朝ドラ「あんぱん」(NHK)では、嵩(北村匠海)が“のぶ”(今田美桜)とついに結ばれ、東京で新生活を送る。嵩のモデルである、やなせたかし氏の評伝を書いた青山誠さんは「妻となった小松暢さんは漫画家を目指すやなせ氏を養うと宣言するが、慎重なやなせ氏は生活の安定を求めて三越宣伝部の社員となる」という――。

※本稿は青山誠さん『やなせたかし 子どもたちを魅了する永遠のヒーローの生みの親』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
■漫画家になる夢を追いかけたいという葛藤
夢を追いかけるよりも、まずは生活を安定させること。自分も早く就職せねばならない。高等工芸学校や田辺製薬時代の知人の伝手で図案制作のアルバイトをしながら、やなせは就職口を探した。
暢(のぶ)の言葉に甘えて、就職せず漫画を描くことに集中する。夢を実現するにはそれが近道かもしれないのだが、しかし、それは危険な道でもある。どこの出版社にも採用されず、暢に依存する「ヒモ」のような暮らしをつづけて、あげくに彼女に捨てられたらどうなる? そうなったらもう終わりだ。自分の脆弱な神経は耐えられないだろう。
強風に乗れば雲は速く流れるが、風の勢いで引き千切れて四散するかもしれない。それよりは、心地好いそよ風が吹いてくるのを待とう。ゆっくり運ばれて行くほうがいい。それが自分らしいやり方だ、と。

■三越が宣伝部員を募集、面接官が同郷
上京してから半年以上が過ぎた頃。三越が宣伝部を拡充するために社員募集をしているのを知り、やなせはすぐこれに応募した。給与や待遇は良く、大手企業なだけに潰れる心配はまずない。ここに就職すれば、望んでいた生活の安定を手にすることができる。
入学試験や就職試験では不思議とツキに恵まれる。この時もそうだった。口頭試験の面接をした重役が、たまたま同郷の高知県出身者。仲間意識の土地柄だけに、その重役の強い推しで採用が決まった。
三越は、戦前に勤務していた田辺製薬と同じ日本橋にある。懐かしい場所だった。空襲で大きな被害をうけたと聞いていたのだが、河畔に建つ赤レンガの帝国製麻ビルと白い花崗岩で造られた日本橋の美しいコントラスト、日本橋エリアを象徴する景観は健在だった。それを眺めてほっとひと安心する。

帝国製麻ビルの先には、屋上に尖塔がそびえる三越本店が見えた。この眺めもまた変わらない。それどころか、周辺には戦後の焼け跡に建てられた粗末な木造建築が増え、ルネッサンス様式の建造物が戦前よりもいっそう巨大で立派に映る。
■日本橋の三越も戦後はボロボロだったが…
しかし、館内に一歩足を踏み入れてがっかりさせられた。物資不足で建物のメンテナンスができず、壁の壊れた箇所はベニヤ板や切れ端の木材で塞いだ応急処置でごまかしている。また、どこの売り場もガラスケースの中はすかすかで空き場所だらけ。食品売り場には乾物や漬物しかなく、まるで下町の商店のような有様だった。これが日本を代表する百貨店の現状、終戦直後からの極限状態がまだつづいていることを思い知らされる。
陳列できる商品がなく、スペースが余っている。上の階は事務所として使われ、やなせが勤務する宣伝部もその一角にあった。
「商品がないのに、なにを宣伝するのだろう。仕事なんてあるのかな?」
殺風景な売り場を見てそう思ったのだが、企業が無駄な人員を雇うはずがない。

この頃から日本は凄すさまじい勢いで復興してゆく。この年には食料事情がしだいに良くなり、寒くなっても餓死する者はいなくなった。飢える心配がなくなれば、人々はお洒落(しゃれ)にも関心を向けるようになる。綿花の輸入が再開して大量の原料が輸入され、色鮮やかな布地が市場に出回りだすと女性たちの間では洋裁がブームに。街にはカラフルな洋服姿が増えて、戦時中や終戦直後にはよく見られたモンペ姿が少数派になっている。
■包装紙「Mitsukoshi」のロゴを書く
年が明けた頃には、三越の売り場もしだいに商品が充実してきた。催事がさかんにおこなわれるようになり、宣伝部もポスターやパンフレットなどの制作で活気づいてくる。包装紙が刷新され(編集部註:画家・猪熊弦一郎の図案)、その仕事にはやなせも関わった。包装紙の筆記体「Mitsukoshi」のロゴは彼の手によって描かれたものだ。
それなりに仕事をしていたようではある。しかし、この会社に長居する気はない。イラストやカットを描く副業をやるようになり、雑誌や新聞が募集する懸賞漫画にもさかんに応募していた。
それで腕を磨きながら、漫画家として独立するための資金を貯める。準備が整えばすぐに辞表を提出するつもりだった。
そういった考えは言葉や態度にも出てしまう。会社の仕事はそっちのけで副業の漫画を描く。上司が見ていようがまったく気にしない。私用電話をかけまくり、しょっちゅう席を離れていなくなる。本館内の劇場で演劇を観たり、近くの喫茶店で息抜きしている姿がよく目撃された。
「生意気なヤツだ」
と、反感を覚える者も少なくなかったようだが、気にしない。
「社畜のお前らとは違うのだよ。こんなところすぐ辞めて、ぼくはビッグになるんだ」という、感じだろうか。反抗的な態度を取っていることは自覚している。不良を気取っていた10代の頃と同じで、悪い癖が再発している。

学校や会社など、集団の中にいると地味で目立たない存在になってしまう。それが嫌でつい虚勢を張って不良を気取ったり、空気が読めない自己主張をしたり。と、少し“面倒臭いヤツ”になっていたようだ。
■30歳間近になっても、漫画家にはなっていなかった
この頃もまだ、晩年のやなせとは雰囲気が違う。
もうすぐ30歳になろうというのに、いまだプロの漫画家になれずにいる。自分よりも若い漫画家たちの活躍に、妬みや焦りがあったのかもしれない。ちょっと心がすさんでいたようだった。
サラリーマンなんかやっている場合じゃない。本気で漫画に取り組まねば、先行する連中との差がさらに開いてしまう。そよ風が吹いて来るのを待って、のんびりやって行こうという自分の選んだ道なのだが……それが、本当に正しかったのか。悩む。
■医学部在学中の手塚治虫が鮮烈なデビューを飾る
やなせの上京とほぼ同時期、昭和22年(1947)1月には手塚治虫の『新宝島』が刊行された。

終戦直後から昭和30年代頃まで“赤本”と呼ばれる読み切りの漫画本が、関西を中心に数多く出版されている。『新宝島』の版元も赤本を手がける大阪の零細な出版社だった。その読者対象は主に小学生で、通常の書籍販売ルートを通さずに駄菓子屋やオモチャ屋などの店に並べて売られていた。子どもの小遣いで買える安価な本だからコストはかけられない。赤みを帯びた安っぽいペラペラの紙が使われ、それが語源になったといわれている。
大手の出版社から発行される雑誌や書籍と比べて、赤本の発行部数はかなり少ない。普通は世間の話題にもならないのだが『新宝島』は違った。発売と同時に凄まじい勢いで売れ、版を重ねて40万部を刷ったという。赤本漫画としては異例、それどころか、当時の出版界でも驚異的な数字だった。
これで手塚の名声は一気に高まり、東京の大手出版社からも依頼が殺到するようになる。当時、彼はまだ大阪大学附属医学専門部で学ぶ19歳の学生だった。同じセミプロ、しかも、やなせとは9歳年齢差がある若者だ。それが漫画界の話題をさらっているのだから、当然、意識しただろう。自分の状況がもどかしく感じられる。
終戦直後からずっと出版ブームがつづいている。戦時下では言論統制にくわえて紙の供給が滞って出版社は新刊本が出版できず、読者も読みたい本が読めなかった。双方にストレスが溜っていた。終戦を契機にそれが爆発したのだろう。焼け野原の街で空腹をかかえながら、人々は本や雑誌をむさぼり読むようになる。
戦前は203社だった出版社の数が、昭和22年(1947)には3446社に増えている。漫画雑誌の再刊や新創刊が相次ぎ、描き手の需要が高まっていた。副業漫画家のやなせにも雑誌のカットなどの依頼が増えて、給料よりもそちらの稼ぎが多くなっている。
「もう会社辞めても大丈夫、かな?」
自分も本職の漫画家になろう。ついに重い腰をあげることにした。汽車に乗り遅れるな、いま決断しなければ、本当に置いてきぼりなってしまう、と。

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青山 誠(あおやま・まこと)

作家

大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。

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(作家 青山 誠)
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