・労災保険の5つの保険の総称。※前記事の「雇用保険」を「(狭義の)社会保険、労働保険」と呼ぶケースもある。パート労働者(非正規)の場合、雇用保険に加入していても社会保険(健康保険や厚生年金など)に未加入のケースもある。
2024年10月から、従業員51人以上の会社に勤め、年収が106万円(月額8万8000円)以上のパート労働者は、全員、その会社の社会保険に加入しなくてはならないことになっています。
現在、会社員の妻(※)(第3号被保険者)は、夫の加入している厚生年金などから保険料が負担されるので、130万円を超えない範囲なら夫の扶養とみなされ、妻である自分がパートなどで働いても社会保険料を支払わなくていいことになっています。
※本記事では、夫が会社員、妻がパート従業員のケースで解説(逆のケースもあり)。


ただし、会社員の妻が、従業員51人以上の会社でパート労働をし、年収106万円になると前述した条件に当てはまることになり、夫の扶養から外れなければなりません。そのうえ、雇い入れ企業の社会保険に加入しなくてはならないので、いきなり社会保険料として年約15万円が差し引かれ、手取りが減ることになります。
ですから、「106万円の壁」を撤廃すると聞くと、「壁がなくなれば、もっと稼げる。よかった」と思うかもしれませんが、実は「106万円の壁」が撤廃された後に、さらに高い「週20時間労働」という壁が出現するのです。
「週20時間の壁」とは、年収の壁よりも多くの人に影響を与える、労働時間の壁なのです。
■「週20時間以上働く人」すべてが社会保険に加入に
現在、パートで働く人は、下記の3つの条件を満たせば、雇い入れ企業の社会保険に加入することになっています。
①年収が106万円(月額8万8000円)以上

②従業員51人以上の企業に勤務

③労働時間が週20時間以上
今、検討されているのは、上記3つの条件のうち、③の「労働時間が週20時間以上」だけを残した後の2つ、従業員数と年収の条件は撤廃しようというもの。
これだと、確かに年収の壁は取り払われますが、従業員51人以上の企業という条件もなくなるので、労働時間週20時間以上のすべての人が社会保険に入らなくてはならないことになります。すべてといっても、実際には従業員5人以上といった事業所になる可能性がありますが、結果、新たに約200万人のパート労働者が企業の社会保険に加入することになると言われています。
■年金第3号なら支払いが増えて元も取れない
「労働時間週20時間」というのは、月にすると87時間です。
2024年の時間当たりの最低賃金は、全国平均1055円。なので、仮に全国平均の1055円で試算すると月9万1785円、年間約100万円を超えて働く人は、会社の社会保険に入るということになります。
ただ、最低賃金が1000円を超えているのは東京都、神奈川県、大阪府を含めた15都道府県だけ。秋田県などは時給951円ですから、秋田県で最低賃金で働いているパートなら、年収が100万円弱でも社会保険に加入し、パート代の中から年約15万円の保険料を支払うことになります。
もちろん、会社の社会保険は厚生年金なので、国民年金に加入しているサラリーマンの妻(第3号年金)や自営業者の妻に比べてれば、もらえる年金は多くなります。
これで、将来もらえる年金がどれくらい増えるのかといえば、10年間加入して社会保険料を合計で150万円支払ったとすると、65歳以降にもらえる年額で約5万円ほど増えます。ただ、今まで自分では社会保険料を支払わなくても国民年金に加入していることになっていたサラリーマンの妻からすれば、年間の支払いが増える割にはもらえないということで、100歳近くまで生きないと元が取れない人もいるでしょう。
もちろん、健康保険にも加入するので、病気の時には補償が厚くなりますが、ただ、目先のお金が欲しくて働いている人には、企業の規模に関係なく「週20時間以上働くと収入の1割以上の社会保険料を支払わなくてはならない」のは、ちょっとツラいかもしれません。
■自営業の妻、シングルマザーには朗報
会社員の妻でパートに出ている人の多くは、今までゼロだった保険料を給料から払わなくてはならなくなるので負担増になるかもしれませんが、自営業者の妻やシングルマザー、独身者などで、パート従業員として働いている人にとっては、逆に手取りが増え、補償も増えることになりそうです。
なぜなら、自営業者やシングルマザーなどは、収入に関係なく国民年金、健康保険の保険料を自分で負担しなくてはならず、この額がたとえば年収110万円だったら年間約25万円になります。これが15万円くらいで済み、さらに、将来もらえる年金も増え、病気で会社を休んでも傷病手当金が出るのですから、かえって喜ばしいことかもしれません。
今のところの予定では、従業員51人以上という企業規模が撤廃されるのが2027年10月から。2029年10月からは、個人事業所であっても5人以上の従業員がいたら加入の対象になります。
社会保険加入の

【主なメリット】
・厚生年金になるので、将来もらえる年金が増える

・健康保険になるので、病気で休んでも最長1年6カ月は、給料の3分の2が傷病手当金として支払われる
【主なデメリット】
・社会保険料をパート代から差し引かれるので手取りが減る

・企業によっては、扶養手当が支給されなくなる可能性も

■新たな「労働時間20時間の壁」で何が起きるか
では、企業側にとってはどうなのでしょうか。

これまでの従業員数51人以上という条件がなくなり、従業員5人以上の企業でも、パートを雇って「週20時間」以上働かせたら、パートが払うのと同額の社会保険料を支払わなくてはならなくなります。
ですから、保険料を払う対象が200万人も増え、しかもパートから収入の約15%、企業からも同額の保険料収入があれば、国の財政は潤うかもしれません。
ただ、そのぶん小さな企業にとっては、負担が増えます。
いま、企業にとって社会保険料は税金より重い負担になっています。社会保険料は企業と働く人で折半(労使折半)なので、従業員を1人雇うと企業は最低でも年間約15万円の社会保険料を払わなくてはならず、10人雇えば150万円を払うことになるので、もし「106万円の壁」がなくなって「週20時間労働」だけになったら、少しでも社会保険料を減らすために、パート従業員ひとり一人の働く時間を20時間以内に抑えるという会社も出てくる可能性もあります。
さらにこれからは、最低賃金も社会保険も適用されない単発雇用(ギグワーカー)も増えそうで、労働の不安定化が危惧されます。柔軟な働き方ができる半面、収入や社会的保障が安定しないのは将来への不安にもつながります。政府には、こうした労働者への社会保障整備や格差是正を含めた改革を期待したいものです。

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荻原 博子(おぎわら・ひろこ)

経済ジャーナリスト

1954年、長野県生まれ。経済ジャーナリストとして新聞・雑誌などに執筆するほか、テレビ・ラジオのコメンテーターとして幅広く活躍。難しい経済と複雑なお金の仕組みを生活に即した身近な視点からわかりやすく解説することで定評がある。「中流以上でも破綻する危ない家計」に警鐘を鳴らした著書『隠れ貧困』(朝日新書)はベストセラーに。
知らないと一生バカを見る マイナカードの大問題』(宝島社新書)、『5キロ痩せたら100万円』『65歳からはお金の心配をやめなさい』(ともにPHP新書)、『年金だけで十分暮らせます』(PHP文庫)など著書多数。

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(経済ジャーナリスト 荻原 博子)
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