89年の人生を野球人として駆け抜けた長嶋茂雄氏。74歳のときに「野球は天職だった。
また、選手時代から絵も好きで、美術館などへ足を運んでいる。そうした好奇心がシニアになってからも気持ちの若さを保ってくれた」と語った――。
※本稿は長嶋茂雄『野球人は1年ごとに若返る』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■68歳で脳梗塞になり、健康の価値を再認識
仕事から引退することはあっても、人生からの引退はありません。
ですから毎日が前進です。
日々をいきいきと過ごしたいものです。 
それには「気持ちはいつも前向きに」とつくづく思います。
こんなことを意識したのは、思いもかけない病にかかってからです。
若いころから健康には細心の注意を払っていた自負があります。タバコは風邪で喉を痛めた選手時代の1970年にやめてしまったし、酒もほとんど飲みません。食事も腹八分目を守ってきました。「ファンのためには休めない」という職業上の義務感もありましたが、身体も気持ちも健全に保つことが本能のようになっていた。
選手時代の身長177センチ、体重77キロはいまも変わりません。それでも病気になるのですから、怖いものです。
■オリンピック代表監督としてイタリアへ
さて、そこでわれらシニア世代の毎日の過ごし方です。仕事熱心だった人ほど、引退後は日々の張り合いを失って老け込んでしまうと言われます。けれども私はそうならなかった。好きな野球が仕事だった、天職だったという幸運がまずあります。
野球は1年を通して刺激を与え続けてくれる。レギュラーシーズンからポストシーズンの試合、オフのストーブリーグ、そしてキャンプ、オープン戦とカレンダーは一年じゅう野球で詰まっています。プレーや指揮から離れても、気持ちの上でいつも野球と一緒になっていられる。これがラッキーでした。
もっとも私は好奇心が人一倍です。アンテナがいつもクルクル回っている。
野次馬精神旺盛、自分でも年齢のわりに気持ちは若いと思います。野次馬が走った例を挙げてみましょうか。
アテネオリンピックの代表監督をしていた2003年のことです。翌年のオリンピック本番では、チームの時差調整をイタリアでやってアテネに乗り込むことにしていたので、その下調べで9月に、背広組スタッフ数人と現地に飛びました。
■ミラノでダ・ビンチの名画を見たくなった
イタリア野球連盟の口利きでオリンピック用の練習場、ホテルを押さえギリシャへの移動……と、かなりきついスケジュールだったのですが、ミラノで好奇心に火がついた。近くの修道院に『最後の晩餐』の壁画があるのに気がついたのです。
レオナルド・ダ・ビンチの世界の名画ですね。保存のため見学は予約制で一日に何人だかと決められているのですけれど、拝み倒して「一人ならば」と“拝観”のチャンスをもらいました。画集でおなじみとはいっても400年前の壁画ですから、色彩もはっきりしない古色蒼然たるものです。細部は画集のほうがよくわかるような気がしましたけれど、定められている見学時間は15分、「これが本物か」と感激しました。
■好奇心旺盛でいることが「気の若さ」の秘訣
これが倒れる前で、病後はリハビリを積み、歩くのに自信がついた4年目の2008年の春になります。東京・六本木に完成した国立新美術館で大がかりなモディリアーニ(私たちの世代は、モジリアニと言っていました)展があるのを知って、たまらなくなりました。
モディリアーニが描くアーモンド型の目と首の長い、一度観たら忘れられない人物像が昔から好きだったのです。内覧会に加えてもらい駆けつけ、150点の作品を堪能しました。
絵は選手時代から好きで、画集で眺め、解説の画家の評伝を読むなど、ずっと興味が続いています。倒れる前と倒れた後、どちらも悪条件の中で気持ちに火がつき、我慢できなくなり、直感的に行動に移した名画の見学だったのです。趣味(自分の好きなこと)がいかに気持ちを前向きにするか、身をもって体験しました。
よく趣味を持つことの大切さを耳にします。なるほど、こういうことなのだなと納得しました。何も絵に限ったことではない、新聞やテレビで面白そうなことを見聞きすると野次馬の気持ちが動き出します。これは子どもの好奇心と同じ、だから気が若いのでしょう。
(2010年12月1日)
■監督浪人中は世界のあちらこちらを旅した
仕事柄、日本国内の主な都市はほとんど行きました。好きなところもたくさんあります。
しかし、自由に出歩けるかというと、制約されてしまう。
人の山になってしまうんです。
自由に歩き回れるのは海外です。そんな旅を堪能したのはユニホームを脱いでいた1980年代の“浪人中”でした。アメリカ、ヨーロッパはもちろん、好奇心が旺盛ですから、キューバ、中国、アフリカにも足を延ばしました。さらには難民キャンプや、韓国と北朝鮮が対峙する軍事境界線まで出かけました。
もっとも、30年も前の思い出話を並べても仕方がない。いまは世界のあらゆる街から秘境にまでツアー網が張り巡らされています。どこにだって行けますから。さらに、テレビのドキュメント番組がある。お茶の間で世界遺産でも最高級レストランでもアルプスの頂上でもすごい映像で見られます。知識が増えて、便利なことこの上ない。
■トラブルも含めて「旅」、生の体験にこだわる
けれどもこの便利さ、手軽さは“落とし穴”でしょう。
アフリカの最高峰・キリマンジャロ登山ツアーのドキュメントを衛星放送でやっていました。かつてタンザニアの平原からはるかに望んだ峰の記憶とダブり、食事に困って日本から持って来たインスタントラーメンを食べていたことを思い出しました。
キリマンジャロに関する情報量では、我が記憶はテレビにはとてもかなわない。しかし、インパクトの度合いは、たとえハイビジョン映像が3Dだったとしても、「インスタントラーメンとキリマンジャロ体験」の足元にもおよびません。
ショッピングでもそうですね。日本の大都市ならニューヨークやローマ、ベネチア、パリなどの世界の名店の品物が買える。通販もある。しかし、小銭入れ一つでも現地の本店で手に入れた品は、銀座で手に入る品とまったく同じでも、その人にとって価値は全然違う。体験した旅のトータルが、現地で買った小銭入れに詰まっているからです。
国内でも外国でも旅先での一度の体験は、映像で見たり、本で読んだりで得た大量の情報、知識にまさります。
その意味で、気になっていることがあります。これは「旅」とは言えないかもしれませんが、最近しきりに言われる若者の“内向き”姿勢です。
グローバル化の時代にこれは困ったことです。留学生の数など激減しているそうです。これから国の将来を担う若者が「引きこもり」で液晶画面やインターネットの情報だけでは豊かな感性を持った幅広い人間ができるはずがない、と思います。
柄にもないことを口にしましたけれど、旅は面白く楽しいが、お金も時間もかかるうえ、不便さが伴い、思いもかけない面倒も起こる。だから旅先での出来事はささいなことでもいつまでも忘れない。だから旅は人間を豊かにしてくれるのです。
(2011年2月1日)
■父は「富士山のような日本一になれ」と言った
私は、富士山が大好きです。
日本の主役は富士山。昔から今にいたるまで、和歌や俳句に詠まれ、詩が作られ、小説に書かれ、唱歌で歌われ、絵画、工芸の素材とされ、切手、お札になり、さらに酒や食品の名に……と、それこそ日本のありとあらゆるものにあの秀麗なお山が登場する。外国でも「フジヤマ」は「ジャパン」の紋章扱い。“日本の主役”なればこそ、です。
立教大学1年生の6月でした。「シゲオ カエレ チチキトク」の電報を受けて、野球部合宿から佐倉の実家に駆け付けました。父の最後の言葉が「野球をやるからには六大学一の選手になれ。プロに行っても富士山のような日本一の男になれ」でした。「富士山のような」に込められた深い意味は、日本人ならあれこれ説明抜きで、すっと心に入ってくるはずです。
故郷の(千葉県)佐倉からは富士山は見えません。それでも幼児のころから富士山の姿は知っていたような気がしています。たいていの日本人がそうですね。
初めて富士山を眺めたのがいつかは憶えていませんが、私が大学生のころの東京は高いビルも少なく、特に空が冴え返る冬には富士山が思いがけない場所からも遠望出来ました。そのたびに、父の言葉を思い出し、気が引き締まると同時に、元気をもらったものです。
■オフシーズンは富士山を眺めながら過ごした
選手時代のオフは、富士山を眺めて過ごしました。山籠りの鍛錬の場に選んだのが箱根・仙石原と伊豆の大仁だったからです。それぞれ5年間、17年の選手生活のうち計10年間を富士山に見守られていました。時にホテル、時に山荘、時に旅館と変わっても、どこでも富士山が窓いっぱいに広がる部屋が決まりです。
がむしゃらにバットを振り抜き、山道を走り、鍛えに鍛え抜く冬の日々、朝日を浴びる富士山から一日をスタートする気力をもらい、苦しいトレーニングに息を切らせ、くじけかけた時は、どっしり構えた雄大な山容から勇気と励ましを受け取り、疲れた体を湯船に沈める夕は夕陽に染まる赤富士を眺めることで疲労が消えて、身も心も癒されたものです。
富士山を眺めて、心がしおれてしまう人は、まずいないでしょう。誰もが元気をもらうのが自然ですけれど、私にはその思いが人一倍です。富士山に向かい合うたびに、腹の底から大声で叫びたくなってくるほどです。逆さ扇のやさしい姿でありながら、いつ噴火するかわからない火山の底知れぬ力強さを秘めているのもたまりません。我がパワースポットなんですね。
■油絵で富士山を描いたときの思い出
いつも富士山に接していたい気持ちが高じて、富士山の油絵を描いたことがあります。
燃えるような富士山を中心に色彩の乱舞の絵で知っていた絹谷幸二先生に「ひとつ描いてみませんか」と誘われて、初めてキャンバスに向かいました。
富士山、太陽、裾野のゴルフ場と構図を決めて力いっぱい描きました。絹谷先生の指導と監修を得て我が作品、『新世紀生命(いのち)富士』が完成したのですが、富士山がテーマでなかったら筆は取らなかったでしょう。
富士山画といえば、葛飾北斎から横山大観を代表に、さらにはぐっと大衆的に日本中の銭湯のペンキ絵は年賀状の図柄並みに定番ですね。我が作品も連綿と続く伝統の富士山画に連なりました。気宇壮大になります。
富士山を世界遺産に登録しようという活動が続けられています。大賛成です。日本の宝から世界の宝に、いいですね。そうなれば、さらに元気がもらえそうな気がします。(編集部註:2013年に世界文化遺産登録された)
(2012年1月4日)
※『野球人は1年ごとに若返る』はセコムが運営するウェブサイト「おとなの安心俱楽部」掲載のインタビュー記事「月刊長嶋茂雄」(2010年11月~2015年12月)の内容に基づいています。

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長嶋 茂雄(ながしま・しげお)

読売巨人軍終身名誉監督

読売巨人軍終身名誉監督。1936年千葉県生まれ。立教大在学中は東京六大学野球の新記録(当時)となる8本塁打を放つ。1957年巨人軍に入団。背番号3。入団の翌年本塁打、打点の二冠を獲得し新人王を受賞。MVP5回、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回、ベストナイン17回。「ミスタージャイアンツ」と呼ばれる。1974年の現役引退後、巨人軍監督に二度就任し、5回のリーグ優勝、2回の日本一に導いた。2005年文化功労者。2013年国民栄誉賞受賞。2025年没

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(読売巨人軍終身名誉監督 長嶋 茂雄)
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